レナート
東京拠点 午後五時〇〇分。
リヴァの端末が震えた。
共用スペースのソファに座ったまま画面を見ると、ルカからだった。
『レナート教授、明日ローマ戻るんだって』
続けて、もう一件届いた。
『帰る前にリヴァと話したいって。セオドール神父のことって言ってたけど、大学で会っただけじゃなかった?』
リヴァの指が止まった。
『何の話』
『そこまでは聞いてない。昔の資料いくつか持ってきてるみたい』
『どこ』
少しして、ホテルの名前と場所が送られてきた。
『夜なら空いてるって』
『んー』
『日向教授なんとか巻いて、俺も行こうか?』
『平気。行くって伝えて』
『そっか』
その後にうさぎが手を合わせて祈っているスタンプが届いた。
『気をつけてね』
リヴァはそのメッセージを見てから、画面を閉じた。
会議室の扉が開いて、アルノが出てきた。端末とファイルを片手に持ち、眼鏡を押し上げながら共用スペースを横切ろうとする。
「アルノ」
足が止まった。
「なんですか」
「出てきていい?」
アルノがリヴァを見た。
「……どこへですか」
「レナートの所」
三秒ほど間があった。
「目的は?」
「話したいことがあるって」
アルノはファイルを脇へ挟んだ。
「ローマの研究室のこと」
アルノはしばらくリヴァの顔を見ていた。
「何時ですか」
「夜ならいつでもいいって」
ソファの反対側で本を読んでいたカイが顔を上げた。
「俺が行く」
アルノがそちらを見た。
「アオイに頼みます」
「……」
「あなたが圧をかけたら、引き出せる話も引き出せなくなるからです」
カイが本を閉じた。
「だが相手はあの教授だろ」
「身元は確認済みです。現在、日本国内で警戒情報はありません。リヴァには位置情報を維持してもらい、アオイを同伴させます」
カイはリヴァを見た。
アルノが端末を二度叩いた。
「ホテル内で別行動になったらアオイには所在を伝えること。端末の電源は切らないでください」
「わかった」
「何かあれば?」
「すぐ帰る」
「よし」
アルノはもう一度リヴァを見てから、会議室へ戻っていった。
カイはまだこちらを見ていた。
品川 ホテルラウンジ 午後九時四十五分。
ホテルのラウンジは天井が高く、窓の向こうに街の灯りが並んでいた。
レナートは窓際の席にいた。
濃いグレーのジャケットに、白いシャツ。眼鏡は首から下げている。テーブルには小さなエスプレッソカップが一つあり、その横にシルバーのシガレットケースが置かれていた。
リヴァが近づくと、レナートが立ち上がりリヴァにハグをして両頬にキスをした。
「こんばんは。会いたかったよ」
レナートの視線が、その後ろへ移った。
アオイが少し離れた場所で立っていた。黒いパンツに紺のシャツ、薄いジャケットを羽織っている。
「彼は?」
「私一人だと外でちゃダメなの。だから付き添い」
レナートが目を細めた。
「なんて可哀想に」
アオイが会釈した。
「森です。自分は向こうにいるので……何かあれば呼んでください」
「君は彼女の自由を制限している自覚はあるのかい?」
「え……」アオイが口を開いたまま固まった。
「なんだい?」
「……自分はもう死んでる者として接してください……」
「私と話ができないと?」
「死んでるので……」
レナートは特に何も言わず、目も合わせなかった。
アオイが離れた。
リヴァは少し笑って、レナートの向かいへ座った。
「セオドール神父のことって」
レナートは困ったように笑ってから、エスプレッソを一口飲んだ。
「その前に何か飲む?私はお酒は飲まないけど、好きにしていいよ」
「いらない。神父のこと教えて」
「君はまっすぐでかわいいね。何から聞きたい?」
「何者なの」
レナートの指がカップの縁で止まった。
「難しい質問だね」
「元教え子なんでしょ」
「そうだよ」
レナートは椅子の背へ少し身体を預けた。
「非常に優秀だった。研究室へ来た時から、扱いに困るほどね。こちらが一つ渡すと、三つ先まで勝手に進んだ」
「ルカみたい?」
レナートは人差し指をたてて、唇に二回当てた。
「似ている部分はある。でも、ルカの方がせっかちだね。最短を選んで進んでいくかんじが」
レナートは窓の外へ目を向けた。
「セオは視野が広かった。……いつもどこか遠くを見ていたよ」
リヴァは黙っていた。
「同じ部屋にいるのに、そこにいないような時があった。話しかければ返事はする。研究もする。食事もする。でも、次の朝にはいなくなっていても不思議ではないように見えた」
「それで、本当にいなくなった?」
レナートは指先で眼鏡のフレームに触れた。
「大学院を出て、バチカン側へ戻った。彼は司祭だったから」
リヴァが顔を上げた。
「少し複雑な経歴だったけれど、信仰そのものは昔から持っていた。大学へ来た頃にはもう、その道へ戻るつもりだったんだと思う」レナートが言った。
リヴァはテーブルの上で指を組んだ。
「財団に行ったのは?」
「修了後だ。文化財保護の仕事と研究を繋げると言っていた。実際、その後も私のところへ機材を借りに来たし、共同研究も続けた。論文にも何度か名前を入れているよ」
「…それで、今は連絡つかなくなったの?」
「つかない」
「いつから?」
「君たちがローマを出る少し前からだ」
レナートが薄く笑った。
リヴァはしばらくレナートを見た。
「恋人だったの?」
「以前はうちに住んでいたけど。そう呼んだことはないね」
「じゃあ恋人じゃないの」
「身体の関係があれば、そうなるのかな?」
「……神父様なのに?」
「まあ……良くはないのかもね」
リヴァは少し眉を寄せた。
「普段何考えてたとかは?」
レナートは少し考えた。
「それが分からなかったから、今でも気になるのかもしれないね」
リヴァはテーブルの下で脚を組み直した。
レナートは視線を戻した。
「外に好きな人でもいたのかな、と思ったことはある」
「どういうこと」
「……分からなかった」
「聞かなかったの」
「聞いたことはある。答えなかった」
リヴァの目が細くなった。
レナートはシガレットケースを指先で少し動かした。
「帰ってこない夜もあった。翌朝になると、何事もなかったように大学へ来る。どこにいたのか聞いても、笑うだけだった」
レナートは楽しそうにリヴァを見た。
「笑うと綺麗だった」
「顔が綺麗なのは見たからわかる」リヴァが言った。
レナートが少し黙ったあと、笑った。
「やっぱり会ってたんだね」
リヴァは答えなかった。
レナートの笑みが消えた。
「どこで?」
「……大学で」
「なんだか怖がっている?セオに対して」
「……」
「聞き取り調査されている時、セオの話まで出たから変だと思っていたんだよ」
リヴァは黙ったまま、テーブルに置かれたエスプレッソの皿を見ていた。
「案の定、セオのことを聞きたくて君はここにまできた」
「……」
「昔の資料なら上にあるよ」レナートは言った。「どうする?」
リヴァが顔を上げた。
「……見る」
「ああ、かわいいね」
レナートは立ち上がった。
リヴァも椅子を引いた。
アオイは二人が客室階へ上がると聞いて、一度天井を見た。
「アルノに連絡します」
端末を取り出した。
「下にいます。部屋番号だけ教えてください」
レナートがアオイを見た。
アオイは端末へ視線を落とした。
「連絡だけ出てください。本当にお願いします」
「わかった」
エレベーターの扉が閉まった。
アオイは画面に文字を打ちながら、小さく息を吐いた。
レナートの客室。
窓の外に東京の灯りが広がっていた。
机の上にはノートパソコンと書類の束が置かれている。レナートはジャケットを脱ぎ、椅子の背へ掛けた。首から下げていた眼鏡をかけ、ファイルを一冊取り出した。
リヴァは机の横へ立った。
レナートが数枚を抜いた。
「これが修了前」
古い論文のコピーだった。
余白に細い字で書き込みがある。
「レナートの字?」
「そう」
次の紙には、若い頃のセオドールが研究設備の前に立っている写真が挟まっていた。
白に近い髪は今より短かった。細い身体で、こちらを見ていない。
レナートが写真の端へ指を置いた。
リヴァは写真を見た。
「何研究してたの」
「記憶と行動反応。その周辺だね。途中から私の専門から少し外れたことも勝手にやっていた」
「それは?」
「刺激を受けた時に、本人の説明より先に身体がどう動くか。記憶が曖昧な場合にも反応が残るか。そういう研究だよ」
リヴァの指が写真の端で止まった。
レナートがそれを見た。
リヴァは写真を戻した。
「他は?」
「まだ見たい?」
「うん」
レナートは別のファイルを開いた。
数ページめくってから、手を止めた。
「君はセオと何があったんだい?」
リヴァは顔を上げた。
「……」
「彼が今どこにいるか知ってる?」
「…知らない」
「私は随分話したけれど。不公平だと思わない?」
「……」
レナートはしばらくリヴァを見た。
眼鏡を外し、机の上へ置いた。
リヴァはファイルを見ていた。
レナートが一歩近づいた。
「君は、私が君のことを気に入っていると、気づいてる?」
レナートは笑った。
距離が縮まった。
リヴァは動かなかった。
レナートの指が、リヴァの髪の横へ触れた。頬には触れず、細い毛束を指先へ乗せる。
そのまま指が離れなかった。
「君は狙撃手って言ったね」
「うん」
「…どうして狙撃手になったんだい?」
「わからない。……記憶がないから」
レナートはリヴァの顔を見た。
間があった。
リヴァの髪に唇を触れさせた。
「君を抱きたい」
リヴァは少し目を上げた。
「資料、持っていっていいよ」レナートが言う。
「……わかった」
レナートの指が止まった。
「……わかった?」
間があった。
「……私は、交換条件を出したつもりはなかったんだけど」
「でも、したいんでしょ?」
レナートは何か言いかけ、やめた。
リヴァの顎へ指を添え、顔を上げた。
「返せるもの、ないから」
「……君は本当に儚い」
唇が重なった。
レナートの手が腰へ回り、机から離れる。背中がゆっくりベッドの縁へ触れた。
窓の向こうでは、東京の灯りがまだ消えずに続いていた。
リヴァが目を開けた。
外は少し明るくなり始めていた。
リヴァはキャミソールを一枚だけ着ていた。起き上がって、窓際のソファの端へ座った。
レナートはベッドに横になっていた。
リヴァがバッグを開け、煙草を出した。
「……君も吸うのか」
レナートが言った。
起き上がり、机の上に置いてあったシルバーのシガレットケースを取る。
レナートは一本抜いて、リヴァへ差し出した。
「こっちはどう?」
受け取った。
レナートがライターを持って近づいた。
リヴァは煙草を咥え、先端へ火を移した。
一口吸った。
細い煙が、窓際へ流れた。
レナートはその横顔を見ていた。
口元が上がった。
そのまま自分の分も一本取り出し、火をつけた。
二人で窓際にいた。
レナートがリヴァの横顔を見た。
「君は本当に、消えてしまいそうだね」
リヴァはレナートの煙草を指に挟み、外を見た。電車の灯りが、遠くを横切っていった。
レナートが煙を吐いた。
「日本に私も住もうかな?」
リヴァが振り返った。
「なんで」
「君と居たい」
「……」
「ルカまで、私のものじゃなくなった。……いや、初めからあの子は兄しか見てないか」
レナートが煙を吐いた。
「セオドールも、今幸せだといいけど」
「……アルノに酷いこと言うからダメ」
レナートは少し笑った。
「彼だって頑張っていたよ」
「うん」
「君は今、誰のものなの?」
リヴァは煙草を吸った。
「…わかん、ない」
煙草が短くなるまで、二人とも窓の外を見ていた。
リヴァが灰皿へ火を押しつけた。
視線がテーブルの上の論文に移り、リヴァの視線が止まった。
「……これ」
リヴァがセオドールの手書きのメモを見ていた。そこをレナートも見る。
「これ?特定の刺激語による自律神経反応と、視覚・聴覚刺激に対する回避行動……」
「……これ、知ってる?」
「どうだろう、私の専門とは違うね」
「……」
リヴァは立ち上がった。
「帰る」
「……うん」
レナートは広げていた資料をまとめて、リヴァに向けた。
「ありがとう」
リヴァが手を伸ばした瞬間、少し角度を変えた。リヴァの手が宙を掻いた。
「私のものにならない?」
「むり」
「もう一度キスしてもいい?」
リヴァが止まって、目を閉じた。
レナートが少し笑ってから近づいて、唇を重ねた。
リヴァは離れてから、レナートの手から資料を取った。服を整え、バッグを肩へ掛けた。
扉の前まで行って、振り返った。
レナートは自分の煙草を吸っていた。
「じゃあね」リヴァが言った。
「……ああ」
扉が閉まった。
ホテルのロビー。
アオイはソファに座っていた。
膝の上に端末を置き、片手で額を押さえていた。リヴァがエレベーターから降りると、すぐに立った。
「……まさかホテルのロビーで徹夜とは思いませんでした」
「ごめん」
アオイはリヴァを一度見た。
「…帰れます?」
「うん」
「じゃあ帰りましょう……アルノから三回来てます」
「怒ってる?」
「たぶん」
アオイが出口へ向かった。
リヴァもその横を歩いた。
自動扉が開き、夜の空気が入ってきた。
リヴァの髪から、いつもの煙草とは違う乾いた葉の匂いがした。
アオイは横を見た。
そのまま何も言わず、先に外へ出た。




