日向先生
東京拠点 共用スペース 午前八時三十分。
トレーニングルームから戻ってきたカイが、上半身裸のまま共用スペースを横切った。肩には黒いタオルを掛け、濡れた髪から落ちた水滴が首筋を伝っていた。
その後ろからリヴァが入ってきた。上はジャージ、下は短パンだった。髪を高い位置でまとめ、シェイカーに残っていたプロテインを飲みながらソファの横を通る。
「バナナ味おいしくない」
「鼻つまんで飲め」カイが髪を拭きながら言った。「俺が飲んだらお前の筋肉のためにならない」
「……」
窓際では、アオイが割烹着を着て窓を拭いていた。
白い布を片手に、ガラスへ顔を近づけて拭き残しを確認している。
「すみません、今朝最後のストロベリーのプロテイン飲んだの、自分です…」
「……」
リヴァが目を細めてアオイを見た。
「あとで買ってきます……」
ソファにはフィンがいた。スウェット姿でギターを膝に乗せ、コードを確かめていた。
ヴィクトルはダイニングテーブルの端に座り、煙草を指に挟んでいた。朝からきっちりシャツを着ているのは、アルノとヴィクトルくらいだった。
「ヴィクトル、帰ったんじゃなかったの」フィンが言った。
「帰んの面倒になった」
「ふーん」
階段からオラヴルが降りてきた。黄色のシャツだった。白衣はなかった。
フィンが煙草を咥えた。
「おはよう、オリ」
「おはよう」
オラヴルはヴィクトルの前を通り、キッチンに向かった。
横切る際、オラヴルは無言でヴィクトルに小さな香水の瓶を渡した。
「忘れてた、悪い」ヴィクトルが受け取った。
フィンが横目でやりとりを見ていた。
アルノが端末を確認して、言った。
「全員、来客があるので服装を正してください。予定が早まりそうです」
ギターを膝に乗せたまま煙草を灰皿に押し付けて、フィンが顔を上げた。
「どの程度?」
「スーツとまでは言いませんが」
アオイが窓から離れ、自分の割烹着を見下ろした。
「わかりました……」
オラヴルがキッチンから顔を出した。
「僕も?」
「白衣でいいです」
「着てくる」
リヴァがシェイカーを口元から下ろした。
「私は?」鼻をつまんだまま言った。
アルノがリヴァを見る。
一度、短パンへ目を落とした。
「あの、膝丈の薄紫のワンピースとかで。先週着ていたやつです。薄手の白いカーディガンを羽織って」
そこでアルノが視線を感じた方を見た。
ヴィクトルが煙草を持ったまま、こちらを見ていた。
「……なにか」
「いや?」
ヴィクトルは灰皿へ灰を落とした。
アルノは眼鏡の位置を直した。
リヴァはシェイカーをテーブルへ置いた。
「わかった」
階段へ向かいかけた背中へ、アルノが続ける。
「着替えてきたら、ユキナガを起こしてきてください。シャツを着るように。シェイカーは洗っておきます」
「うん。ありがと」
リヴァはそのまま二階へ上がった。
共用スペースには、アルノとヴィクトルだけが残った。
ヴィクトルが手首へ香水をつけた。
「それ以上香水は追加しないでくださいヴィクトル」
「ん?ああ」
アルノはキッチンに行き、リヴァのシェイカーを洗い始めた。
「…オラヴルの部屋にいたんですか」
ヴィクトルは笑って、アルノの横に近づいた。
「お前だって昨日リヴァと寝ただろ」
アルノは流水でシェイカーを濯いだ。
「……オラヴルが都合よく慰めてくれるとは思いませんが」
「それはお前の口説き方が下手なだけだろ」
「あなたがオラヴル相手に主導権を取れているところを、見たことがありませんけどね」
ヴィクトルの笑みが一瞬止まった。
「……そんなこと無い」
アルノが横目で見た。ヴィクトルの襟元は少し乱れていた。
「香水を忘れてくる程で?」
ヴィクトルが眉を上げた。
「…欲張りだな、お前は」
リヴァは自室で着替え、薄紫のワンピースの上から白いカーディガンを羽織った。髪を結び直して前髪を確認してから廊下へ出る。
ユキナガの部屋の前で足を止めた。
二回、扉を叩く。
「ユキナガー」
返事はなかった。
もう一度叩いた。
「ユキナガ」
音がしない。
リヴァはドアノブを下げた。
鍵はかかっていなかった。
部屋の中は暗かった。遮光カーテンが閉められ、机の上には昨夜使っていたらしい端末とヘッドホンが置かれている。空になったグラスも残っていた。
ベッドの中央で、ユキナガが布団に埋まっていた。
「んー……」
リヴァが中へ入った。
「ユキナガ」
返事の代わりに、毛布が少し動いた。
リヴァは窓際へ行き、カーテンを開けた。
朝の光が部屋へ差し込む。
ユキナガが眉を寄せ、顔を枕へ押しつけた。
「ユキナガー。誰か来るからシャツ着て集合って、アルノが」
「んー……」
ベッドの横まで戻り、リヴァが手を伸ばした。
その手首を、ユキナガが掴んだ。
「うわっ」
引かれた身体がベッドへ落ちる。
ユキナガは目を開けないままリヴァを抱き寄せた。
薄紫のワンピースへ顔を埋める。額が胸元に当たり、そのまま腕が腰へ回った。
「むりい」
「アルノが怒るよ」
返事はなかった。
規則的な寝息が聞こえる。
「……ユキナガ」
リヴァはユキナガの頬をつねった。
反応がない。
もう少し強くつねる。
「んぅ……」
意味のない声が漏れた。
それでも目は開かなかった。リヴァが笑った。
「痛くないの?」
寝息が聞こえた。
リヴァはユキナガの頬から指を離した。
天井を見る。
ため息をついた。
ユキナガの腕は離れなかった。
リヴァはしばらく、そのまま横になっていた。
共用スペース 午前八時五十七分。
扉が開いた。
薄紫のワンピースに白いカーディガンを羽織ったリヴァが入ってきて、ソファに座っていたカイの横に座った。
「遅いですよ」アルノが言った。
その後ろから、ユキナガが歩いてきた。
白いシャツは着ていたが、前髪は完全に寝癖がついたままだった。目もほとんど開いていない。
「ユキーーーー!!!」
声が飛んだ。
ユキナガが顔を上げるより早く、ルカが駆け寄った。
そのまま勢いよく抱きつく。
「……ん?……は?」
ユキナガの身体が揺れた。
ようやく目が開く。
目の前の顔を見る。
数秒、止まった。
「あれ?ここ日本だっけ?」
「寝ぼけてるー。ユキが東京にいるなら、俺も東京に住むよ」
「え?」
テーブルの向こうで、ヴィクトルが笑った。
「ほらな」
「こうなると思った」フィンが笑った。
オラヴルは白衣を羽織り、ダイニングテーブルの端に座っていた。手元には紅茶のカップが置かれている。
リヴァはルカを見た。それから、ユキナガを見る。
ユキナガはまだ弟を抱き返してもいなかった。
「ちょ、待って。なんで」
「俺、もっとユキと居ることになった!」
「へ……?」
ルカはようやくユキナガから離れた。
ダイニングテーブルには、アルノと見慣れない男が向かい合って座っていた。
男は背が高く、落ち着いた服装をしていた。姿勢がよく、テーブルの上には薄い書類ケースが置かれている。
アルノが立ち上がった。
「本日はわざわざご足労いただき、ありがとうございます。責任者のアルノ・ヴァルツです」
「いえ。こちらこそ、朝早くからお時間をいただきありがとうございます。ルカが急かすもので、早めに着いてしまいました」
男が立ち上がって手を出した。
「│日向光臣です。東京大学大学院総合文化研究科、広域科学専攻で教授をしています」
「東大……」ユキナガが言った。
「駒場で認知神経科学の研究室を主宰しています。よろしくお願いします。今後の連携について、直接確認しておいた方がよいと思いましたので」
「恐縮です。こちらでも必要な手続きは整えます」
光臣が部屋を見回した。
壁際にカラム、フィン、アオイが立っていて、フィンが穏やかに笑っていた。離れたソファにはリヴァ、カイ、ヴィクトルが座っている。ダイニングの端ではオラヴルが紅茶を飲んでいた。
「なんだか、人が多いですね」
「ルカには、イタリアでの一件で大変お世話になりましたので」
光臣が笑った。
「そうですか。本人、何をしたかあまり話してくれなくて」
ルカが一瞬リヴァを見て、少し笑った。
ユキナガがルカと光臣を交互に見る。
「……ローマで研究員やるっていうのはどうなったんだよ。書類、あっただろ」
「やめた。ローマで博士取って、特任助教として拾ってもらったの。もともといた大学の日向先生に」
「特任、助教……?」
ユキナガの目が開いた。
「……てかお前、東大いってたのかよ」
「うん。院だけローマへ連れていってもらった感じ」
光臣が穏やかに口を挟んだ。
「ほぼ誘拐でしたよ、あれは」
ルカが笑った。
「でも、おかげでユキに会えた」
光臣はルカを見てから、ユキナガへ向き直った。
「君が噂のお兄ちゃんですね。顔がそっくりです」
「は、はじめまして……ユキナガです」
ユキナガは寝癖のついた頭を掻いた。
光臣が軽く頭を下げる。
「日向光臣です。ルカの受け入れを担当します。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ……」
ユキナガは椅子を引いてアルノの隣に座った。
「では、今日の本題ですが」アルノが書類を開いた。「ルカから、今後も我々の解析に協力したいという申し出を受けています」
ユキナガが顔を上げた。
「ユキ」
ルカが笑っている。
「俺、また手伝いたい」
「ただ、研究を第一にしてもらうつもりです」
光臣は言った。
「彼は研究者です。能力がありますし、今後積み上げるべきものも多い。こちらのお仕事を手伝うこと自体には反対しませんが、本業へ影響が出る運用は避けていただきたいと考えています」
「もちろんです」
アルノが即答した。
「基本的な解析はリモートで依頼します。泊まりがけになる場合は事前にご連絡します」
「泊まりは原則なしでお願いします」
アルノが光臣を見る。
「緊急の場合も?」
「その場合は、その都度判断します。深夜までの作業が続いた翌日は研究室へ来させません。研究室側で予定がある日は、こちらへの依頼を断らせます」
「承知しました」
「睡眠が五時間を下回る状態が続いた場合も、一度こちらの業務から外します」
ユキナガが顔を上げた。
光臣はユキナガを見た。
「本人は平気だと言うでしょうから」
ルカが笑った。
「だから君の自己申告だけでは判断しません」
ダイニングの端で、オラヴルがカップを置いた。
「本人は、それで納得してるのかい?」
光臣がオラヴルを見る。
初めて正面から視線が合った。
「あなたは?」
オラヴルが立ち上がり、右手を出した。
「はじめまして。オラヴルです。ここの医療責任者で、専門は外科」
「外科が会社に常駐?」
光臣がオラヴルを大きく見上げてから、手を握った。
「……日向です。以前は大学病院の精神科にいました」
「そう」
光臣が書類へ視線を戻した。
「本人が希望していても、過労や睡眠不足で判断力が落ちている場合は周囲が止める必要があります」
「それはそうだね」
「では、何か?」
「判断力が落ちていることと、本人が選べなくなることは同じじゃないよ」
光臣の指が書類の端で止まった。
「選択を奪うつもりはありません」
「ならいい」
「自己申告を唯一の判断材料にしないと言っているんです」
「僕もそうしてるよ」
短い間があった。
ヴィクトルが煙草を指に挟んだまま、二人を交互に見ていた。
「珍しい……」リヴァが小声で言った。
アルノが書類へ目を落とした。
「勤務時間については、研究室側の予定を優先します」
光臣が頷いた。
「彼が自分から無理をすると判断した場合も、私から止めます」
「助かります」
オラヴルは何も言わなかった。
「一旦住所は私の家で記載しておいてください。家が決まるまで彼は預かりますので」
オラヴルがルカを見る。
リヴァが少し首を傾けて、視線をヴィクトルへ向ける。
「……またか」ヴィクトルは口元を上げた。
ユキナガも途中から目を細めていた。
玄関の扉が開いた。
惣一が扉を開けた。戸口へ身体を預け、腰を少し落としたまま室内を覗き込んだ。
深い緑色の着流し、右手には煙草が挟まっていた。
「よお」
光臣が振り向いて、固まった。
「……懐かしい人が来ましたね」
惣一は煙を吐いた。
「俺の組織だ」
「……」
光臣はしばらく惣一を見ていた。
惣一が部屋に入ってきて、カウンターにあった灰皿に灰を落とした。
ユキナガが二人を見る。
「……知り合い?」
「ああ」
惣一は煙草を咥えたまま答えた。
「昔、一件一緒にやった」
「一件ではないですよ」
光臣が言った。
「最初は医療支援の依頼でした。国境付近の避難民輸送に、現地の武装勢力が絡んでいた案件です」
惣一がカウンターに腰を預けて腕を組んだ。
「そうだったな、先生」惣一が口角を上げた。
「医療支援?」リヴァがルカに小声で言った。「精神科で?」
「避難民の精神科診療です。……基本的には」
光臣は足を組んだ。
「その次は企業間の交渉支援と聞かされた仕事でしたよ」
「交渉はしてただろ」
「その後銃撃戦になりましたけど」
「なったな」
光臣が額へ手を当てた。
「……つまりこの組織、完全に裏の仕事じゃないか。何がコンサルですか」
「国同士のいざこざの…コンサル的な?」フィンが言った。
「コンサル……物理……ですかね」壁際に座っていたアオイが言った。
光臣は額に手を当てたまま息を吐いた。
それから惣一を見る。
「君が率いているなら話は早いです。研究の妨げになったら、回収に来ますからね」
「ああ」
「ああじゃないですよもう。破天荒なところ、変わらないですね」
惣一は煙を吐いた。
「もう現場医療はやらなくなったのか」
「研究の方が楽しいので」
「そうか」
「招集しないで下さいね」
惣一がオラヴルを見た。
オラヴルが紅茶のカップを置いた。
「……精神科から認知神経科学かい?」
光臣がオラヴルを見る。
「ええ。意思決定の研究が中心です」
「人がどう決めるかを見る仕事か」
「大雑把に言えば」
「それで、決める前に全部管理するんだね」
光臣の眉が動いた。
「事故を防ぐためですよ」
「そう」
「まだ何か言いたそうですね」
「いいや」
ヴィクトルが俯いて煙を吐いた。
口元が笑っていた。
光臣はオラヴルから視線を外した。
惣一が笑って、煙を吐いた。
「ルカ。帰りますよ。待たせるとレナート教授が怒ります」
ルカも立った。
「え、レナートも来てるの」リヴァが言った。
「はい。対応が非常に面倒です。あなたは?」
光臣がリヴァを向いた。
リヴァが立ち上がった。横にいたカイが少し動いた。
「リヴァ。狙撃手」
「そうですか」
光臣が固まった。また額に手を当てた。
「…狙撃手…」
間があった。
「……もしかして全員戦闘員ですか」
「大体、動けるようにはなってる」惣一が言った。
光臣がオラヴルを見上げた。
「……なるほど」
光臣がため息をついた。
「帰ります。怖い怖い」
光臣はアルノへ一礼した。
「詳細は後ほど文書でお送りします」アルノは言った。
光臣は惣一を指で指しながら言った。
「ああ、この人がいるならもういらないです。意味をなさないので」
アルノが止まった。
光臣が惣一を見る。
「明智」
光臣が惣一に片手をあげた。
「昇進おめでとう」
惣一は新しい煙草を指に挟んだ。
「だいぶ昔だ」
「そうですか。早いですね、時間が経つの」
「また来るね、ユキ」ルカがユキナガに言った。
ルカは笑ったまま、光臣の後を追った。
扉が閉まった。
共用スペースに静けさが戻る。
アルノのため息が聞こえた。
オラヴルが紅茶を口へ運んだ。
ヴィクトルが横から顔を向けた。
「嫌いだろ」
オラヴルはヴィクトルを見た。
「科が違うだけだよ」言いながら、オラヴルはポケットから煙草を出した。
ユキナガは数秒、玄関を見ていた。
それから寝癖のついた頭を両手で押さえた。
「……夢?」
リヴァがユキナガに近づき、頬をつねった。
「いててててて」
「痛いんだ」
「痛えよ、え、何こわ……?」
ユキナガが頬を押さえた。




