ダーツとビリヤード
東京拠点 共用スペース 午後七時十分。
次の日。玄関の扉が開いた。
カイが両手にスーパーの袋を持って入り、その後ろからアオイがもう一つの袋を抱えて入ってきた。
「結局ジムまで行って。遅くなりすぎです」
「ハックスクワットとうちにないアブダクターがある」
「自分じゃなくていいでしょう……」
カイが靴を脱ぎながらアオイの脚を一度見た。
「お前は中殿筋が足りない」
「その後の買い物がしんどかったですよ…」
共用スペースから球のぶつかる乾いた音がした。
二人が顔を上げた。
「おかえり、二人とも」
リヴァがビリヤード台の向こうに立っていた。
黒いつなぎのような服を着ていた。短いショートパンツへ繋がっている。髪は高い位置で一つに結び、片手にビリヤードの棒を持っていた。
カイの視線がキューへ移った。
「何を持っている」
「これ?」
リヴァがキューを少し持ち上げた。
「なんかビリヤード?やってる」
共用スペースの奥には、以前までなかったビリヤード台が置かれていた。その横の壁にはダーツボードが置いてある。
アオイが部屋を見回した。
「……いつのまに共用スペースが遊び場に…?」
「ヴィクトルがさっき搬入してた」リヴァが言った。
「あれ。前まであった雀卓は」
「アオイの部屋入れといたよ。運ぶの大変だった」
フィンがチョークをキューの先へ擦りながら言った。
「なんでぇ……」
「片付いててスペースありそうだったから」
「俺の部屋、物置じゃないんですけど……」
カイは何も言わずキッチンへ向かった。アオイも袋を抱え直し、その後ろを追った。
キッチンではユキナガがパンを切り、オラヴルが大きなフライパンの前に立っていた。バターの香りに香草とレモンが混じっている。カウンターの端には、透明なウォッカを注いだ小さなグラスが置かれていた。
「今日は惣一いないって言ってましたね」
「うん。俺らで簡単に作るよ」
ユキナガが袋を受け取り、中を覗いた。
「助かります」
アオイは袋をカウンターへ置き、振り返った。
「あ、ダーツもある」
壁際へ歩き、一本抜いた。指先で重さを確かめてから、特に構え込まずに投げる。
矢がボードへ刺さった。
続けて二本。三本とも中心から大きく外れず、狭い範囲にまとまった。
「え、なに。やってたのアオイ」
ユキナガがパン切り包丁を持ったまま顔を上げた。
「日本の大学生といえば、ダーツですよ」
「そうなんだ」
「練習めっちゃしました」
ユキナガがアオイを見た。
「お前……モテたかっただけだろ」
「……まあ」
アオイはボードから三本を抜いた。
「目的に対して努力が真っ直ぐすぎんだろ」
ビリヤード台から球の音がした。
「リヴァ、次ですよ」
アルノがキューを立てて待っていた。
「ん」
リヴァが台へ戻る。
白球の少し先に赤い球があり、右奥のポケットまでは斜めに距離があった。リヴァは左手を置き、キューを指の間へ通した。
腰を折ったところで、ヴィクトルがネグローニのグラスをローテーブルへ置いた。
「高い」
リヴァが顔だけを向けた。
「何が」
ヴィクトルが後ろへ回った。
「ここを下げろ。もっとだ」
腰の少し上へ手を当て、背中を押す。
リヴァの上体が台へ近づいた。ポニーテールが肩から前へ落ちる。
「腰触んないでヴィクトル」
「伝わらんだろ」
「やめろ」
冷蔵庫から戻ってきたカイが、ヴィクトルの手首を掴んだ。
ヴィクトルが横を見る。
「何だよ」
「退け」
手を離させ、カイがリヴァの横へ入った。
リヴァはキューを持ったまま振り返った。
「カイやるの」
「構え直せ」
「うん」
リヴァが左手を台へ戻した。カイは白球と右奥のポケットを見てから、リヴァの肘へ指を当てた。
「肘を上げる」
リヴァが上げる。
「背中、もっと下げろ」
「こう?」
「もう少し」
リヴァの胸元が台へ近づく。ショートパンツの裾から伸びた脚が少し開き、右足が後ろへ引かれた。
カイは斜め後ろへ立ち、キューとリヴァの右腕が一直線になる位置を見た。右手首へ触れ、握りを少し緩めさせる。
「握りすぎだ」
「落としそう」
「落ちない。球を見ろ」
少し離れたところで、ダーツを持ったアオイの手が止まっていた。
後ろから、ショートパンツのリヴァの姿が見えた。
カイが顔を上げた。
目が合った。
「すみません!見てません!」
「……」
カイは無言でアオイを見た。リヴァの真後ろに立った。
アオイはダーツボードへ向き直った。
「いや本当に、全然……」
ダーツが、ダーツボードに刺さらず跳ね返って床に落ちた。フィンがその横へ来た。
「何見てたの?」
アオイはダーツを構えたまま、小さく息を吐いた。
「……この男世帯ではなかなか厳しい……」
リヴァがキューを引いた。
「えい」
勢いよく斜めに引かれたキューが、カイに突き刺さった。
「う……」
「え、ごめんカイ、」
カイが蹲った。
ユキナガがそれを見て指差して笑っていた。
オラヴルは一度そちらに視線を向けたが、すぐにフライパンに視線を戻した。
白球は赤い球には当たったが、右奥のポケットを外れてクッションへぶつかり、隣の黄色い球を押した。黄色い球がゆっくり転がり、別のポケットへ落ちた。
リヴァが身体を起こした。
「入った」
「狙ったのは赤だよ」
フィンが笑った。
「入ったからいい」
「よくないですよ」
アルノが言った。
リヴァはキューをフィンへ渡した。
カイはまだ蹲っていた。
「……」
「フィンやって」リヴァが言った。
「いいよ」
フィンは台の反対側へ回った。白球は長辺のクッション近くにあり、狙う青い球との間に別の球が二つ残っていた。
台へ背中を向け、台の上に座った。
アオイがダーツを持ったまま振り返った。
フィンは左手を台の縁へ置き、右腕を腰の後ろへ回した。背中側でキューを持ち、肩越しに白球を確認する。身体を軽く捻ったまま、キューの先だけを前後させた。
「それ打てるの?」
リヴァが横から覗いた。
「たぶんね」
「あなた左で打てるのでそれやる必要が……」アルノが言いかけた。
フィンが打った。
白球が短いクッションへ当たり、角度を変えて青い球へ入る。青い球は右中央のポケットへ真っ直ぐ落ちた。
「おお」リヴァが声を出した。
フィンはキューを前へ戻し、何事もなかったように立てた。
「なんか格好いい」リヴァが言った。
「でしょ?」
「腹立つなあ」
ユキナガがキッチンから言った。カイがいつのまにかソファに戻って座っていた。
「お前大丈夫?」ユキナガがカイに言った。
「問題ない」
「初めてカイが痛がってるところ見た」
「……」
アルノがフィンからキューを受け取った。
「余計なことをしなければ、普通に入ります」
「今、余計って言った?」
アルノはシャツの袖口を少し上げた。
顎の下をキューが真っ直ぐ通った。
「アルノ上手」
リヴァが言った。
「次まで置いてるじゃん」
ユキナガがカウンターへ大皿を置いた。
「はい。とりあえず食べて。俺、酒準備してくる」
薄く切ったバゲットの上にクリームチーズと生ハムを載せたものが並び、その横にはオリーブと小さなピクルスが盛られていた。別の皿にはミニトマトとモッツァレラが串に刺してある。
「食べながら台触んなよ。油つくから」
「わかった」
オラヴルがフライパンの火を止めた。
厚めのサーモンを大きな白い皿へ移し、焼き色のついた小さなじゃがいもを周囲へ並べる。フライパンに残ったバターへレモンを絞り、刻んだ香菜を入れてから、サーモンの上へ回しかけた。
最後に黒胡椒を挽いた。
オラヴルはウォッカを一口飲み、大皿を両手で持った。
「これも出すよ」
ダイニングテーブルの中央へ大皿が置かれた。
バターとディルの香りが広がった。
「豪華ですね」
アオイが言った。
「カラムの正式な歓迎会?だって」
リヴァはブルスケッタを一つ取った。
「え……カラムが正式加入するとビリヤード台とダーツまで来るんですか」
バーの扉が開いた。
ユキナガが両手にグラスを持って戻ってきた。ミントとライムの入ったモヒートをリヴァとフィンへ一つずつ渡す。
「ありがとー」リヴァが受け取って、飲んだ。
「モブの時は柿ピーと瓶ビールだった」フィンがアオイに言った。
「気にしてません……いや、ちょっとだけです……」
フィンが一口飲んだ。
ユキナガがまたバーに行き、すぐに戻ってきた。
グラスをアオイに渡す。
「はい。レッドブルウォッカ」
「あ…ありがとうございます…ダーツといえばこれです」
「遊んでたやつのチョイスやめろよ、モブの癖に」
「すいません……」
アオイはポケットから煙草を取り出して指に挟んでから、グラスを傾けた。
ヴィクトルはローテーブルのネグローニを取った。氷の間でオレンジピールが動き、赤い液面が照明を反射した。
オラヴルはダイニングの椅子へ座り、ウォッカのグラスを手元へ置いた。
アオイが煙草に火をつけてから、壁際を見た。
カラムはそこにいた。
一人掛けの椅子には座らず、壁へ肩を預けている。片手にはまだ使っていないキューを一本持ち、もう片方の手には火のついた煙草があった。
「当の本人、楽しんでます?」
「しらね」
ユキナガはバーから持ってきたもう一つのグラスをカラムへ差し出した。
ウイスキーソーダだった。
カラムが煙草を口へ移し、空いた手で受け取った。
「……ん」
「せめて一回くらい打てよ。お前の祝いなんだから」
「……あとで」
「ほんとかよ」
カラムは答えず、グラスを一口飲んだ。
リヴァがビリヤード台の横からカラムを見た。
「最近、任務ないね」
ユキナガがバーの扉へ戻りながら振り返った。
「ないね。最高」
フィンがモヒートのストローを指で避け、グラスへ口をつけた。
「俺もこのくらいでいいな。ご飯食べて遊んで、夜寝る」
ヴィクトルがネグローニを飲んだ。
「暇なら暇でいい。余計な仕事を拾うなよ」
アオイがダーツを一本抜いた。
ヴィクトルはグラスの中の氷を回した。
ダーツが飛び、ボードの中心近くへ刺さった。




