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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十四章「帰還偏差 ― Return Deviation」

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手の上の眼鏡



 東京拠点 共用スペース 午後十時六分。


 次の日。フィンがピアノを弾いていた。


 リストの『愛の夢 第三番』だった。柔らかな旋律が共用スペースを流れ、窓の外はもう暗い。カイはソファの端に座り、片脚を組んで本を読んでいた。ヴィクトルはダイニングテーブルに腰を掛け、煙草を吸っている。


 リヴァはキッチンカウンターの椅子に座っていた。両手で紅茶のカップを包み、ときどき口をつけながらピアノを聞いていた。


 曲が終わってフィンが次の曲を弾こうとしたところで、端末を持っていたアルノが顔を上げた。


「十時以降は演奏は禁止と言いましたが」


 フィンの指が鍵盤の上で止まった。


「もうそんな時間か」


「えー、ピアノ寝れそうだったのに」


 リヴァがカップの縁から言った。


 フィンは笑って蓋を閉じ、ピアノの前から立った。そのままキッチンへ来て、棚からティーポットを出す。


 リヴァの隣で湯を注ぎ、茶葉を蒸らす間にカウンターへ肘を置いた。リヴァが自分のカップを少し持ち上げる。


「フィン、この紅茶おいしい」


「デカフェのダージリン。悪くないよね」


「うん」


 フィンは自分のカップへ紅茶を注ぎ、ソファへ移った。カイの向かいへ腰を下ろし、脚を伸ばす。


 少しして、アルノがキッチンへ入ってきた。


 リヴァはカップを持ったまま横目で見る。アルノはいつものシャツとスラックス姿で、眼鏡をかけたままだった。


「リヴァ」


「ん?」


 アルノがカウンターへ回った。


 リヴァの隣まで来ると、身体を少し屈めた。眼鏡の縁が髪に触れそうな距離まで顔が近づく。


「あとで、来てください」


 リヴァの指がカップの取っ手で止まった。


「……」


 アルノは身体を起こした。


 少し離れたところで、ヴィクトルが煙草を口から外した。口元が上がっている。


「コーヒー、入れないのか」


 アルノは眼鏡を押し上げ、棚からカップを取った。


「入れますよ。あなたも飲みますか」


「酒の気分なんだが」


「そうですか」


 アルノは自分のカップも棚に戻した。


 ヴィクトルは煙を吐いた。


「今日はバーは休みか」


「ユキナガ、作業してるみたい」


 リヴァが答えた。


「じゃ、帰るか」


 ヴィクトルが椅子から腰を上げる。


「泊まんないの」


 リヴァが聞くと、ヴィクトルはジャケットを取って振り返った。


「泊まって欲しいのか?」


「いや……」


「おやすみなさい」アルノが言った。


「あー、オリんとこ寄ってから帰る」


 ヴィクトルが階段を上がった後、アルノも部屋を出た。




 しばらくして、リヴァは共用スペースを出た。


 二階へ上がり、廊下の奥まで歩く。


 アルノの部屋の前で足を止めた。


 ノックをせず、ドアノブを下げる。


「……きたよ」


 部屋の中は間接照明が点いていた。


 アルノはもう着替えていた。長袖のグレーのシャツに、薄手のスウェットパンツ。眼鏡はかけたままで、机の上には端末が置かれている。


 リヴァが扉を閉めた。


 ラッチの音が小さく響いた。


 アルノがこちらへ歩いてきた。


「アルノ――」


 肩を掴まれた。


 そのまま一歩押され、リヴァの背中が壁に当たった。薄い壁紙の冷たさが服越しに伝わる。


 アルノがすぐに唇を重ねた。


「ん……」


 リヴァがアルノのTシャツを掴む。顔をずらして息を吸おうとしても、また追われた。背中が壁についたまま、シャツの胸元が指の中で皺になる。


 アルノの呼吸が近い。普段より速く、吐いた息が頬にかかった。


 ようやく唇が離れた。


 リヴァは息を吸い、アルノの脇腹へ手を伸ばした。


「アルノ、怪我はー」


 アルノは答えなかった。


 そのままもう一度キスをした。


 今度はリヴァもアルノの腰へ腕を回した。指が髪へ入り、アルノを引き寄せる。


 アルノの手が背中へ回った。


 唇が離れると、リヴァは壁に背をつけたまま息を整えた。


「帰ってきてくれてよかった」アルノが言った。


「アルノも、生きててよかった」


 アルノの指がリヴァの背中をゆっくり下り、腰のあたりで止まった。


「……ずっと足りませんでした」


「……ん」


 リヴァがアルノに近づく。


 もう一度唇を重ねようとしたところで、アルノが顔を逸らした。


「なんで」


「私が決めます」


「めんどくさい……」


 アルノが口角を上げた。目の奥は動いていなかった。


「その口の聞き方はなんですか」


「……」


 リヴァは少しだけ顔を逸らした。


 アルノの指が顎に触れ、正面へ戻される。


「下で、あなたが普通に紅茶を飲んでいるのを見て、腹が立ちました」


「……なんで」


「私だけが、まだ戻れていない気がしたので」


「……」


 アルノは近い距離のまま、リヴァを見ていた。


「惣一に抱かれたんですか」


「え」


「部屋に行ったと言っていましたね」


「……どうしたらいいか、わからなくて」


「……」


「……惣一が、ーー」


 アルノの唇が触れた。


 言葉の続きを塞ぐように重なり、少しして離れた。


「続けますか」


「……やめとく」


「賢明ですね」


 アルノが眼鏡を外した。


 細いフレームをリヴァの手に載せる。


「ヴィクトルにも、泊まってほしかったですか」


「ちが……」


 アルノの顔がリヴァの肩に埋まった。


 髪が頬に触れる。首筋に息がかかった。


「両手で持っていてください」


「……」


 リヴァが眼鏡を持ち直す。


「あなたの手が余計なところにいかないように」


「なん、で」


「壊さないでくださいね」


「……」


 アルノが顔を上げた。


「リヴァ」


「ん」


「返事」


 リヴァが眼鏡を両手で持ったまま、アルノを見る。


「……はい」


「よろしい」


 アルノの手が腰へ回った。


「今のうちに、触れておきたい」


 アルノの親指が腰骨の上をゆっくりなぞった。


 リヴァが少し笑う。


「あと五分?」


 アルノが顔を上げた。


「いえ、一晩」


「襲撃きちゃうかも?」


「無視しましょう。二人で」


 リヴァが笑った。

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