手の上の眼鏡
東京拠点 共用スペース 午後十時六分。
次の日。フィンがピアノを弾いていた。
リストの『愛の夢 第三番』だった。柔らかな旋律が共用スペースを流れ、窓の外はもう暗い。カイはソファの端に座り、片脚を組んで本を読んでいた。ヴィクトルはダイニングテーブルに腰を掛け、煙草を吸っている。
リヴァはキッチンカウンターの椅子に座っていた。両手で紅茶のカップを包み、ときどき口をつけながらピアノを聞いていた。
曲が終わってフィンが次の曲を弾こうとしたところで、端末を持っていたアルノが顔を上げた。
「十時以降は演奏は禁止と言いましたが」
フィンの指が鍵盤の上で止まった。
「もうそんな時間か」
「えー、ピアノ寝れそうだったのに」
リヴァがカップの縁から言った。
フィンは笑って蓋を閉じ、ピアノの前から立った。そのままキッチンへ来て、棚からティーポットを出す。
リヴァの隣で湯を注ぎ、茶葉を蒸らす間にカウンターへ肘を置いた。リヴァが自分のカップを少し持ち上げる。
「フィン、この紅茶おいしい」
「デカフェのダージリン。悪くないよね」
「うん」
フィンは自分のカップへ紅茶を注ぎ、ソファへ移った。カイの向かいへ腰を下ろし、脚を伸ばす。
少しして、アルノがキッチンへ入ってきた。
リヴァはカップを持ったまま横目で見る。アルノはいつものシャツとスラックス姿で、眼鏡をかけたままだった。
「リヴァ」
「ん?」
アルノがカウンターへ回った。
リヴァの隣まで来ると、身体を少し屈めた。眼鏡の縁が髪に触れそうな距離まで顔が近づく。
「あとで、来てください」
リヴァの指がカップの取っ手で止まった。
「……」
アルノは身体を起こした。
少し離れたところで、ヴィクトルが煙草を口から外した。口元が上がっている。
「コーヒー、入れないのか」
アルノは眼鏡を押し上げ、棚からカップを取った。
「入れますよ。あなたも飲みますか」
「酒の気分なんだが」
「そうですか」
アルノは自分のカップも棚に戻した。
ヴィクトルは煙を吐いた。
「今日はバーは休みか」
「ユキナガ、作業してるみたい」
リヴァが答えた。
「じゃ、帰るか」
ヴィクトルが椅子から腰を上げる。
「泊まんないの」
リヴァが聞くと、ヴィクトルはジャケットを取って振り返った。
「泊まって欲しいのか?」
「いや……」
「おやすみなさい」アルノが言った。
「あー、オリんとこ寄ってから帰る」
ヴィクトルが階段を上がった後、アルノも部屋を出た。
しばらくして、リヴァは共用スペースを出た。
二階へ上がり、廊下の奥まで歩く。
アルノの部屋の前で足を止めた。
ノックをせず、ドアノブを下げる。
「……きたよ」
部屋の中は間接照明が点いていた。
アルノはもう着替えていた。長袖のグレーのシャツに、薄手のスウェットパンツ。眼鏡はかけたままで、机の上には端末が置かれている。
リヴァが扉を閉めた。
ラッチの音が小さく響いた。
アルノがこちらへ歩いてきた。
「アルノ――」
肩を掴まれた。
そのまま一歩押され、リヴァの背中が壁に当たった。薄い壁紙の冷たさが服越しに伝わる。
アルノがすぐに唇を重ねた。
「ん……」
リヴァがアルノのTシャツを掴む。顔をずらして息を吸おうとしても、また追われた。背中が壁についたまま、シャツの胸元が指の中で皺になる。
アルノの呼吸が近い。普段より速く、吐いた息が頬にかかった。
ようやく唇が離れた。
リヴァは息を吸い、アルノの脇腹へ手を伸ばした。
「アルノ、怪我はー」
アルノは答えなかった。
そのままもう一度キスをした。
今度はリヴァもアルノの腰へ腕を回した。指が髪へ入り、アルノを引き寄せる。
アルノの手が背中へ回った。
唇が離れると、リヴァは壁に背をつけたまま息を整えた。
「帰ってきてくれてよかった」アルノが言った。
「アルノも、生きててよかった」
アルノの指がリヴァの背中をゆっくり下り、腰のあたりで止まった。
「……ずっと足りませんでした」
「……ん」
リヴァがアルノに近づく。
もう一度唇を重ねようとしたところで、アルノが顔を逸らした。
「なんで」
「私が決めます」
「めんどくさい……」
アルノが口角を上げた。目の奥は動いていなかった。
「その口の聞き方はなんですか」
「……」
リヴァは少しだけ顔を逸らした。
アルノの指が顎に触れ、正面へ戻される。
「下で、あなたが普通に紅茶を飲んでいるのを見て、腹が立ちました」
「……なんで」
「私だけが、まだ戻れていない気がしたので」
「……」
アルノは近い距離のまま、リヴァを見ていた。
「惣一に抱かれたんですか」
「え」
「部屋に行ったと言っていましたね」
「……どうしたらいいか、わからなくて」
「……」
「……惣一が、ーー」
アルノの唇が触れた。
言葉の続きを塞ぐように重なり、少しして離れた。
「続けますか」
「……やめとく」
「賢明ですね」
アルノが眼鏡を外した。
細いフレームをリヴァの手に載せる。
「ヴィクトルにも、泊まってほしかったですか」
「ちが……」
アルノの顔がリヴァの肩に埋まった。
髪が頬に触れる。首筋に息がかかった。
「両手で持っていてください」
「……」
リヴァが眼鏡を持ち直す。
「あなたの手が余計なところにいかないように」
「なん、で」
「壊さないでくださいね」
「……」
アルノが顔を上げた。
「リヴァ」
「ん」
「返事」
リヴァが眼鏡を両手で持ったまま、アルノを見る。
「……はい」
「よろしい」
アルノの手が腰へ回った。
「今のうちに、触れておきたい」
アルノの親指が腰骨の上をゆっくりなぞった。
リヴァが少し笑う。
「あと五分?」
アルノが顔を上げた。
「いえ、一晩」
「襲撃きちゃうかも?」
「無視しましょう。二人で」
リヴァが笑った。




