表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『リヴァ・アルカ ―世界を確定させるアンカーと最強たちの執着譚―』  作者: Ilir Noct
第三章「境界圏 ― Threshold Zone」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/50

Ai që erdhi (来た者)



 インターホンが鳴ったのは、午前10時を少し過ぎた頃だった。


 カイが画面を確認した。


 1秒。


 2秒。


 3秒、動かなかった。


 カイが3秒止まることは、ない。


 ユキナガがモニタールームから気づいた。サブ画面に玄関の映像を出した。


「……誰」とユキナガは言った。声から軽さが抜けていた。


 カイはインターホンに答えなかった。アルノに短く通信を入れた。


「来い」


 それだけだった。






 アルノが来るまでの40秒、カイはドアの前に立っていた。


 HK416は部屋にある。今手元にあるのはコンバットナイフだ。


 足りるかどうか、判断がつかなかった。


 判断がつかない、という感覚が、カイには珍しかった。


 モニターの中の男は動いていなかった。


 2メートルもあろうかという巨体が、ただ、立っていた。


 黒いコート。真っ黒の髪が肩まで落ちている。癖毛が、風もないのに微かに揺れていた。オールバックにまとめられているが、何本かがほつれて顔にかかっていた。サングラスをかけていた。レンズが濃い。表情が読めない。


 武装の気配はない。手ぶらだった。


 それが、余計に意味がわからなかった。


 アルノが来た。モニターを見た。一秒だけ止まって、眼鏡を押し上げた。


「アルバン・カストラティ」と彼は言った。声の温度が、いつもより低かった。


「知ってんの」とユキナガが通信越しに言った。


「名前だけ」


「どうする」


 アルノはカイを見た。カイはドアを見ていた。


「開けます」


「正気?」


「来ている事実は変わりません」


 カイがドアノブに手をかけた。






 ドアを開けた瞬間、空気が変わった。


 朝の冷気が入ってきた。それだけではなかった。


 男が存在している半径が、普通の人間より広い。その縁に今、カイとアルノが触れた。


 サングラスのレンズが、朝の光を一瞬だけ反射した。その奥に目があることはわかった。こちらを見ていることもわかった。ただ、どこを見ているのか、正確には読めなかった。


 カイを見た。


 一秒。


 障害として計算に入れていない目だった。排除すべき対象としてではなく、座標として処理した、それだけの目だった。


 それがカイには、何より腹が立った。


「目的を」とアルノが言った。


「リヴァはどこだ」


 声が低かった。平坦だった。抑揚がない。感情を消しているのではなく、最初からその周波数しか持っていない声だった。


「お答えする理由がありません」


 男はアルノを見た。それからもう一度、カイを見た。


 カイがナイフを抜いた。






 動きは、ほとんど見えなかった。


 アルバンの右手がカイの手首を掴んだ。


 掴んだ、という動作が見えなかった。気づいたらカイの手首が止まっていた。ナイフが宙で静止していた。


 カイは即座に左肘を入れた。


 アルバンが頭を僅かに傾けた。それだけで、肘が空を切った。


 カイが体重を乗せて押し込んだ。188センチ、戦闘用の体重が全部入った圧だった。


 アルバンは退かなかった。


 退いたのではなく、受け流した。カイの重心が前に出た瞬間、手首を引いた。カイの体が前のめりになった。


 アルバンの左手がカイの襟を掴んだ。


 持ち上がった。


 床から、カイの踵が離れた。


 一秒、それが続いた。


 アルノが動こうとした。


 WaltherPPKを抜いた。構えた。照準をアルバンの側頭部に合わせた。


 引き金に、指をかけた。


 撃たなかった。


 撃てなかった、ではない。


 指が、動かなかった。


 理由が言語化できなかった。距離は充分だ。角度も悪くない。カイへの流れ弾のリスクは計算できる。条件は揃っていた。


 なのに、引き金が重かった。


 物理的な重さではなかった。


 アルバンはアルノを見ていなかった。銃口がこめかみに向いていることを、知っているはずだった。知った上で、見ていなかった。


 その、見ていない、という事実が。


 アルノの指を、止めていた。


 銃を向けた人間に無視された経験が、アルノにはなかった。無視というより、勘定に入っていなかった。この男の処理の中に、自分の銃が存在していなかった。


 それが何を意味するのか。


 アルノは3秒かけて、理解した。


 しまえなかった。


 銃口を下げることも、できなかった。


 ただ、構えたまま、立っていた。アルバンが横目でそれを見た。動作が止まった。目が見えないはずのサングラス越しに、それが伝わった。


「……っ」


 カイがアルバンの腕を両手で掴んだ。体重をかけた。それでも、床に降りられなかった。


 アルバンはカイを見ていなかった。


 廊下の奥を、見ていた。





 足音がした。


 リヴァが廊下から来た。


 射撃場からの帰りだった。アルノの通信を受けて来たのではなく、騒ぎを聞いたからだった。AXMCは置いてきた。


 エントランスに出た。


 止まった。


 カイが浮いていた。


 それよりも。


 アルバンと目が合った。


 サングラスのレンズ越しだった。それでも、目があった。レンズの奥に、視線があった。こちらに向いていた。最初から、ここを見ていたような目だった。


 アルバンがカイを下ろした。


 ゆっくりと。丁寧に、とさえ言えるような速度で。カイの足が床についた。


 それから、アルバンはリヴァの方に一歩踏み出した。


 カイが前に出た。アルバンの胸に手をついた。


 同時に、ユキナガの声が通信に入った。


「銃、出してるよ」


 平坦な声だった。ユキナガがその声を出す時、笑っていない。


「ドローンも出てる。3機。全部向けてる」


 モニタールームから、ユキナガはアルバンを狙っていた。照準は頭部。距離は廊下を挟んで十数メートル。外れる距離ではない。


 アルバンは止まらなかった。


 カイの手がある状態のまま、もう半歩、前に出た。


「……止まれよ」とユキナガが言った。通信越しの声に、初めて力が入った。「止まれって」


 止まらなかった。


 カイが全体重を押し込んだ。動かなかった。


 アルノがまだ銃を構えていた。引き金に指がかかったまま、動けなかった。


 ユキナガが息を吸った。


 撃つ、という判断をした瞬間だった。


「やめて」


 リヴァの声だった。


 アルバンが止まった。


 ドローンも、銃も、カイの体重も、何も止めなかったものが、止まった。


 ユキナガが息を吐いた。声を出さない吐き方だった。


 通信の向こうで、何か硬いものがデスクに置かれる音がした。


 アルバンは静かに、ただ静かに、声を出した。


「見に来た」と彼は言った。


 カイの手がある状態のまま、リヴァに向かって言った。カイを無視していた。無視というより、処理の外に置いていた。


「……誰」とリヴァは言った。


「アルバン」


「何しに来たの」


「見たかった」


「見たかった?」


「必要だった」


 リヴァは少しの間、アルバンを見た。サングラスのレンズ。その奥の視線は動かなかった。


 アルバンがリヴァの方に一歩踏み出した。




「帰って」とリヴァは言った。


 


 沈黙があった。


 アルバンはリヴァを見続けた。3秒。5秒。


 それから踵を返した。


 カイの手がまだ胸についていた。アルバンはそれを払わなかった。ただ、歩いた。カイの手がずれて、離れた。


 ドアが開いた。


 男が出て行った。


 ドアが閉まった。


 エントランスが静かになった。


 カイは手を見ていた。アルバンの胸を押した手を。押した感触がまだある。人間の体の感触だった。それは確かだった。


 だが。


「……」


「カイ」とユキナガが通信越しに言った。声が、珍しく平坦だった。「今のって」


「ああ」


「カイが浮いた」


「ああ」


「俺の目がおかしかったわけじゃないよな」


「…」


「……ドローン、3機出してた」とユキナガは言った。「全部照準合わせてた」


「撃てなかった」


 カイは何も言わなかった。


「撃てなかったんじゃなくて」とユキナガは続けた。声がいつもより低かった。「撃つ前にリヴァが喋った。だから撃たなかった。でも」


 一拍。


「撃ってたとして、意味があったかどうか、わかんない」


 アルノが眼鏡を押し上げた。


「記録は」


「やった」とユキナガは言った。「でもデータがほとんど出てこない。名前だけで、あとは空白」


「そうですか」


「アルノ」とユキナガが言った。「グレイと繋がってる疑惑のやつ」


「同じ場所に名前が出た、それだけです」とアルノは言った。「ただ」


 一拍。


「今日、ここに来た」


 誰も何も言わなかった。


 カイがリヴァを見た。


 リヴァはドアを見ていた。


「カイ」とリヴァは言った。


「ああ」


「怪我は」


 カイは少しの間、黙った。


「……ない」と彼は言った。声が、いつもより低かった。


 リヴァはカイを見た。


 カイは正面を向いていた。ドアを見ていた。顎の線が、わずかに固かった。


 リヴァは何も言わなかった。


 代わりに、カイの隣に並んで、同じ方向を向いた。


 アルノはまだエントランスに立っていた。


 ホルスターの上に、右手が乗っていた。


 しまった銃の、位置を確かめるように。


 ドアは閉まったままだった。

"Nân" / Alis

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ