Ai që erdhi (来た者)
インターホンが鳴ったのは、午前10時を少し過ぎた頃だった。
カイが画面を確認した。
1秒。
2秒。
3秒、動かなかった。
カイが3秒止まることは、ない。
ユキナガがモニタールームから気づいた。サブ画面に玄関の映像を出した。
「……誰」とユキナガは言った。声から軽さが抜けていた。
カイはインターホンに答えなかった。アルノに短く通信を入れた。
「来い」
それだけだった。
アルノが来るまでの40秒、カイはドアの前に立っていた。
HK416は部屋にある。今手元にあるのはコンバットナイフだ。
足りるかどうか、判断がつかなかった。
判断がつかない、という感覚が、カイには珍しかった。
モニターの中の男は動いていなかった。
2メートルもあろうかという巨体が、ただ、立っていた。
黒いコート。真っ黒の髪が肩まで落ちている。癖毛が、風もないのに微かに揺れていた。オールバックにまとめられているが、何本かがほつれて顔にかかっていた。サングラスをかけていた。レンズが濃い。表情が読めない。
武装の気配はない。手ぶらだった。
それが、余計に意味がわからなかった。
アルノが来た。モニターを見た。一秒だけ止まって、眼鏡を押し上げた。
「アルバン・カストラティ」と彼は言った。声の温度が、いつもより低かった。
「知ってんの」とユキナガが通信越しに言った。
「名前だけ」
「どうする」
アルノはカイを見た。カイはドアを見ていた。
「開けます」
「正気?」
「来ている事実は変わりません」
カイがドアノブに手をかけた。
ドアを開けた瞬間、空気が変わった。
朝の冷気が入ってきた。それだけではなかった。
男が存在している半径が、普通の人間より広い。その縁に今、カイとアルノが触れた。
サングラスのレンズが、朝の光を一瞬だけ反射した。その奥に目があることはわかった。こちらを見ていることもわかった。ただ、どこを見ているのか、正確には読めなかった。
カイを見た。
一秒。
障害として計算に入れていない目だった。排除すべき対象としてではなく、座標として処理した、それだけの目だった。
それがカイには、何より腹が立った。
「目的を」とアルノが言った。
「リヴァはどこだ」
声が低かった。平坦だった。抑揚がない。感情を消しているのではなく、最初からその周波数しか持っていない声だった。
「お答えする理由がありません」
男はアルノを見た。それからもう一度、カイを見た。
カイがナイフを抜いた。
動きは、ほとんど見えなかった。
アルバンの右手がカイの手首を掴んだ。
掴んだ、という動作が見えなかった。気づいたらカイの手首が止まっていた。ナイフが宙で静止していた。
カイは即座に左肘を入れた。
アルバンが頭を僅かに傾けた。それだけで、肘が空を切った。
カイが体重を乗せて押し込んだ。188センチ、戦闘用の体重が全部入った圧だった。
アルバンは退かなかった。
退いたのではなく、受け流した。カイの重心が前に出た瞬間、手首を引いた。カイの体が前のめりになった。
アルバンの左手がカイの襟を掴んだ。
持ち上がった。
床から、カイの踵が離れた。
一秒、それが続いた。
アルノが動こうとした。
WaltherPPKを抜いた。構えた。照準をアルバンの側頭部に合わせた。
引き金に、指をかけた。
撃たなかった。
撃てなかった、ではない。
指が、動かなかった。
理由が言語化できなかった。距離は充分だ。角度も悪くない。カイへの流れ弾のリスクは計算できる。条件は揃っていた。
なのに、引き金が重かった。
物理的な重さではなかった。
アルバンはアルノを見ていなかった。銃口がこめかみに向いていることを、知っているはずだった。知った上で、見ていなかった。
その、見ていない、という事実が。
アルノの指を、止めていた。
銃を向けた人間に無視された経験が、アルノにはなかった。無視というより、勘定に入っていなかった。この男の処理の中に、自分の銃が存在していなかった。
それが何を意味するのか。
アルノは3秒かけて、理解した。
しまえなかった。
銃口を下げることも、できなかった。
ただ、構えたまま、立っていた。アルバンが横目でそれを見た。動作が止まった。目が見えないはずのサングラス越しに、それが伝わった。
「……っ」
カイがアルバンの腕を両手で掴んだ。体重をかけた。それでも、床に降りられなかった。
アルバンはカイを見ていなかった。
廊下の奥を、見ていた。
足音がした。
リヴァが廊下から来た。
射撃場からの帰りだった。アルノの通信を受けて来たのではなく、騒ぎを聞いたからだった。AXMCは置いてきた。
エントランスに出た。
止まった。
カイが浮いていた。
それよりも。
アルバンと目が合った。
サングラスのレンズ越しだった。それでも、目があった。レンズの奥に、視線があった。こちらに向いていた。最初から、ここを見ていたような目だった。
アルバンがカイを下ろした。
ゆっくりと。丁寧に、とさえ言えるような速度で。カイの足が床についた。
それから、アルバンはリヴァの方に一歩踏み出した。
カイが前に出た。アルバンの胸に手をついた。
同時に、ユキナガの声が通信に入った。
「銃、出してるよ」
平坦な声だった。ユキナガがその声を出す時、笑っていない。
「ドローンも出てる。3機。全部向けてる」
モニタールームから、ユキナガはアルバンを狙っていた。照準は頭部。距離は廊下を挟んで十数メートル。外れる距離ではない。
アルバンは止まらなかった。
カイの手がある状態のまま、もう半歩、前に出た。
「……止まれよ」とユキナガが言った。通信越しの声に、初めて力が入った。「止まれって」
止まらなかった。
カイが全体重を押し込んだ。動かなかった。
アルノがまだ銃を構えていた。引き金に指がかかったまま、動けなかった。
ユキナガが息を吸った。
撃つ、という判断をした瞬間だった。
「やめて」
リヴァの声だった。
アルバンが止まった。
ドローンも、銃も、カイの体重も、何も止めなかったものが、止まった。
ユキナガが息を吐いた。声を出さない吐き方だった。
通信の向こうで、何か硬いものがデスクに置かれる音がした。
アルバンは静かに、ただ静かに、声を出した。
「見に来た」と彼は言った。
カイの手がある状態のまま、リヴァに向かって言った。カイを無視していた。無視というより、処理の外に置いていた。
「……誰」とリヴァは言った。
「アルバン」
「何しに来たの」
「見たかった」
「見たかった?」
「必要だった」
リヴァは少しの間、アルバンを見た。サングラスのレンズ。その奥の視線は動かなかった。
アルバンがリヴァの方に一歩踏み出した。
「帰って」とリヴァは言った。
沈黙があった。
アルバンはリヴァを見続けた。3秒。5秒。
それから踵を返した。
カイの手がまだ胸についていた。アルバンはそれを払わなかった。ただ、歩いた。カイの手がずれて、離れた。
ドアが開いた。
男が出て行った。
ドアが閉まった。
エントランスが静かになった。
カイは手を見ていた。アルバンの胸を押した手を。押した感触がまだある。人間の体の感触だった。それは確かだった。
だが。
「……」
「カイ」とユキナガが通信越しに言った。声が、珍しく平坦だった。「今のって」
「ああ」
「カイが浮いた」
「ああ」
「俺の目がおかしかったわけじゃないよな」
「…」
「……ドローン、3機出してた」とユキナガは言った。「全部照準合わせてた」
「撃てなかった」
カイは何も言わなかった。
「撃てなかったんじゃなくて」とユキナガは続けた。声がいつもより低かった。「撃つ前にリヴァが喋った。だから撃たなかった。でも」
一拍。
「撃ってたとして、意味があったかどうか、わかんない」
アルノが眼鏡を押し上げた。
「記録は」
「やった」とユキナガは言った。「でもデータがほとんど出てこない。名前だけで、あとは空白」
「そうですか」
「アルノ」とユキナガが言った。「グレイと繋がってる疑惑のやつ」
「同じ場所に名前が出た、それだけです」とアルノは言った。「ただ」
一拍。
「今日、ここに来た」
誰も何も言わなかった。
カイがリヴァを見た。
リヴァはドアを見ていた。
「カイ」とリヴァは言った。
「ああ」
「怪我は」
カイは少しの間、黙った。
「……ない」と彼は言った。声が、いつもより低かった。
リヴァはカイを見た。
カイは正面を向いていた。ドアを見ていた。顎の線が、わずかに固かった。
リヴァは何も言わなかった。
代わりに、カイの隣に並んで、同じ方向を向いた。
アルノはまだエントランスに立っていた。
ホルスターの上に、右手が乗っていた。
しまった銃の、位置を確かめるように。
ドアは閉まったままだった。
"Nân" / Alis




