書斎
ハクスリー邸、書斎。
アオイが扉を開けると、フィンはジャケットの前へ当てていた手を下ろした。額には細かい汗が浮いていて、目は赤かった。アオイの横を通り、机の前まで戻ってきたが時折鼻を啜っていた。
アオイは扉を閉めて脇へ退き、カラムは本棚のそばへ移った。カラムの視線が扉とフィンを往復した。
テオがソファから腰を浮かせた。
「……ひどい、大丈夫…?」
「……平気だよ、テオ」フィンは掠れた声で言った。
フィンはそちらへ顔を向けたが、足は止めず、革張りの椅子の背へ手を置いた。そこへ体重を預け、息を吐いた。
「どうして、兄弟なのに――」
テオが言いかけたところで、ローレンスを一度見て下を向いた。
ローレンスは机の向こうに座っていた。
「お帰り、フィン」
フィンは左手で一度髪を直して、口角だけを上げた。
「……ただいま、ローレンス兄さん」
ローレンスはフィンの赤くなった目を見て笑った。
「母さんに似て顔だけはいいんだから、台無しにするなよ」
「……何がしたくて、俺をここに呼んだの」
フィンが言うと、ローレンスは書類を閉じた。
ローレンスが向かいの椅子を指した。フィンは椅子を引き、肘掛けへ手を移して腰を下ろした。背もたれへ身体を預けかけると、喉の奥で息が詰まった。上体を前へ戻し、腹へ右腕を添えたまま、顔を上げてローレンスを見た。
ローレンスは先にアオイを眺め、それからカラムを見上げた。
「とうとう、どこの国とも知れない連中を連れ歩くようになったか。アジア人と、そっちはアラブ人か?微動だにしなくて気色が悪かった」
カラムは答えなかった。テオが振り返り、二人を順に見た。
「フィン、この人たち誰?」
「二人は付き添い。気にしないで」フィンが言った。
ローレンスは鼻で笑った。
ローレンスが薄い書類を机の中央へ出した。表紙にはオリヴァー・グラントの名があり、その下に船名と航海の日付が並んでいた。
「この名義で行ったことを、すべて顧問弁護士へ提出しろ。船に乗った目的、接触した人間、受けた指示。お前が誰のために何をしていたのか、こちらで確認する」
「……それで?」
「今いるところも辞めろ」
フィンは書類を見ていた。ローレンスは返事を待たず、テオへ顎を向けた。
「あとはハーコートが、お前の居場所を作ってくれるそうだ。悪いようにはしないと言っている」
テオがフィンを見た。
「……居場所なら、僕の方で用意できる。ピアニストの枠もある」
「ハーコート。父上もずいぶん顔が広かったな。どこで何をしているのかは、最後までよく分からなかったが」
「……」
「ニコラス兄さんには紹介しづらいが、よかったなフィン」ローレンスが言った。「ここを失っても、居場所があるって」
フィンは膝の上で両手を重ねた。右の親指が左手の付け根を押し、しばらくして離れた。
「お前は一番背も低かったし病気がちだった。なのに過酷な肉体労働ばかりで、可哀想だと思ってたんだ」
ローレンスは首を傾けて、フィンの顔を見て微笑んでから続けた。
「その外面生かしてピアノでも弾いてりゃいいさ。人形のようにな」
「……俺の仕事、ローレンス兄さんに決めてもらうつもりはないよ」フィンが言った。
ローレンスの手が表紙の上で止まった。
「誰に返事をしている?随分口のきき方が変わったな」
フィンは顔を上げた。ローレンスと目が合うと、視線が机の縁へ落ちた。
「こっちを見ろ」
フィンが再びローレンスを見た。
フィンが口角を上げかけたところで、ローレンスが書類を閉じた。
「その顔はやめろよ。お前が何かを誤魔化そうとする時は、昔から同じだ」
「……別に、誤魔化してないよ」
「なら辞めると言え」
「辞めないよ」
ローレンスは机から足を下ろして立ち上がり、机を回ってフィンの横へ来た。
ローレンスがフィンの膝の横を蹴った。椅子の肘掛けへ移りかけたフィンの手が止まり、膝へ戻った。
フィンは目を伏せた。
テオはソファの端へ座り直した。ローレンスの背中を見てからフィンへ顔を向けたが、フィンは兄の靴元を見ていた。
「返事」
フィンの喉が動いた。
ローレンスは机からペンを持ち、フィンの太ももの辺りに突き立てた。
「いっ……て」
ペン先は刺さらずに床に落ちた。
フィンが太腿を押さえようと下を向くと、ローレンスがその前髪を掴んで顔を上げさせた。
「一度で答えろ」
ローレンスは髪から手を離した。机から書類を取り、フィンの膝へ乱暴に置いた。
「お前は器用なんだから。ちゃんと出来るだろ」
「……」
「ペンが無いと書けないことも知らないのか。拾え」
フィンが屈み、ペンを拾った。書類を開くことはせず、表紙の上に横向きに置いた。
ローレンスはフィンの顔を覗き込んだ。
「今のところを辞める。そう言えよ」
フィンは黙っていた。膝の上の書類が息に合わせて動き、ペンが表紙の端へ寄った。
「早くしろって」
ローレンスが足を上げた。靴底をフィンの胸元へ当て、そのまま強く踏み込んだ。
「……っ」
アオイが一瞬顔を顰めた。カラムは微動だにせずローレンスを見ていた。
フィンの背中が革張りの背もたれへぶつかり、椅子が絨毯の上をずれた。膝から落ちた書類が足元に広がり、ペンが椅子の下へ転がった。フィンは両手で兄の足首を掴んだが、押し返さず、口を開けて息を吸おうとしていた。
「ニコラス兄さんになんて言われた」
「……っ」
ローレンスが足にさらに体重を込めた。
「なんて?」
フィンは鼻を啜った。唇を一度かんだ。息を浅く繰り返した。
「……家の名で、軍に入ったって」
「あとは」
フィンの前髪が目を覆った。そこから一筋、落ちた。
「……部隊が壊滅した時、俺も死ねば、良かったって」
間があった。
しばらくして、フィンが涙でぼやけた視界を上げた。
カラムがいつのまにか本棚のそばを離れ、ローレンスの背後に立っていた。
ローレンスの背中に、拳銃が突きつけられていた。
「……おい」ローレンスが小さな声を漏らした。
ローレンスの足が止まった。肩越しに振り返ろうとしたが、身体を捻ると背中へ当たるものが強くなった。
「何だ、何が。まさか、…」
ローレンスが足を床へ戻した。
フィンは足首から手を離し、椅子の上で身体を前へ倒した。胸元を押さえながら荒く息を吐いた。
「拳銃じゃないですかね」戸口からアオイが言った。
ローレンスが扉の方を向いた。アオイは両開きの扉の前に立ち、片足を敷居に近いところへ置いていた。
「拳銃って、お前」
テオがソファから立ちかけた。
「テオ、ごめん。止まっててくれるかな」
フィンが顔を向け、顔を振ってかかっていた前髪を避けた。左手で涙を拭いた。胸を押さえていた手を下ろし、テオを指さした。
「危ないから、そこにいて」
「フィン…」
テオは腰を浮かせた姿勢で止まり、フィンを見たままソファへ座り直した。
ローレンスが顔をひねってカラムの顔を見ようとした。カラムが銃を持つ手を押し出すと、ローレンスは両肘を身体へ寄せ前を向いた。
「やめろ、そんなものを人に向けるな!」
カラムはローレンスを見下ろしていた。垂れた目がローレンスを捉えていた。
「カラム」
フィンが名前を呼んでも、瞳を動かさなかった。
「フィン、何してる。こいつを止めろ」
「……もういいよカラム」
銃口はローレンスの背中から離れなかった。
「聞こえているだろう!」ローレンスが声を上げた。「銃を下ろせと言っている!」
ローレンスは口を閉じ、フィンへ顔を向け直した。
フィンはカラムを見ていた。
「おい、フィン……止めろ。危ないだろ、これ」
ローレンスの声が掠れた。
フィンがひじ掛けに頬杖をついて、目を覆った。
「カラム、命令。下ろせ」
カラムは即座に銃口を下げた。
「……」
ローレンスが机へ逃げるように移った。片手を天板につき、背中へもう片方の手を回した。何度か上着を撫でてから、カラムの手にある拳銃を見た。
フィンが息を吐いて、手で目を覆ったまま言った。
「アオイも、構え解いて」
「抜いてません」
「重心」
アオイは息を吐き、立ち直した。空の両手を肩の高さまで上げた。
フィンは手を外してカラムを見た。カラムは銃を下へ向けて持ち、フィンの顔を見ていた。
「なんで、こんなことしたの」
カラムから返事はなかった。フィンはハンカチをポケットから取り出して、顔を拭いた。
「怒っちゃったの?」
フィンはハンカチを戻してから、カラムのこめかみへ目を向けた。カラムは口を開かずに待っていた。
「……ああ。もう喋っていいよ」
「……どうしたいかは、フィンが決めること」カラムが言った。
机のそばで、ローレンスがカラムを見た。曲がっていた眼鏡を直し、もう一度その顔を確かめた。
「なんだイギリス人かよ、クソ」
カラムはローレンスへ顔を向けた。
「悪かった。お前をアラブ人扱いして。間違えられたくなかったんだろ。な?」
「……違う」
ローレンスはフィンを指した。指先が揺れ、一度手を下ろしてから続けた。
「お前に偉そうに命令しているこの無能なんかに、仕える必要はないぞ」
カラムが拳銃の撃鉄を起こした。
小さな金属音がした。
ローレンスの手が机の縁を掴んだ。
「……っ待て、」
フィンはカラムの手元を見てから、扉へ顔を向けた。
「アオイ、止めて」
アオイは動かなかった。右の手首をゆっくり回した。
「うちのボスから、好きに暴れて来い、後の始末は任せろと、事前に言われてますので」
「ええ……」
フィンはアオイを見た。アオイは今度は左の手首を回し、フィンへ視線を戻した。
ローレンスが机から離れ、扉へ向かいかけた。アオイと目が合うと歩幅が詰まり、その場でフィンへ振り返った。
「何なんだ、こいつは。お前、何を連れてきた」
「うちの戦闘員だよ」フィンが言った。「そっちはスナイパー」
ローレンスの動きが一拍止まった。
「なぜ、そんな人間がお前の命令で動く」
「副指揮だからです」アオイが言った。
ローレンスはフィンを見た。眼鏡の奥で目が動き、カラムへ戻った。
「……お前が?殺し屋集団の?」
「失礼だな、何だと思ってたの?」
「落ちこぼれた人間の集まりじゃないのかよ」
フィンは胸元へ残った靴の汚れを払った。布を押したところで手が止まり、ジャケットの前を開けた。
「もっと上だよ」
カラムが机の横へ一歩進んだ。
ローレンスは言葉を切った。フィンの方へ寄りかけ、今度は扉の前のアオイを見た。
「こんな真似をして、警察に話したらどうなるか分かっているのか」
「前は、その警察にいました」
アオイは扉から足を動かさずに答えた。
「アオイは元公安。俺が警視庁から引き抜いたの」フィンが言った。
「……警察?」
ローレンスの視線がアオイの手元へ落ちた。
「なんでお前が人事権まで…」
アオイが無言で歩み寄って書類を拾った。ペンも椅子の下から取り、机の上へまとめて戻した。
「照会を止めて。調査会社も、弁護士の方も。面倒くさくなるから。俺、肉体労働だから暇じゃないの」フィンが言った。
「……ここで脅せば、何でも済むと思っているのか」
「後の始末は、うちのボスがしてくれるんでしょ?」フィンがアオイに言った。
「はい」アオイが答えた。両手を後ろで組んで、ローレンスを見た。
ローレンスの手が震えていた。
「……どこにいても当たるから」
カラムが言った。
ローレンスの口が止まった。カラムは拳銃を下げて持ったまま、ローレンスを見ていた。
「俺なら」
「……どういう意味だ」
ローレンスはカラムを見上げ、それからアオイへ顔を向けた。
アオイは視線を受けて、考えるように顔を上げた。
「……カーテンは閉めた方がいいかもしれません」
「…何」
「いつ飛んでくるかわかりませんよ、弾が」
「アオイ、補足しなくていいから」フィンが言った。
「おととい、狙撃のシミュレーションいくつで遊んでました?」
「……4700メートル……」カラムが小声で言った。
ローレンスは机へ戻った。背後の窓を見てから椅子を引き、座ろうとしてやめた。端末を取り上げたが、画面を一度消してしまい、もう一度つけ直した。
「弁護士に電話して」フィンが言った。「依頼を止めてくれればいいよ」
ローレンスは画面を操作し、端末を耳へ当てた。
電話の向こうで声がした。ローレンスは返事を待ちきれず、机を指で叩いた。
「全部やめろ。照会も調査も、当局への提出も。調査会社にもすぐ連絡しろ」
フィンは椅子に座ったまま待っていた。
ローレンスが電話を切ると、アオイが自分の端末を出した。
「その指示、文面でも送っておいてください。写しはこちらに」
アオイが宛先を示した。ローレンスは画面を見比べながら入力し、途中で何度も文字を消した。
アオイは送られてきた文面を確認し、フィンへ頷いてから戸口へ戻った。フィンは肘掛けへ手をついて立ち上がり、椅子を通路から退けた。
「じゃあ、お騒がせしたし帰るね」
「待て」
ローレンスが呼び止めた。フィンが振り返ると、ローレンスはカラムを指し、うまく声が出ないまま手を下ろした。
「それを、しまわせろ」
「カラム。帰るよ」
カラムは拳銃を腰へ戻し、上着の裾を下ろした。フィンの後ろへつくと、アオイが扉の前から退いた。
「お前。……ハクスリーを捨てるのか」
「うん。もういらないや」フィンが笑った。
「ニコラス兄さんが黙ってないぞ」
「隣の部屋で伸びてるよ。アオイに教わった”背負い投げ”ってやつでね。知ってる?ju-do」
「……」
テオもソファから立ち、端末をポケットへ入れた。
「フィン、僕の車に乗って。運転手を待たせてるんだ」
フィンはテオを見た。テオは扉のそばまで来て、フィンが歩き出すのを待っていた。
「……少し話したい」
テオは先に廊下へ出た。
フィンは石段を下り、テオの運転手が開けていた後部座席の扉へ手を置いた。
車が車寄せを出ると、アオイの運転する車も後ろへ続いた。




