ハクスリー
東京拠点 共用スペース。
フィンはソファに座り、紅茶を飲んでいた。会議室の扉が開き、カラムが出てきた。
共用スペースを横切ってフィンの前で足を止めると、会議室へ顎を向けた。
「次俺?」フィンが言った。
カラムが頷いた。
フィンはカップをテーブルへ置いて立ち上がった。カラムはその後ろから会議室へ戻り、フィンが入ると扉を閉めてアオイの隣へ座った。
惣一は長机の奥にいた。
アオイは開いた端末の前に両手を置き、青ざめていた。
「何、二人ともクビになるって話?」
フィンが椅子へ腰を下ろすと、惣一は顎でアオイの端末を示した。
「出せ」
「はい……」
アオイが操作し、壁面のモニターへ映した。
そこには、フィンの英国軍の在籍記録、出入国履歴、日本国内の居住記録が並んでいた。複数の機関へ、短い間隔で照会がかけられている。
「旧身元への照会です。依頼元は分かれていますが、元は………ハクスリー家の顧問法律事務所からです」
フィンは画面に表示された事務所名を見た。
「あらら」フィンは言った。
カラムがフィンへ顔を向けた。
「……」
「依頼人は?」フィンが聞いた。
「………ローレンス・ハクスリーです」
フィンが目を細めた。
「やっぱり」
「……誰」カラムが言った。
「三兄弟の二番目」フィンが言った。「俺は三番目」
アオイが別の画面を開いた。セレネ・ステラ号、オリヴァー・グラントの名が並んだ。
「船で消息を絶った乗客の件に、フィンの乗船を結びつけています。英国当局へ情報を出す準備をしています」
「船のこと、どこから拾われたの」
「入手経路は、まだ確認できていません」
アオイは画面を下へ送った。フィン・ハクスリー、オリヴァー・グラントが同一人物か確認を求める照会項目がついていた。
「当局に渡れば、船内記録と乗船名簿が調べられます。オリヴァー・グラントの名義から、ほかの乗船者と手配経路まで洗われる可能性があります」
フィンはオリヴァー・グラントの名を見ていた。
「兄貴、俺を呼んでる。俺の周りを荒らして、こっちが止めに来るのを待ってる」
「どうして実家がそんなこと……」
「昔から陰湿なの」
惣一は机の上のHighlightから一本抜き、火をつけた。煙を吐いてから、フィンを見た。
「話つけて来い」惣一が言った。
「……」
「好きな方連れてけ」
フィンの視線が、アオイの顔からカラムへ移った。
「好きな方?」
アオイはまだ青ざめていた。きつく目を一回閉じて、開いた。
「行きます」
カラムが椅子から立ち上がった。
「行く」カラムが言った。「……ついて、いきたい」
フィンは一拍止まった。それから二人を見た。
「そっか。両方でいい?ボス」
「お前の気が済むようにしてこい」惣一が言った。
「わかった」
モニターの前を惣一の煙が流れた。
「リヴァにお土産何買おうかなー」フィンが言った。
イングランド ハクスリー邸。
黒い鉄門の脇には石造りの門衛所があり、車が近づく前から門が開いていた。車道は芝地と木立の間を奥へ延び、後方で門が閉まると、外の道路は見えなくなった。
木立が切れた先に、淡い灰色の石造りの邸宅が現れた。中央棟から左右へ翼棟が伸び、縦長の窓が同じ間隔で並んでいる。玄関前では、年配の家令と黒いベスト姿の使用人が二人待っていた。
「これがバッキンガム宮殿かあ……」アオイが言った。
「違うよ?」
フィンが言ってから、少し間を置いた。
「……アオイ、ちょっと覚悟してね」フィンは日本語でアオイに言った。
「……」
「カラムは何も喋らないでね。ややこしくなるから」
「……うん」
アオイは車を降り、邸宅の端から端まで視線を動かした。正面玄関へ続く石段と車寄せ、その向こうまで広がる芝地を確認してから、自分の上着の前を直した。
カラムは車の反対側へ回り、屋根と窓の位置を見ていた。肩に掛けた荷物へ手を添え、フィンの後ろから石段を上がった。
「お帰りなさいませ、フィン様」
年配の家令が言った。
「ありがとう」フィンは笑顔で言った。
家令はそのまま三人を邸内へ通した。
玄関ホールは二階まで吹き抜け、石床の正面から延びた階段が、踊り場で左右へ分かれていた。壁には金の額に収められた肖像画が並んでいた。
フィンは正面を空けて絨毯の端へ移った。両手を身体の前へ置いて、息を吐いた。
左手の扉が開き、フィンの父親が出てきた。
背が高く、厚い胸元を濃紺のスリーピースで包んでいた。白髪の混じった金髪は後ろへ撫でつけられ、深く窪んだ灰色の目と長い鼻筋がフィンと似ている。目尻と口元には皺が刻まれていたが、背筋は伸びていた。右手には火のついた煙草、左手には金色のBenson & Hedgesの箱を持っていた。
母親は父親の後ろに立っていた。淡い金髪を低い位置でまとめ、首元と手首の詰まったアイボリーのドレスに、一連の真珠をつけていた。肌は滑らかで、整った目鼻立ちにも年齢はほとんど出ていない。腹の前で両手を重ね、父親の肩越しにフィンを見ていた。口角だけが上がっていて、目は笑っていなかった。
「So, you’ve come home.(帰ったか)」父親が言った。
フィンはジャケットの釦を留めた。父親の顔を見ず、煙草を持つ右手へ視線を置いた。
「……Yeah.(うん)」
「Yeah?(うん、だと?)」
フィンが少し顎を引いた。
「Yes, Father. I’m home.(はい、父さん。ただいま)」
父親は鼻から短く息を抜いた。
「フィン様のお部屋は整えております」家令が言った。
「使わん」父親が答えた。「話が済んだら門まで送れ」
フィンは何も言わなかった。
「軍を辞めて、そのまま連絡も寄越さず消えた。お前が選んだことだ。分かっているな」
アオイへ視線を移した。顔と髪を眺めてから、今度はカラムの肌と目元を見た。
「ニコラスは議会を動かし、ローレンスは銀行を動かしている」
父親は鼻で笑った。
「今は、こういう連中の使い走りか。落ちるところまで落ちたな」
フィンが顔を上げかけた。父親と目が合う前にまた下を向いた。
「ニコラスなら、家へ連れてくる人間にも意味を持たせる。お前には難しいようだ」
父親がフィンを見下ろしている間、カラムはフィンの両手を見ていた。
カラムはやがてアオイへ視線を移した。アオイは眉間に皺を寄せた。
父親はフィンの後ろにいる二人から、再びフィンへ視線を戻した。
「聞いているのか、フィン」
「……うん」
「返事だけは素直になったな。昔からそうしていれば、兄たちもお前に手をかけずに済んだ」
父親は煙草を口へ運んだ。
「兄弟の間で何があろうと、私も母さんも口は出さん。昔からそうしてきた。自分たちで始末しろ」
煙を吐いた。
「よく覚えておくように」
フィンの肩が上がり、すぐに元の位置へ戻った。両手は身体の前に置かれたままだった。
父親は背後の母親へ顔を向けた。
「戻ってろ」
母親は父親を見てから身体を返した。フィンへ声をかけず、出てきた扉の向こうへ戻った。
父親は使用人が差し出した銀の灰皿へ煙草の灰を落とした。
「ローレンスを待たせるな」
フィンは父親の靴元を見たまま頷いた。
父親が廊下へ入ると、使用人は銀の灰皿を下げた。年配の家令もすぐに歩き出し、三人を書斎へ案内した。
アオイはフィンの横顔を見たが、足を緩めなかった。カラムは二人の後ろを歩いた。
ハクスリー邸、書斎。
家令が両開きの扉を開けると、窓際のソファからテオ・ハーコートが立ち上がった。端末を座面へ置き、入ってきたフィンへ歩み寄った。
「オリヴァー。やっと会えた」
フィンは足を止めた。
沖縄、豪華客船任務での情報経路として使った男。
彼の父親は、船で死んだ。フィンの手によって。
テオが袖口へ触れると、その手から顔へ視線を上げ、笑顔を作った。
「……テオ。どうしてここにいるの」
「よかった。覚えてくれてたんだ」
テオはフィンの顔を覗き込んだ。指先を金髪へ伸ばし、額の横で揺れている髪に触れた。
「本当にいる。信じられない」
フィンが口を開きかけたところで、机の向こうから声がかかった。
「フィン。久しぶり」
長兄のニコラスが座っていた。濃紺のスーツに暗いえんじ色のタイを締め、肘掛けへ両腕を置いている。短く整えた金髪と、深く窪んだ灰色の目が父親に似ていた。
フィンはテオの肩へ手を添え、その脇を通った。机の前まで進んだ。
「……」
「挨拶の仕方を忘れたのか?フィン」
フィンは目線を上げ、ニコラスを見た。瞳が少し揺れた。
「……久しぶり、ニコラス兄さん」フィンが言った。
ニコラスが笑った。その時、横から声がした。
「私も会いたかったよ、フィン」
ニコラスの脇に立っていたローレンスが言った。右手を頬の横へ上げ、人差し指の爪側で銀縁の眼鏡を押し上げる。兄より細身で、濃い金髪を横へ流していた。
「面汚しが、どんな顔をしてこの家へ帰ってくるのか見たかったからな」
フィンがローレンスへ顔を向けると、ニコラスが椅子から立った。
「さて」
ローレンスは机の脇を空けた。ニコラスはそこを通り、フィンの前で足を止め、フィンに合わせて少し屈んだ。
「先に二人で話そう。来い」
ニコラスが戸口へ向かうと、フィンも身体を返した。テオは通路を空け、フィンが横を通るのを見ていた。
アオイがニコラスを先に通し、フィンに続こうとした。カラムも近づいてきた。
フィンがアオイとカラムに振り返った。
「いい、待ってて」
アオイは扉へ掛けていた手を止めた。カラムがフィンの顔を見ている間に、廊下でニコラスが隣室の扉を開けた。
フィンは二人から視線を外し、兄のもとへ行った。ニコラスに先を促されて部屋へ入ると、その後ろから兄も入っていった。
アオイは書斎の扉を閉め、机へ向き直った。
ローレンスはニコラスが座っていた椅子へ腰を下ろし、テーブルに足を乗せた。テオはソファへ戻っていたが、端に浅く座ったまま、戸口を見ていた。
閉まった両開きの扉を背に、アオイとカラムが左右に立っていた。どちらも正面へ顔を向けている。
アオイは手を背中で組み、カラムは片足に重心を乗せて手は横に下ろしていた。
ローレンスが座っても、二人の視線は少しも動かなかった。
ローレンスは机の書類を開いた。紙の角へ指を掛けたところで、もう一度顔を上げた。
アオイもカラムも同じ姿勢で立っていた。
ローレンスは眉を寄せ、書類へ目を戻した。
ハクスリー邸、応接室。
ニコラスが扉を閉めると、フィンは部屋の中央で立ち止まった。背後から近づいてくる靴音に振り返ったところで、上腕を掴まれた。
「出来損ないが部下なんか連れて来るなよ」
フィンはその手へ目を落とした。
腕を引く前に、ニコラスの拳が腹に入った。
「……っ」
フィンの上体が折れ、吐き出した息が兄の胸元へかかった。片手でニコラスの袖を掴み、もう片方を腹へ当てた。
ニコラスは袖にかかっているフィンの手を見て、口角を上げた。
「離せよ」
フィンが指を開くと、ニコラスも上腕を放した。フィンは絨毯へ片膝をつき、腹を押さえたまま顔を伏せた。
ニコラスは掴まれた袖口を払った。フィンが息を吸い込む音に、目を戻した。
「立って聞け。つくづく失礼な奴だ」
フィンは膝へ手をついて立ち上がった。背を伸ばす途中で呼吸が止まり、腹に当てていた手でジャケットを握った。
ニコラスは正面に立ち、フィンが顔を上げるまで待っていた。
「馬鹿なお前にも務まるよう軍にまで入れてもらって。その上、なんだ?」
フィンは腹から手を下ろした。ジャケットの前に寄った皺を伸ばしかけ、兄が手元を見ていることに気づくと、腕を身体の横へ戻した。
「SASにまで家の名で入れてもらって、偉くなったつもりか」
ニコラスはフィンの顔を覗き込んだ。フィンが目を伏せても、その位置から離れなかった。
「寂しかったよ、お前がどこにもいなくて」
「……ストレス解消ができないからでしょ」
ニコラスの口元から笑みが消えた。フィンの上腕を掴み直し、腹へ拳を打ち込んだ。フィンが身体を折っても腕を放さず、続けてもう一度殴った。
フィンは咳き込み、空いている手を兄の腕へ伸ばした。その手が袖に触れる前に止まり、自分の腹へ戻った。
「今だってやり返せない。体だって無駄に鍛えて、運良く生き残って、何の意味があったんだ」
フィンは俯いたまま息を整えた。唇を一度結び、顔を上げずに言った。
「……家のおかげでSAS入れるなら、この国が心配だね」
ニコラスはフィンの腕を強く引いた。フィンが足を踏み出すと、そのまま窓際の机まで連れていった。
フィンは机の手前で足を止め、空いている手を天板についた。ニコラスは掴んでいた腕を放して背後へ回り、両肩を前へ押した。
フィンがもう片方の手も机につくと、ニコラスはフィンの背を押し下げた。支えていた腕が曲がり、腹が机の縁へ当たった。
「……待って」
「口の利き方から教え直さないと駄目か、お前は」
ニコラスは片手をフィンの背に残し、もう片方を後頭部へ置いた。フィンが顔を横へ向けると、そのまま頭を押さえつけた。
「あの二人にも、今のお前を見せてやろうか」
頬が天板につき、額へ落ちてきた髪が顔と机の間に挟まった。フィンは肘をついて身体を起こそうとしたが、背を押され、腹を机の縁から離せなかった。力は入らなかった。
天板に置いた指が曲がり、爪が木の表面を掻いた。ニコラスがその手元へ目を落とした。
「爪立てるな。傷つくだろ」
フィンは指を伸ばし、掌を机へ伏せた。頬をつけたまま口を開き、短く息を吐いた。
「ニコラス兄さん待って、痛い」
フィンの声が最後で裏返った。唇を閉じ、鼻から息を吸った。目尻に溜まっていた涙が流れ、頬と天板の間を濡らした。
「うるさい」
フィンは目を閉じた。机に伏せていた手を顔へ寄せ、目元を覆った。息を吸うたびに肩が揺れ、指の間から涙が落ちた。
ニコラスはその手を見た。
「手をどけろ」
フィンはすぐには動かなかった。ニコラスが後頭部を押さえ直すと、顔を覆っていた手を下ろし、力なく机へ戻した。
「お前が生きて帰ったせいで、死んだ連中まで大したことがなかったように見えるな」
唇をきつく結んでいたが、鼻を啜った拍子に、小さく声が漏れた。
ニコラスは机の表面を確かめてから、フィンの顔へ目を戻した。
「お前も仲間と一緒に死ねば良かったのに」
フィンの口が閉じた。顔を上げかけると、後頭部に置かれていた手に押し戻された。机へ伏せた指先が浮き、また天板についた。
「戦死した弟がいた方が、私にも箔がついた」
フィンは奥歯を噛んだ。
ニコラスは頭を押さえたまま、机の脇へ身体を寄せて、その顔を覗き込んだ。
「お前のことで、私や父上の名前が外へ出ることは許さん」
フィンの唇が動いた。声になる前に咳が出て、肩が揺れた。ニコラスは手を離さず、フィンが顔を動かそうとするたびに押さえ直した。
「ローレンスの言う通りにして帰れ、死に損ない。早くその辺で死ね」
ニコラスが両手を離し、机の脇へ退いた。フィンは天板に手をついて身体を起こしたが、背を伸ばす途中で口元が歪んだ。腹へ右手を当て、左手で机に身体を支えたまま、ニコラスへ顔を向けた。
「自分の価値を、よく覚えておくように」
ニコラスは言った。口角だけが上がっていた。
フィンは一度目をつぶってから、長く息を吐いた。左手で涙と鼻水を拭いた。




