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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十四章「帰還偏差 ― Return Deviation」

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cognitive behavioral therapy




 東京拠点 午後十一時二分。


「オラヴル」


 リヴァはオラヴルの部屋の扉を開けた。入れ違いにミントが廊下に出てきた。


 オラヴルが本から顔を上げた。


 オラヴルの部屋に入るのは初めてだった。窓にはカーテンがかかっておらず、月が高い位置に見えた。照明はベッド脇と本棚の間に置かれた間接照明だけだった。


 ベッドの向かいには天井近くまである本棚があり、医学書の間に英語や日本語ではない背表紙が混じっていた。窓際には大きめのパキラとサボテンが置かれ、葉の向きがきれいに窓側へ揃っている。


 椅子の横の小さなテーブルにはDunhillと灰皿、水の入ったグラスがあった。本以外に目立つ私物はなかった。


「……リヴァ?」


 オラヴルは呟いた。


 しばらくそのまま止まっていた。


「……入って、いい?」リヴァが言った。


 その声を聞いて、オラヴルが動いた。


 本を閉じて、テーブルに置いた。医学書だった。表紙には『cognitive behavioral(認知行動療法) therapy』と書かれていた。その上に眼鏡をはずして置いた。


 椅子から立ち上がった。


「調子が悪いのかい?処置室に行こうか」


 リヴァが首を振った。


「……ただいま、してなかった」


 オラヴルが止まった。


 リヴァが部屋に入って、扉を閉めた。オラヴルの前まで歩いた。


 オラヴルがリヴァに目線を合わせようと屈んで、そのまま両膝が床についた。


「…おかえり」


 顔をリヴァの腹に埋めて、両腕でリヴァを抱き寄せた。


「……」


 何度も腹に顔を押し付けられて、リヴァが身じろぎした。


 離れる気配がなく、リヴァは息を吐いた。


「……オラヴル」


 返事がなかった。


 リヴァは少し笑って、オラヴルの黒髪を撫で、最後に一束持った。


「辛かったね」オラヴルが言った。


「……ん」


 リヴァはそのままベッドにオラヴルごと引っ張って座った。


 オラヴルがようやく顔を上げた。リヴァの股の間に膝立ちのオラヴルがいた。


 オラヴルが手を伸ばして、リヴァの頭を一度撫でた。


 リヴァはその手の感触に目を閉じた。


 オラヴルが離れようとした。


「もっと」リヴァが言った。


「……甘えてるの?」


 オラヴルが立ち上がって、リヴァの隣に座った。


「大変だったね」


 オラヴルはそう言って頭を撫で続けた。


 リヴァがオラヴルに顔を近づけた。オラヴルの胸板に体をもたせて、顔を上げた。


 オラヴルの手が止まった。


 リヴァがもう少し近づいて、オラヴルの唇に指先を触れさせた。


 オラヴルは動かなかった。


「……そうじゃ、なくて」リヴァが言った。


 リヴァがオラヴルの首を抱いて、引いた。オラヴルの身体がリヴァの方へ傾き、片手がベッドについて体重を支えた。リヴァの肩が先にシーツへ触れ、そのまま背中が沈んだ。


 オラヴルがリヴァの唇に口付けた。オラヴルの片手はまだリヴァの頭の上にあった。


 リヴァが仰向けになると、オラヴルはその上で身体を支えたまま目を開けた。少し離れた。リヴァの頭に置いていた手を離し、自分の右目を覆った。


「……違う。リヴァ、違う」


「……何が」


 リヴァは仰向けになったまま言った。


「ん」


 リヴァが甘えるように両手をオラヴルの方に上げた。


 オラヴルがもう一度覆い被さり、抱きしめた。顔は肩口に埋めていた。


「リヴァ、駄目だ」


 そのままリヴァの背中を支えて起き上がらせた。


「……え」


 リヴァが起き上がって、オラヴルを見た。


「君が辛かったのは、わかるよ」


「……」


「さっき聞いたことと、今ここに来たことは、本当に関係ないのかい」


「関係ないよ」


「じゃあどうして此処に来たんだい?」


「オラヴルが優しい人だから」


「……」


 リヴァはオラヴルの手を取った。両手で持って、一度その指先の腹に唇をつけた。


 オラヴルがリヴァを見た。大きい手のひらで顎を覆い、中指と親指でリヴァの頬を鷲掴んだ。


「……こら」


「む……」


 リヴァがその手を外そうと下にずらした。


 オラヴルの手が、リヴァの喉に触れた。片手で覆えてしまいそうだった。


 その途端、オラヴルの目からさっきまでの柔らかさが消えた。


 オラヴルは瞬きもしなかった。くすんだ青の奥に何も動かない。怒っているようには見えなかった。


 オラヴルの親指が僅かに動いた。


「え………?」


 リヴァが眉を寄せた。急に据わったオラヴルの目を覗き込もうと、少し前に出た。オラヴルの手が首に回った。


「そんなことしちゃ、だめだよリヴァ」


「していいよ」


「……」


「オラヴルがしたいこと、していい」


「……」


 オラヴルの指の位置が少し変わった。


 リヴァが顔を上げた。オラヴルの目を見た。


 しばらくそのままだった。


 オラヴルが手を下ろした。


 そのままベッドから立ち上がった。リヴァとの間が一歩分空いた。


「……君が今、何を僕に渡そうとしているのか、自分でわかっていない。だから……今は駄目だ」


「私はオラヴルとー」


「リヴァ、」


 オラヴルが首を振った。


 リヴァはベッドに座ったままだった。オラヴルは戻らず、テーブルの前に立っていた。


「言ったよね、簡単に預けるなって」


「……」


「言ったでしょ?ヴィクトルに連れていかれそうになった時」


 リヴァは黙った。


 オラヴルがテーブルの端に手を置いた。そこには眼鏡と、閉じた医学書が重なっていた。


「ん?」


 リヴァはオラヴルを見上げた。


「言った…けど、私がオラヴルがよくて」


「それと、何をされてもいいって言うのは別だよ」


「……」


「僕を選ぶことと、僕に全部決めさせることも違う」


「でもオラヴルなら優しいから」


「それをやめなさい」


 オラヴルはリヴァを見たまま動かなかった。


「…部屋に帰りなさい」


「……やだ」


 リヴァはベッドから立たなかった。


「わかんないよ……知らないことばっかりで」


 オラヴルが一度息を吐いた。テーブルに置いた手も、そのままだった。


「うん」


「オラヴルに優しくしてほしかっただけ」


 オラヴルがリヴァに一歩近づいて、立ったまま頭を抱いた。


 オラヴルの下腹の辺りにリヴァの顔が埋まる。


 ゆっくり頭を撫でた。


「頑張ったね」


「……っ」


 リヴァの小さい嗚咽が鳴った。


「……私のせいで、……みんなこんな目に遭ってるの」


「……アルノはなんて?」


「全部の計画がレオンハルトに仕組まれたものかはわからない…けど、私の奪還のためだったとしたら納得はできる、って」


「……」


 オラヴルの手が止まった。


 リヴァがオラヴルを見上げた。


「私が覚えてる人生は、ここに来てからだから」


「……うん」


「その中で、オラヴルはずっと優しかった」


 オラヴルがリヴァの涙を親指で拭った。


「首痛い、屈んで」


「はいはい」


 オラヴルは少し笑って、ベッドに座るリヴァの前にしゃがんだ。


「私、自分で決めたって思えるものが欲しい」


「……うん」


「身体なら私のだから、誰に触らせるかくらい私が決められるでしょ」


 リヴァがオラヴルの髪に触れた。


 オラヴルがポケットからハンカチを出して、リヴァの目を拭いた。


「……僕だって限界があるんだよ」


「嫌じゃないなら、」


「リヴァ、もう寝て」


 窓の外に月が見えていた。パキラの葉がガラスの前で重なっていた。


「おやすみ」


 リヴァはしばらくオラヴルを見ていた。


「……」


 それからベッドを降りた。オラヴルの前を通り、扉まで歩いた。


「おやすみは?」オラヴルが言った。


「……おやすみなさい」


「うん、おやすみ」


 扉が閉まった。


 オラヴルはその場に残った。


 しばらくして、テーブルの本を取った。

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