第三セーフハウス
第三セーフハウス 屋上。
第三セーフハウスは、会場から離れた郊外にあるワンルームだった。
ヴィクトルが緊急時の潜伏用に押さえていた部屋だった。
四階建ての建物の四階にある一室で、三階までは空きテナントになっていた。
第二セーフハウスが敵襲に遭った場合に、緊急で全員が落ち合う最終地点としてアルノが事前に指示を出していた。
屋上には、まだ少し九月の熱気を含んだ風が穏やかに流れていた。
カイはリヴァの膝に頭を乗せていた。
左肩から流れた血がシャツを濡らし、体中に殴られた跡が残っている。呼吸に合わせて胸が上下していた。
リヴァはカイの髪に触れたまま、顔を上げた。
アルバンは少し離れた場所に立っていた。九月に着るには暑すぎる黒いコートの裾が、屋上を渡る風に揺れている。
アルバンの顔がリヴァへ向いた。
「俺も、大切な人になるか」
リヴァは膝の上にあるカイの顔を見てから、アルバンへ目を戻した。
「……」
アルバンが一歩リヴァに近づいた。
「…お前は俺の大切な人、だ」
アルバンは続けた。
「レオンハルトのところに居たお前は、今とは違った」
カイの髪を撫でていた指が止まった。
リヴァがアルバンを見た。
「……どこまで知ってるの」
膝の上で、カイが少し動いた。
リヴァが視線を落とすと、カイが薄く目を開けていた。焦点が定まるまで時間がかかり、やがてリヴァの顔を捉えた。
「リヴァ」
「カイ、……怪我すごい」
「かすり傷…だ」
「……嘘つき」
声は掠れ、息を継ぐ途中で眉が寄った。
リヴァが顔を上げたとき、アルバンはもういなかった。
「……」
カイはリヴァの目元に残る涙を見た。
「……何故、来た」
「助けたかったから」
リヴァの目から、また涙が落ちた。
「私が弱くて、駄目だった」
カイは答えなかった。リヴァの膝に頭を預けたまま、濡れた頬を見上げている。
リヴァは両腕で目を覆って、嗚咽を漏らした。
「怖かった。皆誰の話してるのか分からなくて」
「……リヴァ」
名前を呼ばれ、リヴァが止まった。手を降ろした。
リヴァはカイの額にかかった髪を退け、頭を撫でた。指が髪の間をゆっくり通る。鼻を啜った。
カイの目が閉じた。
「…やっとしたな」
「え?」
「膝枕」
リヴァは撫でていた手を止め、カイの顔を見下ろした。
ローマ旧市街 地下。
ヴィクトルは壊れた端末の横に横向きに倒れていた。靴が一足遠くに転がっていたが、履きなおす気力がなかった。
石床に影が落ちた。
ヴィクトルが視線を上げると、アルバンが立っていた。
アルバンが屈み、ヴィクトルの身体へ腕を回した。
「待て。なんだ、何で来た。リヴァは」
「届けた。カイも」
ヴィクトルは息をついた。
体が持ち上がった。
「待て。俺は自分で帰れる」
「助かった。ヴィクトル」
「お姫様抱っこは嫌だ。やめてくれ」
両腕ごと抱え込まれ、黒いコートの胸元へ収まる。
「聞いてるのか!?降ろせ!」
「怪我をしている。急ぐ」
アルバンはそのまま歩き出した。
「いいから!降ろしてくれ!!」
ヴィクトルの声が石造りの通路を遠ざかっていった。
ローマ旧市街。
「俺はユキナガのとこ行く、アルノお願い」
フィンは拠点へ向かった。アオイは爆発のあった一階へ入り、最後に映像が戻った回廊を進んだ。
白い埃が床と壁を覆い、防火扉の周囲には壁材の破片が散っていた。アルノは壁際に倒れ、身体を横へ向けたまま動いていなかった。シャツの脇腹には血が広がっている。
「アルノ」
アオイはそばに膝をつき、呼吸を確認してから首筋へ指を当てた。脈はあったが、肩を叩いて名前を呼んでも目を開けなかった。
「……」
床へ滑ったままになっていたPPKを拾い、アルノの上着へ収めた。アルノの腕を引き上げ、横向きに背中に乗せた。
会場を出たところで医療担当が引き継いだ。呼吸と脈を取り直し、瞳孔を確認してから脇腹の傷を圧迫固定した。
アオイは医療担当とアルノを車両へ乗せ、第三セーフハウスへ向かった。
第三セーフハウスの玄関を開けると、室内全体が見渡せた。壁沿いに小さなキッチンがあり、反対側には細いベッドが一台置かれている。
低いテーブルと椅子が二脚あり、医療担当が器材を広げると、人が通れる場所はほとんど残らなかった。
「一人暮らし用ですか……」
医療担当はアルノをベッドへ寝かせ、脇腹の固定を確認した。アオイは室内へ運び込んだ装備を壁際へ寄せ、玄関からベッドまでの導線を空けた。
天井の上で、重いものが落ちた音がした。
アオイは顔を上げた。
屋上から続けて物音が聞こえ、玄関を出ると、共用階段を上がって屋上の扉を開けた。
「……何の音ですか……?」
第三セーフハウス 屋上。
黒いコートを着たアルバンが、ヴィクトルを屋上へ下ろしたところだった。固い音がして、ヴィクトルが落ちた。
「痛てえ………落とすな……」
「降ろせと言った、お前が」
「落とせとは言ってないだろ馬鹿……っ」
ヴィクトルは両手を床についたが、腕で身体を支えきれず、片方の肩が壁へ当たった。汗に濡れた髪が額へ張りつき、吸う息が喉で引っかかっている。
リヴァは顔を上げた。
「ヴィクトル!」
ヴィクトルは汗だくのままリヴァに笑いかけた。膝の上のカイを見た。
「やあリヴァ、元気か?カイも、……お前なんか幸せそうだな」
「……ああ」
ヴィクトルは気丈に口元を上げたが、言い終える前に息が切れた。胸元を掴み、何度か浅く呼吸を繰り返した。
「汗すごい。大丈夫?」リヴァがヴィクトルに言った。
「シャワー浴びれば大丈夫だ」
「全然嘘だ……」
アルバンが背を向けた。
「アルバン」
リヴァが呼ぶと、アルバンが振り返った。
「ありがとう」リヴァが言った。
次に風が黒いコートの裾を動かしたとき、アルバンの姿は屋上から消えていた。
その時、屋上への扉が開いた。アオイが入ってきた。
「……なんで屋上に……?」
「アオイ、皆は」
「死者は確認できてません」
言いながらアオイはカイのそばへしゃがみ、左肩の傷を確認した。カイは自分で起き上がろうとしたが、腕へ力を入れた途端に呼吸が乱れ、リヴァが背中を支えた。
「ヴィクトル、出血は」
「さほどない。だが時計とられた」
「時計?…今!?」
「五万ユーロはするやつ……許さねえ」
「五万………」
アオイの動きが一拍止まった。
「中へ入れます。医療担当がいます」
アオイがカイを立たせようとした。
「五八金」カイが言った。
「あ。……ん?」
アオイはカイの右腕を自分の肩へ回し、腰を支えて立たせた。
数歩、歩いた。
アオイがカイを見た。
「……もしかしてこれ、詰んでます?」
「詰みだ」カイが言った。少し口角が上がった。
「……今詰んでるのあなたなのに」
「俺の勝ちだ」
アオイはため息を吐いた。
「やかましいです…」
リヴァはヴィクトルの腕を取ろうとした。
「待て、汗がすごいし汚い。近づくな」
「……今更でしょ」
「俺が嫌だ」
ヴィクトルは壁を伝い、屋上の扉から中へ入った。
リヴァは扉を押さえて待っていた。
第三セーフハウス。
アルノはベッドの上で意識を失ったままだった。医療担当が脇腹の処置を続けている。
カイはベッドの足元にある壁へ背中を預け、床に座った。左肩へ畳んだ布を当て、血の広がったシャツを押さえていた。
ヴィクトルは椅子へ座り、低いテーブルへ片足を載せていた。膝の脇へ下ろした両手首の皮膚は剥けていた。
ヴィクトルがベッドへ顔を向けた。
「アルノは大丈夫なのか」
「呼吸と脈はあります……」
アオイはもう一脚の椅子を壁際へ重ね、玄関から室内中央までの場所を空けた。
「アオイー」フィンの声が外からした。
急いでアオイが玄関を開ける。
フィンがユキナガを肩に乗せて立っていた。毛布にくるまれていた。両手首には赤黒い擦過傷が広がり、腕が力なくフィンの背中側に垂れていた。
フィンはリヴァを見て息を小さく吐いた。それから、人と器材で埋まった室内を見渡した。
「狭いね……」
「はい……限界です…」
リヴァがアルノのベッドに乗り、足元にうずくまって座った。
アオイが低いテーブルをキッチン側へ押した。フィンは空いた床へ膝をつき、ユキナガを横向きに寝かせた。頭の位置を整え、気道を確保してから首筋へ指を当てる。
「ユキナガ」リヴァが言った。
「大丈夫。呼吸はある」
フィンはユキナガの肩へ触れないようジャケットを畳み、頭の下へ入れた。
狭い室内に、カイとヴィクトルの荒い呼吸が重なっていた。ベッドではアルノが目を閉じ、床ではユキナガが横向きに寝かされている。
玄関からベッドまで空けてあった通路は、人で埋まっていた。




