エレナの残した数字
低い鉄扉が、石床を擦った。
隙間から指が出た。爪の縁に血が溜まり、指先が石を掻いた。掴む場所を探して滑り、もう一度、敷居へかかった。
扉が止まった。
内側から荒い呼吸が聞こえた。吸うたびに喉が鳴り、吐いた息が鉄板へ当たって返った。
「っ……は、……っ」
指に力が入り、鉄扉がまた動いた。
腕が出た。
両手首の周囲は皮膚が剥け、掌まで血が流れていた。汗に濡れたシャツの袖口にも赤が広がっている。
ヴィクトルは両腕を床につき、頭と肩を隙間へ押し込んだ。額から落ちた汗が石床へ続いた。淡いグレーの髪は崩れ、顔へ張りついていた。
胸が敷居へ乗ったところで動きが止まった。
腕が震えた。
息を吸い込もうとして、喉が塞がった。ヴィクトルは目を閉じ、開いた口から短い呼吸を繰り返した。
手首の血が敷居へ落ちた。
もう一度肘を立てた。身体を引き寄せると、鉄扉の縁が脇腹へ食い込んだ。
「っ――」
肘が崩れ、頬が石床へ当たった。
ヴィクトルはそのまま動かなかった。肩が呼吸に合わせて激しく上下していた。
中は削れた樹脂と血が残っていた。拘束具を擦り続けた石壁には白い筋が重なり、鉄扉の内側には靴底の跡がいくつもついていた。
ヴィクトルは指を曲げ、床を掴んだ。
脇腹を敷居に擦りながら身体を引いた。腰が抜け、片脚が出た。もう片方の靴が扉に引っかかり、何度か石を蹴ったあと、外へ落ちた。
全身が床へ出た。
ヴィクトルは伏せたまま、口を開けて息をした。汗が頬と顎を伝い、血の跡へ落ちていった。
両手を胸の横についた。
腕を伸ばしかけたところで肘が折れた。身体が床へ戻り、呼吸が大きく乱れた。
「は……っ、……は……」
もう一度、手をついた。
膝を身体の下へ入れ、四つん這いになる。腕も脚も震えていた。腰を上げようとしたが、右手が滑り、肩から床へ崩れた。
ヴィクトルは咳き込んだ。
顔を横へ向け、胃の中のものを石床へ吐いた。身体が収縮するたび脇腹を押さえようとしたが、腕に力が入らなかった。
吐き終えても咳は止まらなかった。
しばらく両肘を床につけていた。
「だから嫌なんだ……っ、実働なんて…っ」
顔を上げた。
少し先の壁際に、端末が落ちていた。画面には蜘蛛の巣状の亀裂が入り、端の表示が明滅している。
ヴィクトルは右手を前へ出した。
膝を引きずり、四つん這いのまま端末へ近づいた。血に濡れた指で拾おうとして取り落とした。端末が石床に当たり、画面の亀裂が増えた。
「……クソ」
端末を床へ置いたまま、番号を入力した。指が震え、二度押し直した。
呼び出し音が鳴った。
ヴィクトルは端末の横へ肘をつき、頭を下げた。呼吸音がそのままマイクへ入った。
『誰だ』
「……ジュリオ、俺だ」
向こうが静かになった。
『ヴィクトル?』
ヴィクトルの荒い息が通話に乗った。
『まさかお前、…撃たれたのか』
「……撃たれてない」
ヴィクトルが顔を端末から背け、床へ吐いた。
『今吐いただろ!?』
「吐いて、ない」
『お前――』
「番号。分かった」
息を吸った。途中で止まった。
『エレナの残した数字か、でも何で今』
ヴィクトルは血のついた指で端末の画面を送った。割れた表示に顔を近づけ、並んでいる数列を読んだ。
「アルヴェナ聖堂…バチカンの管理番号と、つながってる」
数列を読み上げた。
途中で呼吸が詰まり、額を床につけた。肩が大きく上下した。
「行け」
『ヴィクトル――』
「……いいから行け、早く」
ヴィクトルが荒い息を吐いていると、しばらくしてジュリオが口を開いた。
『………次に会うのは、地獄かな』ジュリオが言った。
「悪いが俺は、…天国行きだ」
通話を切った。
右腕から力が抜けた。
身体が端末の脇へ崩れ、頬が石床についた。ヴィクトルは口を開けたまま息を繰り返し、もう一度端末を開いた。
「…頼むぞ」




