鉢合わせ
武蔵境の拠点に移動して、3日ほど。
夕方、廊下でカズマと鉢合わせた。
鉢合わせた、というより、待っていたようだった。
武蔵境の拠点にいつの間に移動してきたんだろう。と思った。
「暇?」と彼は言った。
「…」
「そんな警戒しないでよ」
カズマが笑う。包帯はないが、左手の傷は、まだ治っていなかった。
「カズマって、この拠点どこにいるの」とリヴァは聞いた。
「どこかに」
「部屋は」
「ある」
「どこ」
「忘れた」
忘れた、と言った顔が、嘘をついている顔じゃなかった。本当に忘れているのかもしれなかった。
カズマが壁から背中を離した。
一歩、こちらに来た。
リヴァは動かなかった。
カズマが左手を取った。手首じゃなくて、手のひらを上から包む感じで。
「何してるの」
「見てる」と彼は言った。
手の甲を上に向けた。夕焼けが差し込む廊下、その光の中で、左手の甲を見た。横浜で会った時につけた傷が、残っていた。
「消えてないな」
「消えないよ、まだ」
「そう」カズマは少し笑った。「よかった」
「よかったって何が」
「消えてたら、また切るとこだった」
手を放した。
「じゃあちょっと来て」
理由を言わなかった。でもついてこいと歩き始めたから、ついていった。
連れていかれたのは、武蔵境拠点の地下一階、資料室の隣の小部屋だった。使っていない部屋だった。段ボールが積んであって、折りたたみの椅子が二脚、壁際に立てかけてあった。
「何するの」
「暇つぶし」とカズマは言った。
椅子を二脚出して、向かい合わせに置いた。座った。リヴァも座った。
「ナイフ持ってる?」
「持ってない」
「そう」カズマは自分のナイフを出した。テーブル代わりにしていた段ボールの上に置いた。「じゃあこれ使って」
「何に」
「当ててみて。俺に」
リヴァはナイフを見た。それからカズマを見た。
「嫌」
「平気」とカズマは言った。本気でそう思っている顔だった。「お前、狙ったら当たるんでしょ。それを見てみたい」
「当たるよ」
「多分だけど」とカズマは言った。前のめりになった。目が少し違う光を持っていた。楽しんでいる目だった。「お前の能力、俺には通じないと思う。だから試したい」
「なんで通じないと思うの」
「前会った時」と彼は言った。「お前、俺を見る目が他のやつと違う」
「どう違うの」
「迷ってる」カズマは言った。「他のやつを見る時は迷わない。でも俺を見る時だけ、一瞬だけ何かが引っかかる顔をする」
リヴァは何も言わなかった。
否定できなかった。
「ほら」とカズマは笑った。「試してみようよ」
「試さない」
「なんで」
「怪我させたくない」
カズマは少し止まった。
それから、また笑った。今度は少し違う笑い方だった。
「それ、俺への心配?」
「そう」
「はじめて言われた」とカズマは言った。声が少し低くなった。「そういうこと」
立ち上がった。
一歩、来た。
リヴァは立ち上がろうとした。
カズマの手が、肩に乗った。力じゃなかった。ただ、置いた。でも立てなかった。
「お前さ」とカズマは言った。上から見下ろしていた。「俺と本気でやったら、どっちが勝つと思う」
「わかんない」
「俺もわかんない」彼は言った。「でもそれって、すごくない?俺がわかんないって思う相手、お前だけだから」
「それ褒めてるの」
「褒めてる」とカズマは即答した。「だから試したい」
肩の手が、首の方に動いた。
首じゃなかった。耳の後ろ、髪の生え際のあたりに指が触れた。
軽かった。でも、逃げ場がなかった。
カズマの目が近かった。楽しんでいる目だった。悪意がなかった。それが一番怖かった。
「カズマ」
「ん」
「離して」
「嫌」とカズマは言った。あっさりと。「もう少しだけ」
「何を」
「見てたい」と彼は言った。「お前の顔、今すごく面白い」
カズマの指が、リヴァの右側の耳たぶに触れた。その瞬間、彼女の表情が変わる。
「…っ」
まただ、と彼女は思った。ジッポライターの音を聞いたときと同じ。
体が自分の意志と反対に、固まってしまう。
「…?」その明らかな変化に、カズマは怪訝そうな顔をした。「何ーー」
言いかけたとき、ドアが開いた。
カイだった。
一瞬で状況を見た。リヴァの肩に手を置いているカズマ、目の焦点が合わないリヴァ、逃げ場のない椅子、ナイフが乗った段ボール。
部屋の温度が変わった。
「離せ」
声が低かった。命令だった。
カズマはゆっくり振り返った。
「あ、カイ」と言った。挨拶みたいに。「邪魔」
「離せ」とカイはもう一度言った。
カズマはリヴァを見た。
「続き、また今度ね」
手を離した。ナイフを拾った。ポケットに入れた。カイの横を通り過ぎる時に「ノックくらいしなよ」と言った。
カイは何も言わなかった。
カズマが廊下に消えた。
カイがリヴァの前に来た。肩に手を置いた場所を、目で確認した。触れなかった。でも確認した。
「怪我は」
「…ない」
「何をされた」
「…わからない」
カイは少しだけ目を細めた。
「カズマについていくな」と彼は言った。
リヴァはカイを見た。
命令だった。でもその声の底に、命令じゃない何かがあった。
「わかった」と言った。
カイは答えなかった。
段ボールの上に、ナイフの跡が残っていた。カズマが置いていった跡だった。
カイはそれを一秒だけ見た。
それから、リヴァの前に立ったまま、動かなかった。廊下に出るのを待っているのか、もう少しここにいるつもりなのか、わからなかった。
”La Ciudad” / Natalia Lafourcade




