触れられる前に
その夜、アルノに呼ばれた。
場所は執務室だった。ドアを開けると、アルノとローワンが両方いた。
アルノはデスクの前に立っていた。JPSを指に挟んでいたが、火はついていなかった。ローワンはソファに腰を下ろしていた。長い脚を組んで、ダンヒルを指に挟んでいた。こちらも火はない。
二人とも、煙草に火をつけていなかった。
待っていた、という空気だった。
「座ってください」とアルノが言った。
リヴァはローワンに隣に座った。ふかふかのソファ。アルノは端末から手を離した。
「カズマに会った」
アルノは少しだけ止まった。表情は変わらなかった。
「さっき、2人になった」とリヴァは言った。「ナイフを渡されて、当ててみてって言われた」
アルノはまた何も言わなかった。
「断ったけど」とリヴァは続けた。「その前に、なんか」
言葉が出てこなかった。
「なんか」とアルノが繰り返した。急かさない声だった。
「当てられる気がしなかった」とリヴァは言った。「ナイフを見た時。いつもは、狙ったら当たる感じがする。なんとなくだけど。でもカズマの時は、その感じがなかった」
部屋が静かだった。
空調の音だけがある。
アルノは眼鏡のブリッジを押し上げた。
「今まで、そういうことはありましたか」とアルノは言った。「カズマ以外で」
「ない」
「確かに」
「確かに、って」
「知っています」とアルノは言った。「あなたの射撃の瞬間、カズマの戦闘をみた時と同じような感覚があったので」
「知ってたの」
「あくまで、感覚的です」とアルノは言った。「原因はまだわかりません」
「教えてくれなかった」
「あなたが気づいていなかった」とアルノは言った。「不完全な情報を渡すことは得策ではありません」
「今は」
「今はあなたが気づいた」とアルノは言った。「だから話します」
テーブルの上に、JPSを置いた。火はつけなかった。
「カズマは」とアルノは言った。「この組織の中で、唯一あなたの能力が通じない人間の可能性は、あります。理由はわかっていない。ただ」
一拍。
「彼があなたに近づく理由が、そこにある可能性があります」
「どういうこと」
「あなたは全ての対象に能力が通じる。それが当然になっている」とアルノは言った。「カズマだけが例外です。彼がそれを知っているかどうかは分かりません。ただ、彼は本能的に感じている可能性がある」
「だから試したいって言ってたの」
「おそらく」
リヴァはテーブルの上のJPSを見た。
「あと、カズマが耳を触ったの」彼女が髪を耳にかける。「その時に、なんか変だった。時間が止まったような」
アルノが何かに気づく。ライターの時と、同じ。ローワンがアルノの方をまっすぐ見ていた。
「どのあたりですか?」ローワンがソファから体ごとリヴァを見る。
「ちょうどこのへん」
そういってリヴァは、右の耳たぶを指で触った。
「自分で触っても何ともないのに」
「怖いですか」とアルノが言った。
珍しい聞き方だった。アルノがそういうことを聞く人間だと思っていなかった。
「怖いというより」とリヴァは言った。「気持ち悪い感じ」
「気持ち悪い」
「自分の感覚が当てにならない感じ」とリヴァは言った。
言葉が続かなかった。
アルノは少しの間、リヴァを見た。
「それは正直な感覚です」と彼は言った。「その感覚を、大事にしてください」
「どうして」
「あなたが自分の能力を過信しない理由になります」とアルノは言った。「カズマは危険ですが、あなたにとって必要な存在かもしれない」
「必要?」
「例外があることを知っている人間は」とアルノは言った。「慎重になれます」
リヴァはアルノを見た。
眼鏡の奥の目が、静かだった。
「カズマには近づくな、とは言いません」とアルノは続けた。「ただ」
JPSを指で持ち上げた。
「一人にはならないでください。カイか、私か、誰かと一緒の時だけにしてください」
「カイにはついていくなって言われた」
「カイはそう言うでしょうね」とアルノは言った。微かに、口元が動いた。「私はそうは言いません。ただ、一人はだめです」
リヴァは少し考えた。
「アルノはカズマのこと、どう思ってるの」
アルノは少し間を置いた。
「有能です」と彼は言った。「ただ」
「ただ」
「信頼と有能は、別の話です」
前にも聞いた言葉だった。ヴィクトルの時に言っていた。
「アルノってそれよく言うね」
「よく使うことになる言葉です、この組織では」とアルノは言った。
JPSをテーブルに戻した。
「話してくれてありがとうございます」と彼は言った。
「別に」
「別に、ではありません」とアルノは言った。「あなたが感じた違和感を、言語化して持ってきた。それは重要なことです」
アルノがデスクの前から離れて、リヴァの正面に立った。
「さて。本題に入ります」眼鏡を押し上げた。「グレイ・マルセルについて。共有します」
「うん」
「今回の横浜拠点襲撃の背後にいる人間です。ただ、グレイが直接動くというよりは、おそらくまず、誰かを使うでしょう」
「誰を」
「今回は特定できていません」とアルノは言った。「ただ、一つ名前が出ています」
「誰」
「アルバン・カストラティ」とアルノは言った。
リヴァは聞いたことがなかった。
「フリーランスの始末屋です」とアルノは言った。「グレイとの関係は不明。ただ、同じ場所に名前が出た」
「どんな人間なの」
アルノは少しの間、答えなかった。
「わかっていないことの方が多い」
それだけだった。
「話をグレイに戻しましょう」
JPSをテーブルに置いた。
「グレイはフランス出身です。表向きは投資家ですが、実態は裏社会の広域支配者です。港湾都市を中心に、人、薬物、情報、全ての流通を押さえている。直接手を下すことはほとんどない。ただ」
一拍。
「焦りません。自分が手を下すために、時間をかけて状況を整えてくる」
「嫌な人だね」
「はい」とアルノは言った。「非常に」
ローワンが口を開いた。
「今夜呼んだのは」と彼は言った。「グレイがあなたに関心を持っている可能性があるからです」
「私に」
「あなたがここに来てから、動きが始まった」とアルノは言った。「偶然とは考えにくい」
リヴァはテーブルの上のJPSを見た。
「グレイって、どんな人間なの。もっと具体的に」
またアルノとローワンが目を合わせた。
今度は少し長かった。
ローワンが答えた。
「触れてくる人間です」と彼は言った。「距離が近い。それが支配の手段になっている」
「文字通りです」とローワンは続けた。穏やかさが揺れなかった。「接触によって相手の実在を確認する。そして相手の中に自分を刻む。恐怖でも、混乱でも、何でもいい。自分の痕跡を残すことが目的です。時には神経系の毒や、物理的な道具を使って」
部屋が静かになった。
「自分の存在を刻み付けて、支配する」とアルノは言った。「手段は選ばない」
リヴァは少しの間、何も言わなかった。
「あなたへの欲求が何なのかは、今のところ分かっていません」
ローワンが、ソファの上で少しだけ体をこちらに向けた。
「一つだけ」と彼は言った。低い声だった。「覚えておいてください」
「何」
「グレイに会った時」とローワンは言った。「穏やかに見えます。声も、態度も。怖い人間には見えない。でも」
指先が、リヴァの手の甲にかかった。
アルノよりも優しい、ローワンの穏やかな声が、今は無機質に感じられた。
触れる、というほどじゃなかった。ただ、乗った。重さがほとんどない触れ方だった。
「その穏やかさの中にいると、気づかないうちに逃げ場がなくなっていきますからね」
リヴァはローワンの指先を見た。
「だから」とローワンは続けた。「慣れないでください。穏やかさに」
「慣れた瞬間が、一番危険です」とアルノが言った。
気づいたらアルノがリヴァの正面にしゃがんでいた。
目線が同じ高さになった。眼鏡の奥の目が近かった。静かだった。いつもより、少しだけ静かだった。
「リヴァ」と彼は言った。
リヴァの前髪に、アルノの指が触れた。額にかかっていた一筋を、ゆっくりと払った。それだけだった。でもそのまま、手を引かなかった。髪に触れたまま、少しだけ止まった。
「体が警戒している、という感覚を、消さないでください」と彼は言った。
「消したら」
「慣れます」とアルノは言った。「グレイの穏やかさに」
声が、いつもより低かった。
リヴァはアルノを見た。それからローワンを見た。
手の甲に、まだローワンの指先があった。アルノの手が、まだ髪に触れていた。
「2人とも」とリヴァは言った。
「何ですか」とアルノが言った。
「ほんとにこわいんだけど」
「何が」とローワンが言った。
「グレイじゃなくて」とリヴァは言った。「今」
一拍あった。
アルノが立ち上がった。前髪から、手が離れた。
「それは」と彼は言った。眼鏡のブリッジを押し上げた。「失礼しました」
ローワンが小さく笑った。声を出さない笑い方だった。手の甲から指先が離れた。名残があった。
「怖がらせるつもりはありませんでした」とローワンは言った。「ただ」
「ただ」
「あなたに知っていてほしかった」と彼は言った。「グレイの感覚を」
アルノがJPSを手に取った。今度は火をつけた。銀のライターの炎が上がった。煙が静かに上がった。
「今夜は休んでください」とアルノは言った。「明日以降、対策を話します」
リヴァは立ち上がった。ドアに向かった。
「リヴァ」
ローワンだった。
振り返った。
ローワンはソファに座ったまま、こちらを見ていた。長身が、薄暗い部屋の中で静かだった。銀の髪が、デスクライトを反射していた。
「何か怖いことがあったら」と彼は言った。「処置室は開いています」
「怪我してないけど」
「怪我じゃなくても」とローワンは言った。「あなたがいる場所として、開いています」
リヴァは少しだけ、ローワンを見た。
それからアルノを見た。
アルノはJPSを持ったまま、こちらを見ていた。何も言わなかった。でも、視線が離れなかった。
「……わかった」
ドアを閉めた。
廊下に出ると、執務室の中から低い声が聞こえた。二人の声が混じっていた。内容は聞こえなかった。
グレイという名前が、まだ少し耳に残っていた。
でもそれより、額に触れた指先の温度の方が、少し長く残った。
廊下を歩きながら、処置室のドアを横目で見た。
少しだけ、開いていた。
“Fjara” / Sólstafir




