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『リヴァ・アルカ ―世界を確定させるアンカーと最強たちの執着譚―』  作者: Ilir Noct
第二章「交点のノイズ ― Noisy Intersection」

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19/55

井の頭公園、ハモニカ横丁

 目が覚めた時、窓から光が入っていた。


 横浜の朝と違った。


 横浜は港の湿気が朝一番に来た。水の匂いで、目が覚める前から海がわかった。


 ここは違った。


 乾いた光だった。静かだった。遠くで電車の音がした。中央線だ。一定のリズムで来て、また遠くなった。


 悪くなかった。


 一階に降りたら、アルノがいた。


 ホテルのロビーの隅のテーブルに、端末を広げていた。コーヒーが横にあった。朝から。


「おはようございます」とアルノは言った。端末から目を離さなかった。


「おはよう」


「よく眠れましたか」


「うん」


「そうですか」アルノは端末を一度閉じた。「夕方、機材が届きます。17時の予定です」


「じゃあそれまで自由?」


「そうなります」一拍。「ユキナガが配線を始めるのは機材が届いてからです。それまで拠点には業者が入っています」


「わかった」


 アルノはコーヒーを一口飲んだ。


「どこか行くつもりですか」


「吉祥寺」


 アルノは少し間を置いた。


「……いいですね」


 端末を開き直した。


 彼女はアルノを見た。


「来る?」


 アルノは端末を見たまま、一拍黙った。


「……機材の確認があります」


「午前中は?」


「……午前中は」


 また一拍。


「おい」後ろから声がした。ヴィクトルだった。


 ソファに腰を下ろして、Sobranieを指に挟んでいた。火はつけていない。ホテルのロビーだから。


 珍しかった。


 ヴィクトルは基本、拠点に泊まらない。仕事が終われば自分の場所に戻る。どこに住んでいるのか、誰も正確には知らない。港の近くだという話は聞いたことがある。横浜か、どこか別の港町か。


 彼女はヴィクトルを見た。


「泊まったの」


「ああ」


「ここに?」


「他にどこがある」


「自分とこ、戻らなかったの」


 ヴィクトルは煙草を指に挟んだまま、彼女を見た。


「お前が横浜を出たんだろ」一拍。「横浜に戻る理由がない」


 彼女は少し止まった。


「……それだけ?」


「それだけだ」


 ヴィクトルは立ち上がった。


 Sobranieをポケットに戻した。


「新しい拠点を見ておきたかった」と付け加えた。「それもある」


「どっちが本当?」


「両方だ」ヴィクトルは肩をすくめた。「文句あるか」


 彼女は「ない」と言った。


 ヴィクトルは口元を動かした。


「そうか。なら問題ない」


「拠点の搬入が終わるのは17時の予定です。その間全員で行っても邪魔になるだけなので」


「なおさら。その間散歩でもするか」






 結局、全員来た。当然、カズマはいない。誰も言及しなかった。


 断ったのはローワンだけだった。「拠点の医務室の配置を確認しておきたい」と言って、業者の立ち会いに残った。


 カイは最初から来る前提だった。彼女が行くと言った瞬間に、隣にいた。


 ユキナガは「案内する」と言って、寝起きのままパーカーにスニーカーで現れた。


 アルノは端末をジャケットの内側に入れて来た。完全には仕事を手放せていない。


 武蔵境駅の改札を出た。


 朝の中央線は空いていた。吉祥寺まで二駅だった。


 ホームで電車を待ちながら、ユキナガが言った。


「吉祥寺、何したい」


「井の頭公園」と彼女が言った。


「池、見たい?」


「うん。ボートあるって言ってた」


「乗る?」


「乗りたい」


 ユキナガは少し笑った。


「言うと思った」


 カイが横で腕を組んだ。


「ボートは」と言った。


「乗る」と彼女が言った。


「俺も乗る」


「一艘に全員は無理じゃない?」とユキナガが言った。「沈む」


体の大きいヴィクトルとカイを交互に見る。


「じゃあ分かれる」


「誰と乗るかで揉めそうだな」


 ヴィクトルが口元を動かした。


「俺が漕ごう」


「船舶免許あるからって」とユキナガは言った。「ボートは関係ないでしょ」


「関係ある」


「ない」


 電車が来た。






 井の頭公園



 井の頭公園は、朝の光の中にあった。


 池が広かった。水面が静かで、空の色を映していた。五月の空だった。薄い青で、雲が少なかった。


 木が多かった。ケヤキとサクラが混じって、葉が光を細かく割っていた。地面に光の模様が落ちていた。揺れていた。


 彼女は池の縁に立って、水面を見た。


「きれい」


「でしょ」とユキナガが隣に来た。「横浜と全然違う」


「海と池は違うけど」一拍。「これはこれで好きかも」


「緑が多くて、静かで、でも街が近い。独特なんだよ」


 ボート乗り場に向かった。


 結局、ヴィクトルとアルノは乗らなかった。


 一艘にカイと彼女とユキナガ。


 池の上に出た。


 水が近かった。


 オールで漕ぐと、波紋が広がった。


 ユキナガがオールを持っていた。意外と上手かった。リズムが安定していた。


「上手」と彼女が言った。


「バーテンは腕使うから」ユキナガはオールを引いた。「腕力はある」


「よく、海で漕いでた」と唐突にカイが言った。


「カヌー?」とユキナガが聞いた。


「サバニ」


「何それ」


「沖縄の伝統的な船だ。木で作る」


「乗れるの」


「子供の頃から」


 ユキナガはオールを持ったまま、カイを見た。


「どこの島だっけ」


「母親の実家が与那国にあった」


 日本最西端の島。それでダイビングもするのか、と妙に腹落ちした。そのまま、静かに、記憶を探るようにカイが話す。


「父親は米軍。アメリカで生まれて、海軍に入った」


「それから日本でSPして、アルカに?」


「そうだ」


 初めて聞いた。アルカの構成員は紆余曲折での所属者が多いと、前にアルノに聞いたきがする。


 急にシリアスな感じになって見かねたユキナガが声を出した。


「……じゃあ漕いでよ」


「今は乗ってる」


「漕げ~」


 そのやり取りを聞きながら、彼女は池の真ん中で、水面を見ていた。


 空が映っていた。


 ボートが揺れるたびに、空が揺れた。


「……きれい」と小さく言った。


 ユキナガがオールを止めた。


 池の真ん中で、ゆっくり漂った。


 木漏れ日が水面に落ちていた。


 鳥の声がした。


 しばらく、誰も漕がなかった。






 昼になった。


 ユキナガが「ハーモニカ横丁を見せたい」と言って、吉祥寺駅北口の方に歩き出した。


「本場ドイツのソーセージ屋さんとかこの辺あるよ」


 アルノは少し止まった。


「……本場」


「そう」


「…」


「なに」


「いえ」


 アルノは眼鏡を押し上げた。


 歩き続けた


 横丁は駅の近くにあった。


 入った瞬間、空気が変わった。


 狭かった。両側に小さな店が密集していた。焼き鳥、もつ煮、立ち飲みバー。昼だというのに、何軒か開いていた。煙草と油と出汁の匂いが混ざっていた。


 彼女は立ち止まった。


「……なんか、好き」


「でしょ」とユキナガが笑った。


「小さくて、うるさくて」


「落ち着く感じ」


「うん」


 カイが周囲を確認した。


 狭い路地だった。人が多い。遮蔽物が少ない。護衛として最悪の地形だった。


 でも彼女が「好き」と言ったから、何も言わなかった。


 ただ、距離を詰めた。


 小さな立ち飲みバーに入った。


 カウンターだけの店だった。六人で入ったら満員だった。


 実際、六人で入った。


 バーテンの老人が驚いた顔をした。でも何も言わなかった。グラスを出した。


 昼間からビールを頼んだ。


 ヴィクトルだけワインを頼もうとして、置いていないと言われた。


「ビールでいい」と言った。


 珍しかった。


 ユキナガが小声で彼女に言った。


「ヴィクトルもビール飲むんだね」


「なんか似合わないね」と彼女が言った。


 ヴィクトルが横目で見た。


「聞こえてるぞ」


 アルノがカウンターに肘をついた。


 ビールを一口飲んだ。


 窓の外の横丁を見た。


「……こういう場所が、吉祥寺にあるんですか」


「昔からあるよ」とユキナガが言った。「戦後の名残らしい」


「そうですか」アルノはまた一口飲んだ。「ベルリンにも似たような場所があります」


「どんな感じ?」


「クロイツベルクという地区に」一拍。「小さなバーが密集していて、煙草の煙が外まで出ている」


「ベルリンにもいたの」彼女が聞いた。


「まあ、少し。生まれたのはネルトリンゲンです」


「隕石が落ちた窪みを城壁にしてる所だ」ヴィクトルが補足した。「田舎だ」






 吉祥寺駅に向かって歩いた。


 夕方の光が、商店街を橙に染めていた。


 彼女は歩きながら、もう一度空を見た。


 ビルの隙間に、空があった。


 青かった。


 前の世界でも、こういう空を見ていた気がした。


 色が、似ている。そんな気がする。


 彼女は前を向いた。


 中央線の駅が、見えてきた。






 全員で、初めて新拠点に入った。


 外観は、ただの雑居ビルだった。


 三階建て。外壁がベージュのタイルで、角が少し欠けていた。一階にかつて歯科医院が入っていた区画がある。看板の跡が残っていた。エントランスのドアがガラス張りで、中が見えた。


 普通だった。


 どこにでもある、武蔵境の普通のビルだった。


 それがよかった。


 エントランスを入った。


 床がコンクリートだった。横浜の拠点はタイル張りだったから、足音が違った。少し鈍い音がした。


 天井が高かった。


 横浜より天井が高かった。


「意外」と彼女が言った。


「何が」とアルノが言った。


「広い」


「床面積は横浜より狭いです」アルノは端末を見ながら言った。「ただ、天井が高い分、圧迫感がない」


 天井を見た。


 梁が出ていた。古い木の梁だった。改装しても残してあった。それが、妙にいい雰囲気を出していた。


 一階を見て回った。


 エントランスから奥に進むと、広い共用スペースがあった。


 壁際に窓が並んでいた。外が見えた。小さな庭があった。雑草が生えていた。誰も手入れしていない庭だった。


「庭がある」と彼女が言った。「ローワンのハーブ、ここで育てられるね」





 次にキッチンを見た。


 横浜より広い。


 業務用のコンロが四口あった。シンクが二槽。カウンターの長さが十分あった。


 ユキナガが入って、すぐ棚を開けた。


「カウンター、ここに作れる」と言った。


「バーのことしか考えてないだろ」とヴィクトルが言った。


「システム配線の次に最優先」


「まだ入って5分だろ」





 二階に上がった。


 個室が並んでいた。


 横浜より部屋が広かった。窓が大きかった。


 彼女は一番奥の部屋を覗いた。


 ビルが低い。遠くに武蔵野の緑が続いていた。


「ここがいい」と言った。


「決めるのが速いですね」とアルノが言った。


「気に入ったから」


「いいと思います」一拍。「窓が大きい部屋です。朝の光が入りやすい」


 彼女は窓に近づいた。


 空を見た。


 青かった。






 全員で一階に戻った。


 共用スペースの真ん中に立った。ローワンがいた。


 梁が頭の上にあった。窓から庭が見えた。キッチンが奥にあった。


 静かだった。


 まだ何もなかった。家具も、機材も、ユキナガのシステムも。


 がらんとしていた。


 でも、窓から光が入っていた。


 彼女は光が伸びている床を見た。


「横浜と全然違う」


「違います」とアルノが言った。「ただ」


「ただ?」


「ここもすぐに、いつもの場所になります」一拍。「そういうものです」


 彼女はアルノを見た。


 アルノは端末を閉じていた。


 ヴィクトルが窓から庭を見ながら言った。


「雑草、誰が抜く。こりゃ面倒だ」


「ローワン」とユキナガが言った。


「言った覚えはありませんが」とローワンが顔を出しながら言った。


 彼女が言う。


「じゃあ一通り終わったら、みんなでやろう」


 アルノがあからさまに横を向いた。


「私はこの後しばらく出るので」


 ローワンは少し間を置いた。


「……ええ」


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