井の頭公園、ハモニカ横丁
目が覚めた時、窓から光が入っていた。
横浜の朝と違った。
横浜は港の湿気が朝一番に来た。水の匂いで、目が覚める前から海がわかった。
ここは違った。
乾いた光だった。静かだった。遠くで電車の音がした。中央線だ。一定のリズムで来て、また遠くなった。
悪くなかった。
一階に降りたら、アルノがいた。
ホテルのロビーの隅のテーブルに、端末を広げていた。コーヒーが横にあった。朝から。
「おはようございます」とアルノは言った。端末から目を離さなかった。
「おはよう」
「よく眠れましたか」
「うん」
「そうですか」アルノは端末を一度閉じた。「夕方、機材が届きます。17時の予定です」
「じゃあそれまで自由?」
「そうなります」一拍。「ユキナガが配線を始めるのは機材が届いてからです。それまで拠点には業者が入っています」
「わかった」
アルノはコーヒーを一口飲んだ。
「どこか行くつもりですか」
「吉祥寺」
アルノは少し間を置いた。
「……いいですね」
端末を開き直した。
彼女はアルノを見た。
「来る?」
アルノは端末を見たまま、一拍黙った。
「……機材の確認があります」
「午前中は?」
「……午前中は」
また一拍。
「おい」後ろから声がした。ヴィクトルだった。
ソファに腰を下ろして、Sobranieを指に挟んでいた。火はつけていない。ホテルのロビーだから。
珍しかった。
ヴィクトルは基本、拠点に泊まらない。仕事が終われば自分の場所に戻る。どこに住んでいるのか、誰も正確には知らない。港の近くだという話は聞いたことがある。横浜か、どこか別の港町か。
彼女はヴィクトルを見た。
「泊まったの」
「ああ」
「ここに?」
「他にどこがある」
「自分とこ、戻らなかったの」
ヴィクトルは煙草を指に挟んだまま、彼女を見た。
「お前が横浜を出たんだろ」一拍。「横浜に戻る理由がない」
彼女は少し止まった。
「……それだけ?」
「それだけだ」
ヴィクトルは立ち上がった。
Sobranieをポケットに戻した。
「新しい拠点を見ておきたかった」と付け加えた。「それもある」
「どっちが本当?」
「両方だ」ヴィクトルは肩をすくめた。「文句あるか」
彼女は「ない」と言った。
ヴィクトルは口元を動かした。
「そうか。なら問題ない」
「拠点の搬入が終わるのは17時の予定です。その間全員で行っても邪魔になるだけなので」
「なおさら。その間散歩でもするか」
結局、全員来た。当然、カズマはいない。誰も言及しなかった。
断ったのはローワンだけだった。「拠点の医務室の配置を確認しておきたい」と言って、業者の立ち会いに残った。
カイは最初から来る前提だった。彼女が行くと言った瞬間に、隣にいた。
ユキナガは「案内する」と言って、寝起きのままパーカーにスニーカーで現れた。
アルノは端末をジャケットの内側に入れて来た。完全には仕事を手放せていない。
武蔵境駅の改札を出た。
朝の中央線は空いていた。吉祥寺まで二駅だった。
ホームで電車を待ちながら、ユキナガが言った。
「吉祥寺、何したい」
「井の頭公園」と彼女が言った。
「池、見たい?」
「うん。ボートあるって言ってた」
「乗る?」
「乗りたい」
ユキナガは少し笑った。
「言うと思った」
カイが横で腕を組んだ。
「ボートは」と言った。
「乗る」と彼女が言った。
「俺も乗る」
「一艘に全員は無理じゃない?」とユキナガが言った。「沈む」
体の大きいヴィクトルとカイを交互に見る。
「じゃあ分かれる」
「誰と乗るかで揉めそうだな」
ヴィクトルが口元を動かした。
「俺が漕ごう」
「船舶免許あるからって」とユキナガは言った。「ボートは関係ないでしょ」
「関係ある」
「ない」
電車が来た。
井の頭公園
井の頭公園は、朝の光の中にあった。
池が広かった。水面が静かで、空の色を映していた。五月の空だった。薄い青で、雲が少なかった。
木が多かった。ケヤキとサクラが混じって、葉が光を細かく割っていた。地面に光の模様が落ちていた。揺れていた。
彼女は池の縁に立って、水面を見た。
「きれい」
「でしょ」とユキナガが隣に来た。「横浜と全然違う」
「海と池は違うけど」一拍。「これはこれで好きかも」
「緑が多くて、静かで、でも街が近い。独特なんだよ」
ボート乗り場に向かった。
結局、ヴィクトルとアルノは乗らなかった。
一艘にカイと彼女とユキナガ。
池の上に出た。
水が近かった。
オールで漕ぐと、波紋が広がった。
ユキナガがオールを持っていた。意外と上手かった。リズムが安定していた。
「上手」と彼女が言った。
「バーテンは腕使うから」ユキナガはオールを引いた。「腕力はある」
「よく、海で漕いでた」と唐突にカイが言った。
「カヌー?」とユキナガが聞いた。
「サバニ」
「何それ」
「沖縄の伝統的な船だ。木で作る」
「乗れるの」
「子供の頃から」
ユキナガはオールを持ったまま、カイを見た。
「どこの島だっけ」
「母親の実家が与那国にあった」
日本最西端の島。それでダイビングもするのか、と妙に腹落ちした。そのまま、静かに、記憶を探るようにカイが話す。
「父親は米軍。アメリカで生まれて、海軍に入った」
「それから日本でSPして、アルカに?」
「そうだ」
初めて聞いた。アルカの構成員は紆余曲折での所属者が多いと、前にアルノに聞いたきがする。
急にシリアスな感じになって見かねたユキナガが声を出した。
「……じゃあ漕いでよ」
「今は乗ってる」
「漕げ~」
そのやり取りを聞きながら、彼女は池の真ん中で、水面を見ていた。
空が映っていた。
ボートが揺れるたびに、空が揺れた。
「……きれい」と小さく言った。
ユキナガがオールを止めた。
池の真ん中で、ゆっくり漂った。
木漏れ日が水面に落ちていた。
鳥の声がした。
しばらく、誰も漕がなかった。
昼になった。
ユキナガが「ハーモニカ横丁を見せたい」と言って、吉祥寺駅北口の方に歩き出した。
「本場ドイツのソーセージ屋さんとかこの辺あるよ」
アルノは少し止まった。
「……本場」
「そう」
「…」
「なに」
「いえ」
アルノは眼鏡を押し上げた。
歩き続けた
横丁は駅の近くにあった。
入った瞬間、空気が変わった。
狭かった。両側に小さな店が密集していた。焼き鳥、もつ煮、立ち飲みバー。昼だというのに、何軒か開いていた。煙草と油と出汁の匂いが混ざっていた。
彼女は立ち止まった。
「……なんか、好き」
「でしょ」とユキナガが笑った。
「小さくて、うるさくて」
「落ち着く感じ」
「うん」
カイが周囲を確認した。
狭い路地だった。人が多い。遮蔽物が少ない。護衛として最悪の地形だった。
でも彼女が「好き」と言ったから、何も言わなかった。
ただ、距離を詰めた。
小さな立ち飲みバーに入った。
カウンターだけの店だった。六人で入ったら満員だった。
実際、六人で入った。
バーテンの老人が驚いた顔をした。でも何も言わなかった。グラスを出した。
昼間からビールを頼んだ。
ヴィクトルだけワインを頼もうとして、置いていないと言われた。
「ビールでいい」と言った。
珍しかった。
ユキナガが小声で彼女に言った。
「ヴィクトルもビール飲むんだね」
「なんか似合わないね」と彼女が言った。
ヴィクトルが横目で見た。
「聞こえてるぞ」
アルノがカウンターに肘をついた。
ビールを一口飲んだ。
窓の外の横丁を見た。
「……こういう場所が、吉祥寺にあるんですか」
「昔からあるよ」とユキナガが言った。「戦後の名残らしい」
「そうですか」アルノはまた一口飲んだ。「ベルリンにも似たような場所があります」
「どんな感じ?」
「クロイツベルクという地区に」一拍。「小さなバーが密集していて、煙草の煙が外まで出ている」
「ベルリンにもいたの」彼女が聞いた。
「まあ、少し。生まれたのはネルトリンゲンです」
「隕石が落ちた窪みを城壁にしてる所だ」ヴィクトルが補足した。「田舎だ」
吉祥寺駅に向かって歩いた。
夕方の光が、商店街を橙に染めていた。
彼女は歩きながら、もう一度空を見た。
ビルの隙間に、空があった。
青かった。
前の世界でも、こういう空を見ていた気がした。
色が、似ている。そんな気がする。
彼女は前を向いた。
中央線の駅が、見えてきた。
全員で、初めて新拠点に入った。
外観は、ただの雑居ビルだった。
三階建て。外壁がベージュのタイルで、角が少し欠けていた。一階にかつて歯科医院が入っていた区画がある。看板の跡が残っていた。エントランスのドアがガラス張りで、中が見えた。
普通だった。
どこにでもある、武蔵境の普通のビルだった。
それがよかった。
エントランスを入った。
床がコンクリートだった。横浜の拠点はタイル張りだったから、足音が違った。少し鈍い音がした。
天井が高かった。
横浜より天井が高かった。
「意外」と彼女が言った。
「何が」とアルノが言った。
「広い」
「床面積は横浜より狭いです」アルノは端末を見ながら言った。「ただ、天井が高い分、圧迫感がない」
天井を見た。
梁が出ていた。古い木の梁だった。改装しても残してあった。それが、妙にいい雰囲気を出していた。
一階を見て回った。
エントランスから奥に進むと、広い共用スペースがあった。
壁際に窓が並んでいた。外が見えた。小さな庭があった。雑草が生えていた。誰も手入れしていない庭だった。
「庭がある」と彼女が言った。「ローワンのハーブ、ここで育てられるね」
次にキッチンを見た。
横浜より広い。
業務用のコンロが四口あった。シンクが二槽。カウンターの長さが十分あった。
ユキナガが入って、すぐ棚を開けた。
「カウンター、ここに作れる」と言った。
「バーのことしか考えてないだろ」とヴィクトルが言った。
「システム配線の次に最優先」
「まだ入って5分だろ」
二階に上がった。
個室が並んでいた。
横浜より部屋が広かった。窓が大きかった。
彼女は一番奥の部屋を覗いた。
ビルが低い。遠くに武蔵野の緑が続いていた。
「ここがいい」と言った。
「決めるのが速いですね」とアルノが言った。
「気に入ったから」
「いいと思います」一拍。「窓が大きい部屋です。朝の光が入りやすい」
彼女は窓に近づいた。
空を見た。
青かった。
全員で一階に戻った。
共用スペースの真ん中に立った。ローワンがいた。
梁が頭の上にあった。窓から庭が見えた。キッチンが奥にあった。
静かだった。
まだ何もなかった。家具も、機材も、ユキナガのシステムも。
がらんとしていた。
でも、窓から光が入っていた。
彼女は光が伸びている床を見た。
「横浜と全然違う」
「違います」とアルノが言った。「ただ」
「ただ?」
「ここもすぐに、いつもの場所になります」一拍。「そういうものです」
彼女はアルノを見た。
アルノは端末を閉じていた。
ヴィクトルが窓から庭を見ながら言った。
「雑草、誰が抜く。こりゃ面倒だ」
「ローワン」とユキナガが言った。
「言った覚えはありませんが」とローワンが顔を出しながら言った。
彼女が言う。
「じゃあ一通り終わったら、みんなでやろう」
アルノがあからさまに横を向いた。
「私はこの後しばらく出るので」
ローワンは少し間を置いた。
「……ええ」




