ノルドハウンの代表
ローマ旧市街、会場北西側。同時刻。
ジュリオは壁際に座り込んでいた男の前で屈んだ。
ノルドハウン側の人間だった。四十代くらいで、整えられていた髪が汗で額に張りついている。左脚の膝下が血で濡れ、自分ではほとんど体重を掛けられないようだった。
「立てるか」
男がジュリオを見上げた。顔色が悪く、呼吸も浅い。
爆発にも巻き込まれたのか、顔は血と煤で汚れ、破片による細かな傷が散っていた。
ジュリオは左右を見た。開けた場所だった。
「ここは危ないな」
「……俺、死ぬのか。嫌だ」
「こんなんで死なねえよ。ローマまで来てこんな廊下で死ぬな。掴まれ」
男の腕を肩へ回させ、腰を入れて身体を引き上げた。男が息を詰め、片脚でどうにか立つ。
「言われた通りに、しただけなんだ」
「何?」
「ケースは、ちゃんと置い……」
そこまで言って、男の意識が飛びかけた。ジュリオが支えた。
「いい、話すな」
ジュリオは男を支えたまま通路の先を見た。石段の下に、裏通りへ抜ける鉄扉がある。
「代表はどこ行った、わかるか」
男がジュリオを見た。
口を開いたが、目が虚だった。
返事はなかった。
「いい。あとでいい」
肩に掛かる重さを直し、石段を下りた。負傷した脚が段差へ触れるたび、男の身体が沈む。
『ジュリオ』
アオイの声が入った。
『北西の裏口、右――』
ノイズが被った。
「右、何」
『三十秒前はクリアです』
「三十秒前か」
鉄扉の向こうで靴音がした。
ジュリオは男を壁へ寄せ、拳銃を抜いた。扉が少し開き、隙間から男がこちらを見た。
目が合った。
扉はすぐに閉じた。
「Cazzo」
ジュリオは鉄扉から離れた。
「東欧の奴らだな」
左手に、曇りガラスの嵌まった細い木製扉がある。ノブを回すと開いた。使われていない配膳室で、古い作業台と棚の奥にもう一枚、外へ出る扉があった。
「こっちだ」
男を引きずるように中へ入れた。
ジュリオは奥の扉を数センチ開け、路地を確認した。人影はなかったが、左手は建物が張り出し、その先が見えない。
「フィン。配膳口から一人出す。代表も引き続き探してる」
返事はなかった。
ジュリオは一度振り返った。男の唇から色が抜け始めている。
「堪えろよ」
ジュリオは先に路地へ出た。右を確認してから男を外へ出し、肩へ腕を掛け直す。
路地の先まで二十メートルほどだった。そこを曲がれば西側の退避線へ出られる。
歩き出したところで、路地の先にある建物の角から男が出た。
ジュリオが負傷者を壁側へ押し、拳銃を上げた。一発撃つと、相手が角へ引いた。
そのまま二人分の身体を前へ進める。
『ジュリオ、待って。左の死角に二人戻った』
警告とほとんど同時に、左手の路地から銃声がした。
左脚から力が抜け、ジュリオの肩が石壁へ当たった。
「っ」
負傷者を落とさないよう腕を回したまま、右手で二発返す。左手の死角から出かけていた男が引っ込んだ。
ジュリオは壁に背をつけた。
「……無線、遅え……」
『ジュリオ、撃たれた?』
「ズボンに穴空いただけ」
太腿の外側に穴があり、ズボンへ黒い染みが広がり始めていた。
無線の返事が返るまでの間隔が伸びていた。
『……一旦信じるからね、それ』
フィンの声が、無線越しの二発の銃声に掻き消えた。
「……アオイ、そっちから回れるか?」
『二分くらいかかります』
ジュリオは拳銃をしまった。
肩を入れ直して立った。最初の一歩で左膝が沈んだが、壁へ手をついて持ち直した。
「終わったら休暇取る…絶対…」
負傷者を支えたまま路地を進んだ。太腿の奥が脈に合わせて熱くなっていた。
角を曲がると、アオイが反対側から走ってきた。そのまま負傷者の反対側へ入る。
「早」ジュリオが言った。「通信のラグか」
「持ちます」
「そんなヒョロくて?」
「これでも日本人の中ではあるほうです……」
「車は?」
アオイはジュリオの足を見た。すぐに目線を戻した。
「一台来ます」
通りの向こうから黒い車両が入ってきた。アオイが片手を上げ、車は二人の前で止まった。
後部ドアを開け、男を座席へ押し込もうとしたところで、アオイが顔を上げた。
「重傷者です。手当を……あれ」
「何」
「この人、代表ですよ」
「は!?」
ジュリオが男を見た。
「……嘘だろ」
男が浅い呼吸のまま頷いた。
「先言え……」
アオイが男の脚を車内へ入れた。
「資料、見ました?」
「顔色悪すぎてわからなかった……」
ジュリオがドアを閉めると、車両は北西の出口へ向かった。
「フィン、代表見つけた。今出した」
『へ?代表?』フィンが言った。
『……ジュリオがずっと運んでた人?』
「そうらしい」
『ついてるね』
ジュリオは太腿を一度押さえた。
その場に残った途端、左脚の痛みが一段強くなっていた。
『アオイは西へ戻って。車援護するよ』
「了解です」
アオイは来た道を戻った。
ジュリオも歩き出そうとした。
『代表の車、止まった』
ジュリオが足を止めた。
「どこ」
『北西から出る手前。前が塞がって――』
遠くで銃声が続いた。
『車が出られない』
ジュリオは配膳室へ戻り、会場北側へ繋がる通路を上がった。石段を数段上がったところで左脚から急に力が抜け、手すりを掴んだ。
細い通路の先から、代表を乗せた黒い車両の後部が見えた。交差点の手前で止まっている。
向かいの建物から撃たれ、車両の前方の石壁が欠けた。
ジュリオはすぐに身体を引いた。
「駄目だ。通路全部見られてる」
次の遮蔽物までは十数メートルだった。左脚へ体重を掛けると膝が落ちた。
イヤーピースに小さなノイズが走った。
『ジュリオ』
リヴァの声だった。
「大丈夫、俺のことは気にしないで」
少し間があった。
『……撃てる』
「いや、そっちの斜線から少し外れてる」
『ううん、撃てる』
ジュリオの顔から笑みが消えた。
アオイがすぐに返した。
「リヴァ、ダメです。能力使用の許可が出ていません」
『でも――』
リヴァの声が途中でノイズに掻き消えた。
「…今、応答できるのは俺とジュリオだけです」
「なあ、俺らの指示で撃たせたらどうなる?」ジュリオがアオイに言った。
「たぶん首飛びます!」
「そりゃまずい!」
ジュリオは止まった車両の方を見た。
「フィン!」
返事はなかった。遠くで銃声が鳴り、イヤーピースのノイズが大きくなった。




