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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十三章「偏光の聖堂 ― Polarized Cathedral」

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ヴァシュロン



 第二退避が始まると、ヴィクトルもノルドハウン側の人間に混じって回廊を進んだ。


 館内では断続的に銃声が続いていた。


 退避する人間が同じ方向へ流れる中、代表だけが列を外れ、資料ケースを抱えたまま北側の扉へ入っていった。警護担当の姿はなかった。


 ヴィクトルは退避列が角の向こうへ消えるのを見届けてから、代理人の入った扉を開けた。


 歩調を落とし、イヤピースへ触れた。


「例の代理人が列を外れた」


 使用人用らしい階段が下へ続いていた。二人並ぶには狭い大きさだった。


 階段を下り始めると、ユキナガの声に細いノイズが混じった。


『ヴィクトル、現在位置を――』


「北側地下二階。旧区画」


『聞こえない、音声悪い。位置、来てな――』


 語尾が雑音に潰れた。


「長居はしない」


 ノイズが返ってきて、通信が途切れた。そのまま階段を下り切った。


 地下二階の床は磨かれた大理石から不揃いな石板へ変わり、壁際には古い木箱や布を被せた家具が寄せられている。湿気と埃の匂いが強かった。


「…嫌な雰囲気だな」ヴィクトルは呟いた。


 少し先で代表の背中が角を曲がったのが見えた。


 ヴィクトルもそこまで進んだが、曲がった先に人影はなかった。代わりに、右手の小さな部屋だけ扉が開いていた。


 中には古い作業机と書棚があり、机の上に、代表が持っていた資料ケースが置かれていた。


 ヴィクトルは中へ入った。


 留め具を外すと、何枚かの文書が入っていた。会場内の一時アクセス権限、搬入許可、委任記録。ノルドハウン側の内部識別番号が並んでいる。


 そのうち一枚で指が止まった。


 三年前に死んだ男の認証コードだった。


 署名形式も同じだった。


 発行日は今日。


 ヴィクトルは紙を机の上へ置き、認証番号と時刻を追った。


 視界の端に、バチカン管理下の聖堂に関する文書が乱雑に開かれていた。


 そこに書かれた数列に見覚えがあった。


「……」


 ヴィクトルが止まった。


 複数の靴音がしたことに、気づくのが一拍遅れた。


 ドアが大きく開かれ、壁に当たって音を立てた。


 三十代ほどで、黒いジャケットの前を開け、シャツの襟元から古い刺青が覗いている。その後ろから、もう一人が室内を覗いた。廊下にも、もう一人いる。


「誰だ?」男が言った。


 後ろの男がヴィクトルの顔を見て、口元を歪めた。


「こいつ、ノルドの顧問じゃねえか」


 ヴィクトルは二人の服装と腰回りを見た。ジャケットの下には明らかな厚みがあり、前に立つ男の右腰だけ裾の落ち方が違っている。


「参加証は?」ヴィクトルが言った。


「何?」


「申告外の人間だろ」


 二人の表情が変わった。


 背後で靴底が石を擦った。


 三人目は部屋の外、ヴィクトルが入ってきた通路側に立っていた。


「細けえ野郎だな」


「仕事柄な」


 ヴィクトルは三人を見た。


「俺に用はないだろ」


「何?」


「代表なら北へ抜けた。今なら追いつく」


 男たちが笑った。


「いいのかよ、ボス売っちゃって」


 一人が廊下の奥を見た。


「行くぞ」


 刺青の男も入口へ身体を向けた。


 ヴィクトルは資料ケースを閉じた。


 三人目が端末を見ていた。


「待て。…こいつも一覧に入ってる」


 刺青の男が端末を覗き込んだ。


「今来た。ノルド側の人員を復帰不能にさせる。…外部顧問も対象だな」


「いくらって?」


「五千」


「おお、ラッキーじゃん」


 二人がヴィクトルを見た。


 ヴィクトルは小さく息を吐いた。


「安く見られたもんだ」


「契約取れて気分いいか?東欧を切っといて」


「俺が契約書を書いたわけじゃない」


「ノルドに付いてりゃ同じだろ」


 刺青の男がヴィクトルの胸元へ手を伸ばした。


 ヴィクトルはその手首を取って引き、身体が前へ崩れたところへ肩を入れた。男の背中が石壁へ当たる。横から来た二人目には身体を返しながら腹へ拳を入れ、折れたところへ顎を打ち上げた。


 三人目が背後から腕を取ったが、ヴィクトルは肘を後ろへ振った。頬骨に当たり、掴んでいた手が緩んだ。


「っ……なんだこいつ」


 ヴィクトルはジャケットの内側へ右手を入れた。


 拳銃のグリップに触れる直前、最初の男がその腕へ飛びついた。


「なんで銃持ってんだ?おい」


 手首を石壁へ押しつけられる。ヴィクトルは相手の足を踏み、肘を顔へ入れて離させたが、その瞬間に二人目の拳が脇腹へ入った。


「痛っ…」


 息が詰まった。


 続けて腹へ一発。


「……痛い、って」


 ヴィクトルは壁へ背中を当てながらも、正面から来た拳を避け、その腕を掴んで相手を壁へ引き込んだ。膝を腹へ入れると男が呻いた。


 ヴィクトルは掴んでいる男の足を蹴って拘束を緩め、振り向きざまに拳を返した。男の唇が切れた。


 そこまでは動けた。


 三人が距離を詰めてからは、手数が足りなかった。


 右から来る腕を防げば左から腹へ入る。身体を返せば、背後から肩を押さえられる。ヴィクトルは一人の鼻から血を出させ、もう一人を壁際まで下げたが、三人目の蹴りが脇腹に入り、その直後に膝の外側を蹴られた。


 片膝が石床についた。


 肩を掴んだ手を振りほどこうとしたところへ頬を殴られ、今度は片手を床についた。


 ヴィクトルは口の中に溜まった血を吐いた。


「……勘弁してくれ、痛いの嫌いなんだ」


「まだ喋んのかよ」男は笑った。


 髪を掴まれ、顔を上げさせられた。


「っ……」


 刺青の男がヴィクトルを見て、ロシア語で言った。


「Ты откуда?(どこの人間だ?)」


「Не твоё дело.(お前には関係ない)」


 返した瞬間、男の眉が動いた。


「ロシア人じゃねえな」


 ヴィクトルは答えなかった。


「どこだ」


「Ce vrei să auzi?(何が聞きたい?)」ルーマニア語だった。


 三人の顔を順に見た。


 二人は何も反応しなかった。刺青の男だけが僅かに目を細めた。


「……なるほどな」


 ヴィクトルの口元が少し上がった。


 拳が頬へ入った。


 顔が横へ振れた。


 刺青の男が襟元を掴んだ。


「なんでノルドハウンにいる」


「それは言えない」ヴィクトルが言った。


「北欧の犬になりやがって」男が言った。


 右腕を背中へ回され、左腕も押さえられた。二人が両腕を取り、残った一人が背中へ膝を乗せる。


 樹脂製の拘束具が両手首に締まった。


「やっとだ、手間かけさせやがって」


 そのまま男たちの足元に転がされた。


「…クソ」


 男が首を回した。


「はー、疲れた」


「これで五千?」


「まだ元気じゃね?」


「じゃ、もう一発やっとくか」


 ヴィクトルの脇腹を蹴った。


「っ……」


 呻きながら体を捻った。咳き込んだ。


 うつ伏せになり、荒い息をしていた。


「五千なら顔は残しとけよ」


「証拠いる?」


「さあ。とりあえず撮っとく?」


 一人がヴィクトルの髪を掴んで顔を上げた。


「こっち見ろ」


 端末が向けられた。


 シャッター音がした。


「はい、五千」


 拳銃を抜き取られ、イヤピースも耳から外された。


 イヤピースは床へ落とされ、踵で踏み潰された。小さな破裂音がした。


 ヴィクトルはそのまま床に転がされていた。血が目に入って、左目がよく見えなかった。


 男が背後に屈んだ。


「おい、これ本物?」


 一人がヴィクトルの左袖を捲った。薄い金色のケースが出た。


「……触るな」


 男がバックルを探って外した。


「ヴァシュロン?」


「マジ?五千より高えじゃん」


「えー哀れ」


「……触るな」ヴィクトルが言った。


「あ、本物っぽい。もーらい」


 腕時計が外された。


「……」


 ヴィクトルが息を吐いた。


 内ポケットから財布を取られた。


「財布も見ようぜ」


「現金少な」


「カード一枚しかない。ナニコレ」


「金持ちって現金持たねえの?」


「これももーらい」


 刺青の男が自分の端末を取り出した。画面を見て笑った。


「おい、見ろよ。また増えてるぞ」


「今日多すぎだろ」


 もう一人が横から覗き込んだ。


「記録官の護衛、生け捕り二万」


「おおすげえ」


「殺したら?」


「五千」


「差でか」


 ヴィクトルが顔を上げた。


 男は画面から目を離さないまま、肩を蹴った。ヴィクトルが小さく呻いた。


「見かけたついでに寝かせりゃボーナスじゃん」


 もう一度、同じように足が当たった。


 ヴィクトルの荒い息が部屋に響いた。


「コレ、誰が払ってんの?」


「知ーらね」


 男はヴィクトルの頭に足を乗せた。


「動くなよ、画面見づらい」


 ヴィクトルが身をよじった。


「動くなって言ってんだろ」


 顔に蹴りを入れた。


「……」


「あーあ、顔入っちゃった」


「馬鹿だな」刺青の男が言った。


 もう一度頭に足を乗せた。


 その体勢のまま、指で画面を送った。


「外のもあるって。特殊部隊殺したら一万」


「一万なら面倒だな」


「そっちは生け捕りは書いてない」


 男がこめかみに踵を当て、ゆっくり踏み込んで捻った。


「……っ」


 ヴィクトルが顔を背けようとしたが、床に押しつけられて動かなかった。


「三人なら行けるだろ。そっち行くか?」


「今日急に増えたよな、こういうの」


「正規じゃない隊員まで集まってくるぞ」


「だな」


 男の指がもう一度止まった。


 こめかみから踵を外した。


 そのままヴィクトルの腰を跨いだ。


 しゃがむ代わりに、うつ伏せになっているヴィクトルの腰へそのまま体重を預けた。


「はー、疲れた」


 男が座りなおした。少し上へ体重が寄り、ヴィクトルの息が短く漏れた。


 男はヴィクトルの上に座ったまま、端末を指で送った。


「あ。女もある…けど、金額書いてない」


「何だそれ」


「無傷で確保。場所だけでも報酬出るって」


「女だし縛り上げりゃいけるだろ」


「お前の趣味なだけだろ」


 三人が笑った。


 ヴィクトルが顔を上げた。


「……その女の条件、もう一度言え」


 三人がヴィクトルを見た。


 腰に座った男が立ち上がった。


「あ?」


「依頼元は―」


「椅子が喋んな」


 蹴りが腹へ入った。


 ヴィクトルが膝を引き寄せるように身体を丸め、咳き込んだ。


「……仲介は、何人だ」


 今度は肋骨の下を蹴られた。


「っ……」


 刺青の男が画面を消した。


 ヴィクトルの前にしゃがんだ。髪を掴んで、顔をあげさせた。


「お前、女知ってんのか」


「……知らん」


 髪を持ったまま、床に擦り付けた。


「っ…」


「女の場所は」


 もう一度顔を持ち上げた。ペールグリーンの目が揺れた。


「知ら、ない」


「ふーん」


 一人がヴィクトルの腕を掴み、無理に立たせた。


 もう一人が加わり、左右から支えられた。


「知ってんだろ?」


 横に居た男の拳がヴィクトルに入った。血が床に飛んだ。


「…知らない」


「だっる」


「もういいや時間ねえ。こいつどうする?」


「殺す?」


「うーん…どうしよ」


「でも東欧人だろ」


「ここまでやっといて仲間意識?」


 刺青の男がヴィクトルを見た。


「モルドバから這い上がって、今度は北欧人に飼われてんのか」


 ヴィクトルの目が、かすかに動いた。


 男は廊下の奥を見た。


「金もらえりゃいい。適当にその辺入れとけ」


「じゃあ、終わり」


 男がすぐ脇の石壁にある低い鉄扉を開けた。上には煤で黒くなった古い煙道が残っていた。


「蓋しときゃ戻れねえだろ」


 扉の向こうは、奥まで一メートルほどしかなかった。幅も肩より少し広い程度で、天井は腰を折らなければ入れない高さだった。


 ヴィクトルの足が止まった。


 後ろから肩を押された。


「そこはやめろ」


「は?」


「別のところにしろ」


 一人が笑った。


「急に注文多いな。怖いのか?」


 肩を押された。ヴィクトルは答えなかった。


「頼めよ」刺青の男が言った。


「……何?」


「そこ嫌なんだろ。頼めば考える」


 ヴィクトルは目を強く閉じた。


「お願いします、別のところにしてください、って」


「言えよ、顧問さま」


 ヴィクトルは身体ごと後ろへ重心をかけ、腕を掴んでいた男を振りほどこうとした。


「クソ、おい!」


「暴れんな」

 

 刺青の男がヴィクトルを殴った。


 ヴィクトルの頭が力なく落ちた。


「あーあ、死んでない?」


「知ーらね」


 二人がかりで、狭い空間に足で押し込んだ。


「さっきまで偉そうだったのにな」


 石扉から差し込む光が細くなっていった。


 完全な暗闇になった。



 ヴィクトルは目を開けた。


 身体を起こそうとして、すぐ頭が石に当たった。


「っ……」


 天井が低かった。


 膝を引こうとしても、踵が反対側の壁に当たった。


 ヴィクトルが振り返ろうとした。


 肩が石壁にぶつかった。


「あ……」


 後ろ手に回された腕を動かした。


 樹脂製の拘束具が石に擦れた。


 扉の位置を探して肩をずらした。数十センチ動いただけで、膝が壁に当たった。


 ヴィクトルの呼吸が速くなった。


「……Cineva(誰か、)…」


 ヴィクトルはしばらく扉を見ていた。


 暗くて、何も見えなかった。


 肩まで震えているのが自分でもわかった。


 鼻を啜った。


 ヴィクトルは額を石壁につけた。


 呼吸を整えようとして、途中で喉が詰まった。


「……っ」


 身体を丸めた。


 一度、二度、肩が大きく震えた。


 しばらくして、荒い息だけが暗闇に残った。


 口元を拭おうとして、両手が動かないことに気づいた。


 ヴィクトルは目を閉じた。


「……クソ」


 遠くで銃声がした。


 そのあとにも、誰かの走る足音がした。


 ヴィクトルは顔を上げた。


 口を開いた。


 何も言わなかった。

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