全部どうでもよかったのに
新ローマ拠点 午前二時三分。
夢の中に、光はなかった。
赤いカーペットが、足元から遠くへ続いていた。壁や天井は見えなかった。けれど、広い部屋にいることだけは分かった。
誰かがいた。細く、背が高い人だった。
リヴァは声を出そうとした。カイ、と呼ぼうとした。
口は動いた。声は出なかった。
遠くで、足音がした。カイだ、と思った。
呼べば来てくれる。
また名前を呼ぼうとした。今度は、自分で口を閉じた。
リヴァは目を覚ました。
呼吸が浅かった。部屋は暗く、赤いカーペットも、顔の見えない人もいなかった。
キッチンに行き、水を入れた。誰もいなかった。
グラスを持って自分の部屋を通り過ぎた。屋上へ続く階段があった。リヴァはそのまま上がった。
屋上の扉を開けると、風が入ってきた。
カイがいた。階段室から少し離れたところに立っていた。
黒いTシャツにカーゴパンツ。腰には拳銃があった。
扉の音で振り返り、一度腰へ行った手が、リヴァを見て止まった。指に煙草を一本持っていた。まだ火はついていなかった。
遠くにローマの灯りが広がっていた。
「起きたか」
カイは、浅い呼吸とグラスを持つ手を見た。瞬きが多い。
「……夢でも見たか」
リヴァは少し止まって、考えた。
「…わかんない。顔が見えなかった。ローマ大学で会った人に似てたけど。気のせいかも」
リヴァは水を一口飲んだ。風が髪を動かした。
しばらくして、カイが静かに言った。
「連絡がなかった」
リヴァがカイを見た。
「……いつもしてるよ」
「最初の狙撃場所の選定の時だ」
リヴァは目を逸らした。
「結構前じゃん」
水を飲んだ。
「何かあったら連絡しろとあれほど言った」
「アオイが一人だったから」リヴァが言った。「ジュリオが撃たれると思って、連絡してる時間がなかった」
「接敵した時点で呼べた」
リヴァは黙った。グラスの中で、水が小さく揺れた。
「次は呼べ」カイは言った。
カイの視線が、一度下がった。
数時間前に、アルノが言った言葉が残っていた。
撤収開始後の逆行は禁止。位置が分かっていても、戻らない。
リヴァはもう一口水を飲んだ。
カイは火のついていない煙草を指に挟んだまま、屋上の縁へ視線を向けた。
「……カイは?」
間があった。
「カイが危ない時、私を呼ぶ?」
カイが黙った。煙草を持った手が、少し下がった。
「……呼ばない?」
リヴァがカイを見た。
「お前を危ないところに入れたくない」カイはリヴァを見た。「俺はお前を、守るためにいる」
カイが煙草を口へ運んだ。もう片方の手がポケットのマッチへ触れた。
リヴァがグラスを床に置いた。ポケットから煙草を出した。一本抜いて、火をつけた。
「……じゃあ、二人ともやめよう」リヴァは街並みを見ながら、言った。
カイの手が止まった。火がついていない煙草を一本持ったまま、リヴァを見ていた。
風が二人の間を抜けた。
「……何?」
リヴァがカイを向いた。
「……危ないから呼ばない、っていうの。カイも禁止にしよう」
カイは返事をしなかった。
「カイも私を呼んで」リヴァが言った。
少し間があった。
「……駄目だ」カイが言った。「お前は安全な場所にいろ」
リヴァの指が止まった。
「……またそれ?」
声が風に持っていかれた。
「私には呼べって言うのに、カイは呼ばない。私は危ないところに入るなって言う」
「同じじゃない」
カイの声も一段上がった。
「何が違うの」
「お前は護られる側だ」
リヴァはカイを見た。
「そのために、周りを危険に晒すの?」
カイの顔から、表情が消えた。喉が一度動いた。
「なぜ、そうなる」
リヴァはまた街並みを見て、煙草を吸った。
「……自分のせいで、誰かが傷つくのが嫌なの」
「それはわかった。でもそうじゃない」
「だから何が」
リヴァの声が、カイの言葉へ重なった。
煙草を持つ腕を降ろした。首だけをカイに向けた。風で髪が靡いた。
「じゃあ、私にだけ呼べって言わないで」
遠くで車の音がした。
「……本当に危なくなった時、カイは私を頼ってくれる?」
風が止んだ。
「頼らない」
リヴァは視線を落とした。近くの灰皿に、短くなっていた煙草を入れた。
「お前は」カイは言った。「俺が守るべき存在だから」
「違う。私のせいで、みんな危ない目に遭うかもしれない」
「だからこそ、この任務では安全な場所にいろ」
リヴァがカイから離れた。
「だったら、私は何のためにここにいるの」
「……それが任務だからだ」
「そればっかり」
カイが一歩近づいた。
「……何かに近づいている気がするの」
「……お前は大丈夫だ」
「私じゃなくて、みんなは?カイは?」
「俺は自分で何とかする」
「できなかったら?」
カイは答えなかった。奥歯を噛むように、頬が一度動いた。
「できなかったら、どうするの」
「……」
「じゃあ私も、危ない時にカイを呼ばない」
「駄目だ」
「駄目じゃない」
「違う」
二人の声が、ほとんど続けて重なった。
リヴァが一歩下がった。
「私のせいで誰か死んじゃったら」
カイがリヴァの肩を両手で掴んだ。カイの煙草が落ちた。
リヴァの身体が止まった。
指が肩へ深くかかり、薄い布に皺が寄った。カイの腕が強く張っていた。
数秒して、右手だけが先に離れた。左手も遅れて肩から落ちた。
風だけが残った。
「……みんなに生きてほしい」リヴァが言った。
間があった。
リヴァが目を伏せた。横を通り抜けようとした。
カイの手が動いた。腕を掴む寸前で止まり、指だけが空中で閉じた。
「死ぬと決まったわけじゃない」
リヴァが振り返った。
「言わないでよ」声を荒げた。
「全員で任務を遂行すれば」
「みんな、おかしくなってきてる」
カイがリヴァを見た。
少し遅れて、頬を伝ったものに気づいた。
「私も、皆で帰るイメージが、できない」
風が、リヴァの髪を顔へかけた。
「アルノはまた怪我してるし、ユキナガは責任重大だし、アオイは全部諦めた顔してた。……ヴィクトルは完ぺきな人なんかじゃなかった」
カイは何も言わなかった。
「ほんとのフィン、どこかに行っちゃった」
カイは床を見た。
「……赤い唐辛子のお店なんて、知りたくなかった」
リヴァは手で涙をぬぐった。
「オラヴルだって、ローマに何があるのか教えてくれなかった……絶対何か知ってるのに、惣一も、どうやっても教えてくれなかった」
リヴァがしゃがんだ。顔を伏せた。
「カラムも、いない……」
肩が震えていた。
「ミントに会いたい……」
カイがリヴァの隣に座って、胡坐をかいた。
「リヴァ」
「大事になっちゃったの」
「……」
「……失いたくないものばっかりになった」
カイはリヴァの肩に手を伸ばしかけて、止まった。
リヴァは顔を上げた。
「全部どうでもよかったのに」
手の甲で涙をぬぐった。
カイはしばらく黙っていた。
「……ああ」
二人で階段を下りた。
リヴァが先を歩いた。カイは二段ほど後ろを歩いた。どちらも何も言わなかった。
リヴァの寝室に入った。
リヴァがまっすぐベッドに入った。カイは脇の椅子を引き、そこへ座った。
椅子を引く音が、床を長く擦った。
リヴァは目を閉じた。
カイは椅子に座って、リヴァを見ていた。膝に置いた両手は、しばらく握られたままだった。
カイの手が動いた。リヴァの肩に触れる前で止まり、そのまま下ろされた。
しばらくして、椅子が鳴った。靴音が、ベッドから遠ざかった。
扉が閉まった。
リヴァは薄く目を開けた。部屋は暗かった。
カイの座っていた椅子だけが、ベッドの方を向いていた。
廊下の向こうで、もう一度、扉の閉まる音がした。
リヴァは目を閉じた。




