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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十三章「偏光の聖堂 ― Polarized Cathedral」

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全部どうでもよかったのに




 新ローマ拠点 午前二時三分。


 夢の中に、光はなかった。


 赤いカーペットが、足元から遠くへ続いていた。壁や天井は見えなかった。けれど、広い部屋にいることだけは分かった。


 誰かがいた。細く、背が高い人だった。


 リヴァは声を出そうとした。カイ、と呼ぼうとした。


 口は動いた。声は出なかった。


 遠くで、足音がした。カイだ、と思った。


 呼べば来てくれる。


 また名前を呼ぼうとした。今度は、自分で口を閉じた。


 リヴァは目を覚ました。


 呼吸が浅かった。部屋は暗く、赤いカーペットも、顔の見えない人もいなかった。


 キッチンに行き、水を入れた。誰もいなかった。


 グラスを持って自分の部屋を通り過ぎた。屋上へ続く階段があった。リヴァはそのまま上がった。


 屋上の扉を開けると、風が入ってきた。


 カイがいた。階段室から少し離れたところに立っていた。


 黒いTシャツにカーゴパンツ。腰には拳銃があった。


 扉の音で振り返り、一度腰へ行った手が、リヴァを見て止まった。指に煙草を一本持っていた。まだ火はついていなかった。


 遠くにローマの灯りが広がっていた。


「起きたか」


 カイは、浅い呼吸とグラスを持つ手を見た。瞬きが多い。


「……夢でも見たか」


 リヴァは少し止まって、考えた。


「…わかんない。顔が見えなかった。ローマ大学で会った人に似てたけど。気のせいかも」


 リヴァは水を一口飲んだ。風が髪を動かした。


 しばらくして、カイが静かに言った。


「連絡がなかった」


 リヴァがカイを見た。


「……いつもしてるよ」


「最初の狙撃場所の選定の時だ」


 リヴァは目を逸らした。


「結構前じゃん」


 水を飲んだ。


「何かあったら連絡しろとあれほど言った」


「アオイが一人だったから」リヴァが言った。「ジュリオが撃たれると思って、連絡してる時間がなかった」


「接敵した時点で呼べた」


 リヴァは黙った。グラスの中で、水が小さく揺れた。


「次は呼べ」カイは言った。


 カイの視線が、一度下がった。


 数時間前に、アルノが言った言葉が残っていた。


 撤収開始後の逆行は禁止。位置が分かっていても、戻らない。


 リヴァはもう一口水を飲んだ。


 カイは火のついていない煙草を指に挟んだまま、屋上の縁へ視線を向けた。


「……カイは?」


 間があった。


「カイが危ない時、私を呼ぶ?」


 カイが黙った。煙草を持った手が、少し下がった。


「……呼ばない?」


 リヴァがカイを見た。


「お前を危ないところに入れたくない」カイはリヴァを見た。「俺はお前を、守るためにいる」


 カイが煙草を口へ運んだ。もう片方の手がポケットのマッチへ触れた。


 リヴァがグラスを床に置いた。ポケットから煙草を出した。一本抜いて、火をつけた。


「……じゃあ、二人ともやめよう」リヴァは街並みを見ながら、言った。


 カイの手が止まった。火がついていない煙草を一本持ったまま、リヴァを見ていた。


 風が二人の間を抜けた。


「……何?」


 リヴァがカイを向いた。


「……危ないから呼ばない、っていうの。カイも禁止にしよう」


 カイは返事をしなかった。


「カイも私を呼んで」リヴァが言った。


 少し間があった。


「……駄目だ」カイが言った。「お前は安全な場所にいろ」


 リヴァの指が止まった。


「……またそれ?」


 声が風に持っていかれた。


「私には呼べって言うのに、カイは呼ばない。私は危ないところに入るなって言う」


「同じじゃない」


 カイの声も一段上がった。


「何が違うの」


「お前は護られる側だ」


 リヴァはカイを見た。


「そのために、周りを危険に晒すの?」


 カイの顔から、表情が消えた。喉が一度動いた。


「なぜ、そうなる」


 リヴァはまた街並みを見て、煙草を吸った。


「……自分のせいで、誰かが傷つくのが嫌なの」


「それはわかった。でもそうじゃない」


「だから何が」


 リヴァの声が、カイの言葉へ重なった。


 煙草を持つ腕を降ろした。首だけをカイに向けた。風で髪が靡いた。


「じゃあ、私にだけ呼べって言わないで」


 遠くで車の音がした。


「……本当に危なくなった時、カイは私を頼ってくれる?」


 風が止んだ。


「頼らない」


 リヴァは視線を落とした。近くの灰皿に、短くなっていた煙草を入れた。


「お前は」カイは言った。「俺が守るべき存在だから」


「違う。私のせいで、みんな危ない目に遭うかもしれない」


「だからこそ、この任務では安全な場所にいろ」


 リヴァがカイから離れた。


「だったら、私は何のためにここにいるの」


「……それが任務だからだ」


「そればっかり」


 カイが一歩近づいた。


「……何かに近づいている気がするの」


「……お前は大丈夫だ」


「私じゃなくて、みんなは?カイは?」


「俺は自分で何とかする」


「できなかったら?」


 カイは答えなかった。奥歯を噛むように、頬が一度動いた。


「できなかったら、どうするの」


「……」


「じゃあ私も、危ない時にカイを呼ばない」


「駄目だ」


「駄目じゃない」


「違う」


 二人の声が、ほとんど続けて重なった。


 リヴァが一歩下がった。


「私のせいで誰か死んじゃったら」


 カイがリヴァの肩を両手で掴んだ。カイの煙草が落ちた。


 リヴァの身体が止まった。


 指が肩へ深くかかり、薄い布に皺が寄った。カイの腕が強く張っていた。


 数秒して、右手だけが先に離れた。左手も遅れて肩から落ちた。


 風だけが残った。


「……みんなに生きてほしい」リヴァが言った。


 間があった。


 リヴァが目を伏せた。横を通り抜けようとした。


 カイの手が動いた。腕を掴む寸前で止まり、指だけが空中で閉じた。


「死ぬと決まったわけじゃない」


 リヴァが振り返った。


「言わないでよ」声を荒げた。


「全員で任務を遂行すれば」


「みんな、おかしくなってきてる」


 カイがリヴァを見た。


 少し遅れて、頬を伝ったものに気づいた。


「私も、皆で帰るイメージが、できない」


 風が、リヴァの髪を顔へかけた。


「アルノはまた怪我してるし、ユキナガは責任重大だし、アオイは全部諦めた顔してた。……ヴィクトルは完ぺきな人なんかじゃなかった」


 カイは何も言わなかった。


「ほんとのフィン、どこかに行っちゃった」


 カイは床を見た。


「……赤い唐辛子のお店なんて、知りたくなかった」


 リヴァは手で涙をぬぐった。


「オラヴルだって、ローマに何があるのか教えてくれなかった……絶対何か知ってるのに、惣一も、どうやっても教えてくれなかった」


 リヴァがしゃがんだ。顔を伏せた。


「カラムも、いない……」


 肩が震えていた。


「ミントに会いたい……」


 カイがリヴァの隣に座って、胡坐をかいた。


「リヴァ」


「大事になっちゃったの」


「……」


「……失いたくないものばっかりになった」


 カイはリヴァの肩に手を伸ばしかけて、止まった。


 リヴァは顔を上げた。


「全部どうでもよかったのに」


 手の甲で涙をぬぐった。


 カイはしばらく黙っていた。


「……ああ」


 二人で階段を下りた。


 リヴァが先を歩いた。カイは二段ほど後ろを歩いた。どちらも何も言わなかった。


 リヴァの寝室に入った。


 リヴァがまっすぐベッドに入った。カイは脇の椅子を引き、そこへ座った。


 椅子を引く音が、床を長く擦った。


 リヴァは目を閉じた。


 カイは椅子に座って、リヴァを見ていた。膝に置いた両手は、しばらく握られたままだった。


 カイの手が動いた。リヴァの肩に触れる前で止まり、そのまま下ろされた。


 しばらくして、椅子が鳴った。靴音が、ベッドから遠ざかった。


 扉が閉まった。


 リヴァは薄く目を開けた。部屋は暗かった。


 カイの座っていた椅子だけが、ベッドの方を向いていた。


 廊下の向こうで、もう一度、扉の閉まる音がした。


 リヴァは目を閉じた。

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