契約書
新ローマ拠点。午前四時三十二分。
東京は午前十一時三十二分だった。
アルノは眼鏡を外し、レンズを拭いた。
掛け直して、同じ行を読んだ。
脇腹のガーゼに血が滲んで、白いシャツにまでしみ込んでいた。
アルノは一度それを見て、端末を開いた。
オラヴルへの発信を開いて、一度画面を消した。
足音がした。
「寝てないのか」カイだった。
「…カイ、どうしてここに」
カイが一拍止まった。眉間に皺を寄せた。
「……アオイと交代の時間だ。お前の指示だろう」
「……そう、でした」
アルノは腕時計を見て、目頭を押さえた。
カイがアルノの包帯を見た。
「待ってろ」
カイが奥から箱を取り出し、アルノのシャツをたくし上げた。
「大丈夫です」
「包帯だけでも変えろ」
アルノは力なくカイの腕を押さえるが、びくともしなかった。
「自分で持ってろ」
アルノにシャツを上げたまま持たせた。
そのままカイが包帯を巻いていく。
「……すみません」
「あとどのくらいだ」
「今、最後のチェックをオラヴルに…手伝ってもらおうと」
「そうしろ」
包帯が巻かれた。シャツを降ろした。カイがそのシャツのしわを伸ばすように下に下げた。
「カイ」
「なんだ」
「…あなた、ずいぶん優しくなりましたね」
カイは何も言わなかった。
「交代してくる」
「お願いします」
カイが裏口に向かって歩きだした。
アルノが時計を見た。交代まで30分近くも前だった。
「…本当、優しくなりましたね」
アルノはテーブルの上のJPSの箱を取った。
一本取り出して、火をつけた。
灰皿にはすでに五本並べられていた。
向きはすべてそろっていた。
誤字を見つけて、直そうとした。文字が二重に見えた。
アルノは端末を再び開いた。
オラヴルにかけると、すぐに繋がった。
「……オラヴル」
「待ってた」
「……頼みたい、ことが」
アルノは下を向いた。
「ヴィクトルから聞いたよ。送って」
アルノは顔を上げた。
「……あいつのせいなのに」
電話の向こうでオラヴルが小さく笑った声が聞こえた。
アルノは開いていたファイルを送信した。
「何時までに出す?」オラヴルが聞いた。
「八時までに」
「……ヴィクトルは正午って言ってた気がするけど」
「……相手方の最初の要求が、九時だったので」
オラヴルが小さく笑った。
「届いた。見るね」
「誤字脱字だけ見てもらえれば」
「わかったよ」オラヴルの声が穏やかだった。「任せてね」
その声色を聞いてアルノが次の言葉を言おうとして、止まった。口を閉じて、下唇を噛んだ。
間があった。
「……すみません」小声で言った。
「こっちは昼だから、平気だよ」オラヴルが言った。
アルノは画面へ目を戻した。
カーソルが点滅して見えた。
「……お願いします」
「三十分後に返すよ」
「はい」
「君は寝てて」
「電話が来ても起きられないかもしれない」
「じゃあカイかヴィクトルか…リヴァに伝えて直接起こしてもらうよ」
「……ヴィクトルとリヴァはやめてください」
オラヴルがまた小さく笑った。
「一度切るね」
通話が切れた。
アルノは煙草を灰皿に押し付けた。
そろっていた五本の配置が崩れた。
そちらを見なかった。
アルノの端末が鳴った。
ソファから体を起こして、電話に出た。
「ごめん、ちょっと遅れた」オラヴルが言った。
アルノは腕時計を見た。午前五時四十分だった。
アルノはテーブルの前の椅子に座り直し、内容を確認した。
十二頁すべてに修正履歴が入っていた。
「出せるよ」
「…内容まで直しましたね」
「必要なところだけね」
「……」
アルノが端末を耳に当てたまま、確認を進めた。
「第四条は、現場運用上必要です」
「削ってない。緊急時の範囲を決めた」
アルノは修正箇所を拡大した。
「第九条の解除権は」
「ルカ本人にも要る」
「大学側が嫌がります」
「交渉できる文面にはしてある。…ここはヴィクトルに聞いた」
「勝手に」
「むしろあいつに契約書、全部やらせてもよかったと思うよ。僕は」
アルノは黙って、条文を一通り読んだ。
「全体的に判断は外してなかったし、文章も最後まで組めてたよ」
アルノは一度目を強くつぶった。
「第十一条だけ、直したあとで元へ戻してたね」
アルノの指が止まった。
「覚えていません」
「だから僕に送ったんだろう?」
「……はい」
紙を動かす音がした。
電話の向こうで、低く息が漏れた。
「もう送って大丈夫だよ」
「オラヴル」
アルノは眼鏡を外した。
「助かりました」
「……また何かあったらかけて」
一拍あった。アルノが端末を耳から外そうとして、声が出た。
「オラヴル」
「…なんだい」
「今日はリヴァのこと、聞かないんですか」
「…ヴィクトルから聞いたよ」
「そう、ですか」
「香水返してあげてね」
「もう捨てました」
「…そうか」
「あの匂いは、嫌いです」
「それはわかる。ヴィクトルには甘すぎるよね」
オラヴルが少し笑った。
アルノはしばらくその声を聞いていた。
「…全員生きて帰してね」オラヴルが言った。
間があった。
アルノがこめかみを押さえた。
視線を脇腹に落とすと、またガーゼに血が滲んできていた。
「……それは難しいときも、あります」
「…」
「私が指揮をとった案件で、帰せなかった隊員も、これまで沢山、」
「アルノ」
「……」
「これはお願いじゃないよ」
「……わかっています」
アルノは通話を切った。




