資料室
一階、大階段の踊り場。
リヴァはルカの横へ入った。
右手首を取り、腕を引く力に逆らわず半歩ついていく。肘が伸びたところで向きを変え、そのまま腕を背中側へ送った。
「っ、え」
ルカの肩が上がった。
前へ出ようとした身体だけが残り、足が一歩遅れて止まる。
リヴァはルカの斜め後ろへ立ち、手首を持ったまま重心を落とした。
「離して」ルカが言った。「ユキが」
「だめ」
フィンが横を通って、無言で二階へ上がった。
ルカが一瞬それを見て、腕を引いた。
肘と肩が同時に詰まり、膝が折れた。
「痛っ。何これ」
「動かないで。フィンに任せよう」
ルカは左手でリヴァの腕を外そうとした。
リヴァは手首の角度を少し変えた。
「っ、待って。いでででで」
左手が止まった。
ルカは肩越しにリヴァを見ようとしたが、首だけしか動かなかった。
「みんな、こんなのできるの?ユキも?」
「うん。前に組み手した」
ルカの動きが一瞬止まった。
「あんたが勝った?」
リヴァが横を向いた。
「ユキナガがズルして…今のところ、一対一で引き分けてる…はず」
ルカが少し笑った。下を向いた。
腕を取られたまま、呼吸が少し落ち着いた。
「……こういうのって、習ったらできるもんなの」
リヴァが少し考えた。
「これは前にヴィクトルにされたやつ」
「…あの胡散臭いやつか」
「そういう認識なんだ」リヴァが笑った。
リヴァが手を離した。
二階から銃声が二発した。
リヴァがルカの肩に静かに手を置いた。
「キッチンに戻ってて。私は先に地下にーー」
「地下は施錠されているようです。まず復旧させないと開きません」敵の拘束を終えたアルノが言った。
リヴァがアルノを見た。
「あとわかってないのは、アオイとジュリオ?と、ヴィクトルは?」
「二人は外です。ヴィクトルは…資料室から位置情報が出てますが、全く動いていません」
「わかった。確認する」
「声をかけるまで一緒に隠れていてください」
「…わかった」
「俺もいく」
「行かせません。先ほど拘束した男を、キッチン奥まで運ぶのを手伝ってください」
「今?」
「今です。足側を持ってください。私が頭側を持ちます」
アルノは脇腹を押さえたまま、拘束した男を示した。
「終わったら、扉を閉めて待っていてください」
ルカはアルノの脇腹の血を一瞬見て、階段を降りた。
リヴァは階段を上がった。
資料室の扉は、人一人が身体を横にすれば通れそうなところまで開いていた。
ヴィクトルが内側から倒れた棚を押さえているのが見えた。
「ヴィクトル、いた」
リヴァは空いた隙間から声をかけた。
「来るな」
ヴィクトルの額から汗が落ちた。
呼吸が少し浅い。
「……接敵した?」
「してない。いいから向こうへ――」
リヴァは返事をせず、身体を横にした。
肩が隙間を抜ける。
「おい」
頭と胸が入り、腰まで通った。
「いけそう」
その瞬間、倒れていた棚が軋んだ。
ヴィクトルの顔色が変わった。
「止まれ」
棚がずれた。
扉がゆっくり戻り始める。
リヴァの腰が、扉と枠の間に残った。
「やばい」
「引くぞ」
ヴィクトルはリヴァの腕を掴んだ。
一気に引くと、リヴァの身体が資料室へ倒れ込んだ。
ほぼ同時に扉が閉まった。
重い音が響く。
錠が噛み合う音が、一度響いた。
「……」
リヴァを正面から抱いたまま、ヴィクトルが小さく息を吐く。
「あーあ」
リヴァがヴィクトルを見上げた。動く隙間がなかった。
窓がなく、二人の頭の上には、裸電球が一つぶら下がっているだけだった。
「ヴィクトルが棚たおしてぐちゃぐちゃにするからじゃん」
「苦労して少しずつ開いてたんだが」
ドアノブを確認するが、全く動かない。
「また施錠されたの?」
「そのようだ」
ヴィクトルの呼吸が浅い。リヴァの頬に手のひらを添えた。
「怖くないか」
「何」
上からヴィクトルがリヴァの目を覗き込んだ。
ヴィクトルの汗が、リヴァの頬に落ちた。
「狭いところは」
また顔に汗が落ちた。リヴァが手でぬぐった。
「……平気だよ」
「よし」
ヴィクトルが手を外した。リヴァの両腰にいつのまにか手が回っていた。
身を捩っても、狭くて方向転換できないまま向き合っているしかなかった。
「ヴィクトル。近い」
「仕方ないだろ」ヴィクトルは言った。「なんでここにきた」
ヴィクトルがシャツの袖で自分の額をぬぐった。
上げた腕が裸電球に触れて、二人の影が揺れた。
「アルノが終わるまで一緒に隠れてろって」
「……それはラッキーだな」
ヴィクトルが笑った。笑ってはいたが、ボルドーのシャツが汗で胸板に張り付いていた。
「……全然ラッキーそうには見えないけど」
その時、銃声がした。
ヴィクトルが通信室の受話器を取る。
「ユキ」
しばらくして、受話器を外した。
「ユキナガの部屋の前の敵はフィンが片付けたらしい」
リヴァは息をついた。
その直後、照明が消えた。
「うわ」リヴァが言った。
ヴィクトルの手が、リヴァの背に回った。力が入った。
「…大丈夫だ」
「……ヴィクトル?」
その手が震えていた。震えを感じた直後、ヴィクトルの手が離れた。
「……」
「……もしかして、怖い?」
「いや。そんなことはない」
「ヴィクトル」
リヴァがヴィクトルの顔を見上げた。リヴァの呼吸がヴィクトルの顎に当たった。真っ暗で何も見えない、完全な暗闇だった。
ヴィクトルがドアノブを回した。開かなかった。
「……くそ」
もう一度回した。
リヴァは暗闇の中で手を探し、手首を掴んだ。
その手を、自分の背中へ戻した。
「ここなら誰にも見えないよ」
ヴィクトルの指が、シャツの上で止まった。
「…どういうつもりだ」
「隠してあげてる。震えてるの」
「口塞ぐぞ」
「できるなら」
ヴィクトルの腕が、強く回った。
「…悪い」
リヴァがヴィクトルの背中に片手を回した。軽く撫でた。
ヴィクトルのシャツはもう、乾いているところを探してもほとんどなかった。
「クソ、こんな状況じゃなきゃ襲う」
「ちょっと黙ったら?」
リヴァがヴィクトルの胸に頭を預けた。
ヴィクトルがリヴァの方に傾いて、肩を壁に預けた。息が上がっていた。
二人でしばらくそのままでいた。外に足音が聞こえる度、息を殺した。
「…昔から苦手?暗いとこ」
「……暗い所は平気だ」
「狭いとこ?」
「いや……」
ヴィクトルがリヴァの頭を撫でた。
「それ落ち着く?」
「多少」
「じゃあ、いいよ」
「……悪い」
ヴィクトルが小さく笑った。息が髪にかかった。
「…子供の頃、地下から誰にも出してもらえなかった」
「何があったの」
「…金持ちの家の使用人をしてた。母親と姉と住み込みで」
「モルドバの時?」
「ああ。扉の前を何人も通った。上で食事もしていた」
「……開けてくれなかったの」
「開ける理由がなかったんだろ」
リヴァの手が、シャツを掴んだ。
「声、出した?」
「最初は」
「最初は?」
「途中からやめた」
ヴィクトルが一度、深く息を吸った。
途中で止まった。
もう一度吸った。
今度も、最後まで入らなかった。
「……忘れろ」
「ん」
ヴィクトルはリヴァの頭を自分の胸へ押しつけた。そのあと、髪に顔を埋めて唇を押し付けた。少しして唇が離れた。
そのまま、膝が折れた。
壁伝いに体が下がり、ヴィクトルの膝が床についた。
リヴァも一緒に膝立ちになった。
「……悪い」
ヴィクトルがリヴァの胸に顔を埋めた。腰に回された腕が強くなった。
「……苦しい」
リヴァがそう言っても、ヴィクトルは動かなかった。
「リヴァ」
「…うん」
「好きだ」
「……」
数秒して、ヴィクトルの腕が緩んだ。少しだけ顔を離した。
「……クソ」
「ヴィクトル」
「……悪い、今じゃなかった」
リヴァの口元が、少しだけ緩んだ。
何も言わず、ヴィクトルの頭を撫でた。




