パニーノ
ローマ拠点、二階。午後六時四十二分。
アルノの部屋の扉は、少し開いていた。
机には配置図が三枚広げられ、赤いペンと冷めたコーヒーが置かれていた。アルノは眼鏡をかけたまま、北側の退避路を引き直していた。
リヴァは扉を叩いて、部屋に入った。
「入ってもいい?」
「もう入っています」
リヴァは後ろ手に扉を閉めた。
「ただいま」
「リヴァ、今手が離せなくて」
「ただいま」
「……おかえりなさい」
リヴァは歩みを進めて、紙包みを机の端へ置いた。
「パニーノ貰った。アルノの分」
アルノが線を引く手を止めた。
「あなたが食べればいいでしょう」
「はんぶんこ」
「そうですか」
返事だけで、手は伸びなかった。
アルノはまた配置図へ視線を落とした。
リヴァは紙包みを開き、パニーノをアルノの口元へ持っていった。
アルノが顔を上げた。
「何をしているんですか」
「はい」
数秒見てから、アルノは一口食べた。
リヴァは机の端へ座った。
「…机に座らないでください」
「アルノ、今日の建物、第一候補でいい?」
机からは降りなかった。
「会場側面の射線は使えます。裏階段は、緊急時だけにしてください」
「カイが通るには狭そうだったもんね」
アルノは赤いペンを置いた。
眼鏡を外し、目元を指で押さえた。
「疲れてそう」
「ええ」
アルノは目を閉じたまま言った。
アルノが腕を伸ばした。
腰を取られたと思った時には、リヴァの身体が机から抱えあげられていた。
アルノが一歩下がって、自分の膝にリヴァを乗せて椅子に腰かけた。
「……ここにいてほしい?」
「はい」
「…アルノ、限界そう」
アルノの片腕が、リヴァの腰を抱いた。
もう片方の手は机に残り、配置図の角を押さえている。
「仕事しにくくない?」
「少し」
「下りる?」
「だめです」
「だめですか」
アルノはリヴァの肩口へ額を寄せた。
首筋へ鼻先が触れ、浅く息を吸った。
「外の匂いがします」
「うん」
「あと、ジュリオの香水が少しだけ」
「えーやだ」
「はい。早くシャワー浴びてください」
リヴァは笑った。
アルノはもう一度息を吸った。
「何してるの」
「帰ってきたか確認しています」
「さっきおかえりって言ったじゃん」
「足りない」
眼鏡を外した顔が、首筋のすぐ近くにあった。呼吸が上着の襟へ触れる。
リヴァはそのまま体をひねって、アルノに跨った。
お互いの前髪が触れた。
アルノがリヴァを見上げた。
「リヴァ、それはまずい」
「こうしないとお仕事しちゃうでしょ」
アルノは両手をリヴァの腰に回した。腕に力が入る。
リヴァはアルノの肩口に顔を埋めて、話し出した。
「……今日ね、ジュリオが言ってた」
「何をです」
「前は帰る理由があったって」
アルノは動かなかった。
「今は、ないみたいに言ってた」
「そうですか」
「アルノは?」
アルノの腕が、リヴァの背へ回った。強く抱きしめた。
「その質問をするために、ここまで来たんですか」
「パニーノ持ってきたよ」
「では、そちらだけにしてください」
「答えたくない?」
リヴァが肩口から顔を上げてアルノを見た。呼吸が当たった。
「あなたが帰る場所を、私が管理しています」
「それはお仕事でしょ?」
「両方です」
アルノの手が、リヴァのふとももへ置かれた。
指がゆっくり沿った。アルノの視線がそちらに向いた。
リヴァはアルノの首へ手を回して、抱きしめた。
耳元に唇を寄せた。
「お仕事戻る?」
抱きしめたまま、リヴァは左右に少し揺れた。
「……あなたは悪魔ですか」
アルノはリヴァの腰を抱いたままだった。
「怖い?」
アルノの指が、腰の骨へ食い込んだ。
「今、それを確認して満足ですか」
「ちょっと安心するかも」
アルノが顔を上げた。
一瞬だけ、何かを言い返そうとして、やめた。
「…あなたは絶対に日本に帰します」
「……」
「でないとオラヴルが死んでしまうので」
リヴァが腕をほどいて、二人が少し離れた。
「あ」
「……また定時報告忘れてましたか」
「……しとく」
アルノの顔へ触れ、眼鏡の鼻あての跡をなぞった。
それから、膝の上から降りた。
「アルノ」
「…はい」
「また来るね」
アルノはリヴァの手首を取った。
「待って」
アルノが立ち上がって、そのままリヴァを抱きしめた。
「……苦しい」
「すみません」
「わかってるなら緩めてよ」
アルノがリヴァの耳をくわえた。リヴァが身をよじって外そうとした。
「あと五分だけ」吐息が耳にかかって、リヴァの体がこわばった。
「……五分は、長くない?」
「今はベッドに行けないので」
「……仕事して」
その時、アルノが息をのんで固まった。
腕を離し、一歩リヴァから離れた。
「…お仕事嫌んなった?」
「……違う。…何か、聞こえます」




