緑の庇、赤い唐辛子
旧市街の路地は、片側だけが赤く、もう片側は先に暮れていた。
ジュリオが建物の前で止まった。修復中の足場が、正面を半分覆っている。
「三階だ」ジュリオが言った。「話は通してある」
三階の部屋には窓が二つあった。リヴァは奥の窓に立って、外を見た。会合の建物の側面が、屋根の向こうにあった。
窓枠に指を当て、線を追った。正面の通り、向かいの屋根、鐘楼。
リヴァは窓を離れ、部屋の外へ出た。来た階段を見てから、廊下の奥にある作業用の扉を開けた。
細い階段が、建物の裏手へ下りていた。
「こっちは?」リヴァが言った。
「裏の中庭に出る。正面とは別の通りだ」
リヴァは階段の下と、窓から見える路地の位置を確かめた。
「ここを第一候補にする」リヴァが言った。
「戻って図面と合わせよう」
窓枠に手をついて、ジュリオは外を見ていた。
「ジュリオ、なんか元気ない?」
ジュリオは驚いてリヴァを見た。
「どうして?」
「今日は結婚の話しないから」
ジュリオは小さく笑った。そして、笑顔が引いた。
「……昨日のこと、考えてた。助けてもらったこと」
ジュリオは、暮れかけた空をしばらく見ていた。
「…それで、目まで赤いの?」
「そうじゃない。いや、そうじゃなくはないんだけど」
ジュリオは口の端で笑った。
リヴァは夕焼けを見ていた。
「ジュリオは、アルカの欧州支部から来たんだよね」リヴァは言った。
「そうだよ」
「どんな感じなの?」
「うーん……各地に散らばってるせいで、俺もよくわかってない。案件ごと召集されるから、君たちみたく仲良くはない」
遠くで、鐘が鳴っていた。リヴァが音の方を一度見た。
「なんで東京支部が欧州案件やってるんだろ」
ジュリオは一瞬止まった。すぐに笑顔に戻った。
「知らない。コアごとの細かい縄張りがあるんじゃない?」
「ふうん」
ジュリオは窓から下を見た。
「増員が一人なら、何か起きても、欧州支部は関係ないと言えるからな」
「危ないことが起きても?」
「むしろ死んだ方が、書類は少なくて済む」ジュリオは笑った。
リヴァはジュリオを見ていた。
「……そんな風に思ってるの」
ジュリオは、窓枠から手を離した。
「……前は、帰る理由があった」
「今は」
「もう、向こうにいる。…多分」
少し間があった。
ジュリオがリヴァの背に軽く手を触れ、窓の外を指した。
「一つ、覚えておいて」ジュリオが言った。「旧市街に、緑の庇の食料品店がある。スピツィオ・ヴェッキオって看板が出てる。入口に赤い唐辛子をいつも大量に吊ってる店だ」
「……」
「年寄りの店主に、俺の名前を言え。そこの地下倉庫を抜ければ、旧市街の外れに出る」
「……ジュリオ」
ジュリオが、リヴァを見た。一歩近づいて、リヴァの髪に触れた。
「復唱して」
「……そういうの、やめてよ」
「リヴァ」
ジュリオの手が、リヴァの頬に触れた。
リヴァの瞳が揺れた。
「本当に綺麗だ。キスしてもいい?」
「駄目」
「じゃあ言って」ジュリオが言った。
リヴァは黙って、視線を逸らした。
ジュリオが屈んで、顔が近づいた。頬に触れた手に力が入った。
「……スピツィオ・ヴェッキオ。緑の庇。赤い唐辛子」
「……誰にも言うなよ」ジュリオは笑って、ウインクした。
リヴァは一歩離れて、下を向いた。
「君を帰すために、俺はここにいる」ジュリオが言った。「俺が帰るかどうかは、話に入ってない」
ジュリオが、リヴァを見た。力なく笑った。
窓の外は、もう半分暮れていた。
二人は建物を出た。路地は青く沈んでいた。
二軒先に、小さなバールがあった。通りに面した窓が開いていて、カウンターの奥からエスプレッソマシンの蒸気が上がっていた。
「Giulio!」
白髪を後ろで束ねた女が、窓から顔を出した。
ジュリオは、一度だけ目を閉じた。
「マズイ、見つかった」
女は早口で何か言いながら、窓の外へ身を乗り出した。ジュリオが片手を上げて応じる。
女の目が、隣にいるリヴァへ移った。
一度、頭から足元まで見てから、気の毒そうに眉を下げた。
「Ah, bella. Questo lascialo perdere. Non è un brav’uomo」
リヴァはジュリオを見た。
「なんて?」
「…君みたいな美人には、俺はやめた方がいい。ろくな男じゃない、だそうだ」
女が、強く頷いた。
「それはなんとなく、聞き取れなくても分かった」
「すごい。もうイタリアで俺と暮らせるなあ」
女はカウンターの下から、紙に包んだパニーノを二つ出した。一つをジュリオへ押しつけ、もう一つをリヴァへ渡した。
リヴァが両手で受け取ると、女は満足そうに笑った。
ジュリオには、何かを叱るようにもう一言言った。
「今度は何?」
「俺にちゃんと食べろって」
「E la prossima volta entri dal retro e lavi i piatti!」
女はジュリオの腕を一度叩いてから、店の奥へ戻っていった。
「今度は裏口から入って、皿洗いして返せって言われた」ジュリオが腕をさすりながら笑った。「痛え」
リヴァは、紙包みを見た。
「昔から知ってる人なの?」
「母さんが死んでから、面倒を見てもらってた」
「この人に?」
「この人だけじゃない」
ジュリオは、暮れかけた通りを見た。店先の灯りが、一つずつ点き始めていた。
「この街に」
少し間があった。
「だから、顔が利くんだね」
「どうだろうな。悪さをするたび、誰かに見つかってただけかもしれない」
ジュリオは紙包みをリヴァへ持ち上げて見せた。
「食べて。逆らうと、拠点まで追ってくるぞ」
「ジュリオにも、逆らえない人いるんだ」
ジュリオが包みを開いて一口かじった。
「この人と、税務署の二つだな」
リヴァが笑った。
ジュリオが耳へ指をさした。
「俺は電話を一本入れる」
一ブロック後ろにいたアオイが距離を詰めてくるまで、ジュリオは角に立っていた。
「先に戻ってて。俺もすぐ追う」
リヴァは歩きながらパニーノを半分食べて、包みを閉じた。




