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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十二章「閉鎖系の外乱 ― Disturbance in a Closed System」

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Benson & Hedges




 ローマ、プラーティ地区。



 フィンは、配車を一ブロック手前で降りた。運転手には、帰りは別の車を回すよう伝えた。


 フィンは上着から、金色のBenson & Hedgesの箱を出した。


 一本出して吸った。


 プラーティの街路はまっすぐで、日向と日陰が、タイルの上で切り分けられていた。


 表札には、国際商取引を扱う法律事務所の名前があった。


 入り口の近くの灰皿で、煙草を捨てた。


 フィンは硝子に映った自分を見た。


 黒いジャケットの前を留めた。袖口を一度引いた。


 呼吸を遅くし、顎を引いた。


 フィンが名を告げると、奥へ通された。


 受付に笑顔で話した。


 女が目を伏せるまで、その笑顔を保っていた。


 廊下へ入ると、消えた。


 先を歩く職員の靴を見た。革の手入れ。歩幅。右の内ポケットに入った端末の形。


 通常の会議室ではなく、廊下のさらに先の、私設応接室だった。濃い木の壁。低い革張りの椅子。大理石の小卓。窓の外に、整然とした街路が見えた。


 フィンは、扉と窓の両方が視界に入る椅子に座った。黒いジャケットは脱がなかった。袖口も、襟も、崩れていなかった。


 自分の両手を見える位置に置いた。


 扉が閉まる直前、廊下の壁際に男が一人立っているのが見えた。


 男は、北アフリカ側代表の危機管理を請け負っていた。四十代後半。仕立てのいいスーツを、崩さずに着ていた。


 真鍮の盆に、ミントティーが二つ載っていた。男が一つを、フィンの前に置いた。


 フィンは、一口飲んだ。


「お口に合いましたか」男が聞いた。


「英国人にそれを聞くの、勇気あるよ」


 フィンは笑わなかった。


 男が、薄く笑った。


「わざわざ、ありがとうございます」男は言った。「時間は取らせません」


「俺も、昨日の話は気になってた」フィンは言った。


 男は、昨晩の倉庫の話から始めた。午前一時四十七分の交戦。どちらが、誰を雇ったか。


「消えたのは、輸送記録そのものではありません」男は言った。「財団へ提出される資料の、復号鍵です」


「……誰かが、中身を先に読めてるってことか」フィンは言った。


「そういうことです」男は頷いた。「これは、こちらの善意と受け取ってください。あなた方の役に立つはずだ」


「善意、ね」


 フィンはカップを持ったまま、男を見た。


「その呼び方で統一するなら、それでいいよ」


 男の笑みは変わらなかった。


「その上で、相談があります」男は言った。「うちの代表が、狙われている」


「東欧側から?」


「正規の退避路を、把握されています」男は、小卓に一枚の地図を広げた。会場周辺の路地が、細く描かれていた。「記録官と同時に地上へ出れば、こちらの代表も巻き込まれる」


 フィンは地図を見て、顎に手を当てた。


「代表を、先に出したい」男は言った。「そのために、記録官の出発を、九十秒だけ待たせてほしいのです」


 男の指が、地図の一点に触れた。


「九十秒」フィンは繰り返した。「それだけ止めるなら、理由がいる」


「警護された地下区画に、九十秒長く留まるだけです」


「九十秒で何をするの」


「代表を退避させます」


「……それだけ?」


 男は答えなかった。


「九十秒にしては、随分と本人確認に熱心だね」


「あなたのお名前には、それだけの意味があります」


 フィンは地図を見たまま、ミントティーを飲んだ。


「誰が、どうやって止めろって?」


「そこは、あなたにお任せします」


 フィンは目を細めた。


「もう一つ」男は言った。「混線を避けるために、代表の車両を、西側の路地へ回してほしい」


 地図の上を、指が一本、西へ滑った。


 フィンは、地図を見た。


「記録官を、危険に晒すわけではありません」男は言った。「地上で、二つの警護対象を衝突させないための、調整です」


「君たちの人間は、どこにいるの」


 男の指が止まった。


「当日の配置については、お伝えできません」


 男は、フィンを見た。


 フィンは西側の路地を指先で辿った。


「俺がここから代表を出すなら、この角を二つ押さえる。正面の窓にも一人。屋根にも置くかな。車だけ回して終わりじゃない」


「危機管理上、必要な措置です」


「護衛は何人?」


「配置はお伝えできません」


「会場側には?」


「共有していません」


「財団にも?」


 男は答えなかった。


 フィンが僅かに笑った。


「当日は賑やかになりそうだね」


「それを避けるために、お会いしています」


「そうかな」


 フィンは地図の西側を、指で一度叩いた。


「君たちは、撃ち合いを避けたいんじゃない。自分たちが撃ちやすい場所を、先に取っておきたいだけに見える」


 男の表情は変わらなかった。


「代表の安全が、我々の最優先です」


「生きて、出せばいいんだ」


 男は、僅かに間を置いた。


「無傷で、です」


 フィンは笑った。


「条件が増えたね」


 男は何も言わなかった。


 フィンはカップを小卓へ置いた。


「あなた自身は、誰かを撃っていただく必要はありません」男は続けた。「一度だけ、あなた自身の判断で配置を変えていただければいい」


 地図を見た。西側の路地と、地下区画と、記録官の退避経路を順に見た。


「代表は連れて出すよ」


 フィンは言った。


「残りは、その場にいる人数次第かな」


 男が、フィンを見た。


 フィンはカップを持ち上げた。


「アルノ・ヴァルツとの通信が途絶えた場合」男は言った。「作戦指揮も、あなたへ移るのでしょう」


 フィンは、カップを口へ運ぶ手を止めた。


 視線だけが、地図から男の目へ上がった。


 フィンはカップを小卓へ戻した。指が、取っ手から離れた。


「……よく調べたね」フィンは言った。


「そうでなければ、相談する相手を間違えます」男は言った。


「通信が切れることも、予定に入ってる?」


「可能性を考慮しているだけです」


「九十秒も?」


「必要な時間だと聞いています」


「聞いているって言った?情報を売った人間から?」


 男は答えなかった。


「……あなたは彼らとは違う」


 男は続けた。


「組織の理念で働いているわけではないでしょう」


「それ、褒めてる?」フィンは口角を上げたまま話した。


 フィンは背もたれへ僅かに体重を預けた。


「で?その九十秒で、誰を消すの」


「あなたには関係のないことです」


 フィンは、男を見た。


「そう」


 右手を、上着の内側へ入れた。


 廊下で、靴底が一度鳴った。


 男の視線が、フィンの右肩へ落ちた。


 フィンは手を止めなかった。


 扉の下に落ちていた影が、僅かに近づいた。


「入ってこないの?」フィンは言った。


 男は答えなかった。


「さっきから、扉の右にいる人」


 フィンは上着から、金色のBenson & Hedgesの箱を出した。


 一本抜いた。


 火をつけた。


「俺が銃を出すまで待てって言われてる?」


「警備です」男は言った。


「にしては遅いね」


 フィンは煙草を咥えた。


「今の間に、君と廊下の一人は取れたよ。俺なら」


 フィンは箱を上着の内側へ戻した。


 扉の下の影は、元の位置へ戻らなかった。


 フィンは、薄く笑って煙を吐いた。


 上着の内側で、端末が一度、短く震えた。


 フィンは取り出して端末をテーブルに置いた。


 画面を伏せた。


 男は一度だけそちらを見た。


「話、続けようか」フィンが言った。


 男が、地図の横に薄い封筒を置いた。


 フィンが一度、警備の男の方に顎を向けた。


「……下がりなさい」男が言った。


 男の声を聞いて、警備の男が廊下の奥へ数歩下がる音がした。


「…前金は、すでにエスクローへ入れています」男は言った。「実行後に、残額と共に解除されます」


 フィンは封筒を手に取った。


 中を開いた。


 数枚の書類に目を通した。送金元は複数の法人を経由していた。解除条件と、金額が記されていた。


 フィンは提示された数字を見たまま、頬の脇へ手を上げた。


 人差し指の爪側が、存在しないフレームをわずかに押し上げた。


「随分低く見積もったね」


「金額は交渉できます」


「これは、君が決められる金額?」


 男の目が、僅かに細くなった。


「……希望額は」男が聞いた。


「質問に答えて」


 フィンは封筒を見たまま言った。


 声は穏やかだった。


「私の権限で提示できる上限です」


「そう」


 フィンは封筒から目を上げた。


「じゃあ、上限まで」


 男は端末を取り出した。


 画面へ数字を入力し、フィンの前へ置いた。


 フィンは金額を見た。


 笑った。乾いた声が響いた。


 そして、笑顔が引いた。


 フィンは封筒をテーブルに置いて相手に滑らせた。三度、封筒を叩いた。


「ハクスリーをいくらで動かすのかって言ってんの」


「……」


 男は端末を手元へ戻した。


「これ以上は、別の承認が必要です」


「誰の?」


「代表顧問室の統括責任者です」


「じゃあ、その人に聞いて」


「今、ですか」


「今」


 フィンは背もたれへ体重を預けた。


 軽く握った右手を頬の脇へ上げ、人差し指の爪側で、そこにあるはずの眼鏡の外縁を押し上げた。


「君に決められない話を、君と続けても仕方ないでしょ」


 男は端末を手元へ戻した。


 短い文を打った。


 返答を待つ間、誰も喋らなかった。


 フィンは瞬きをしなかった。


 煙草を吸って、煙を吐いた。


 窓の外を、白い車が一台通った。街路の影が、ゆっくりと窓枠を横切った。


 男は画面を確認した。


 端末は、フィンの前へ置かなかった。


「……上限は、外せるそうです」


「ただし、統括責任者が直接お会いしてから、と」


 フィンは煙草を口から離した。


「いつ」


「今夜、十八時に。こちらから車を回します」


「自分で行くよ」


「ポンテ・ミルヴィオの北です。川沿いの事務所へ」


 フィンは煙草を灰皿に押しつけた。


 フィンが、地図の一点に印をつけた。


「君たちの人間は、ここより東へ出さないで」


「理由を伺っても?」


「死体で道を塞がれたくないから」


 フィンは地図を畳んだ。封筒と一緒に、上着の内側へ入れた。


 端末を取り上げ、上着の内側へ戻した。


 立ち上がった。ミントティーは、半分残っていた。


「代表には、何も伝えないでください」男は言った。


 フィンは扉へ向かいかけて、振り返った。


「君の代表は、何も知らないの?」


「知る必要がありません」


「なるほど」


 フィンは、男を見た。


「ずいぶん大事にされてるようだね」


 フィンは扉へ手をかけた。


「アンカーと同じですね」


 フィンは動きを止めずに扉を開いた。


「その名前は、交渉に入ってない」フィンが後ろを向いたまま言った。


 廊下で、靴底が一度鳴った。


 廊下の先に、受付の灯りが見えた。


 扉の右に、先ほどの男が立っていた。


 黒いスーツの前を閉じたまま、右手だけが見えなかった。


 フィンは、男の横を通った。


 男は動かなかった。


 フィンも歩調を変えなかった。


「次は、手を見えるところに置いてね」


 返答はなかった。


 フィンは数歩進んだ。


 外へ出た。


 プラーティの街路は、来た時より日向が狭くなっていた。


 フィンは上着の上から、封筒の角を一度だけ押さえた。

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