Benson & Hedges
ローマ、プラーティ地区。
フィンは、配車を一ブロック手前で降りた。運転手には、帰りは別の車を回すよう伝えた。
フィンは上着から、金色のBenson & Hedgesの箱を出した。
一本出して吸った。
プラーティの街路はまっすぐで、日向と日陰が、タイルの上で切り分けられていた。
表札には、国際商取引を扱う法律事務所の名前があった。
入り口の近くの灰皿で、煙草を捨てた。
フィンは硝子に映った自分を見た。
黒いジャケットの前を留めた。袖口を一度引いた。
呼吸を遅くし、顎を引いた。
フィンが名を告げると、奥へ通された。
受付に笑顔で話した。
女が目を伏せるまで、その笑顔を保っていた。
廊下へ入ると、消えた。
先を歩く職員の靴を見た。革の手入れ。歩幅。右の内ポケットに入った端末の形。
通常の会議室ではなく、廊下のさらに先の、私設応接室だった。濃い木の壁。低い革張りの椅子。大理石の小卓。窓の外に、整然とした街路が見えた。
フィンは、扉と窓の両方が視界に入る椅子に座った。黒いジャケットは脱がなかった。袖口も、襟も、崩れていなかった。
自分の両手を見える位置に置いた。
扉が閉まる直前、廊下の壁際に男が一人立っているのが見えた。
男は、北アフリカ側代表の危機管理を請け負っていた。四十代後半。仕立てのいいスーツを、崩さずに着ていた。
真鍮の盆に、ミントティーが二つ載っていた。男が一つを、フィンの前に置いた。
フィンは、一口飲んだ。
「お口に合いましたか」男が聞いた。
「英国人にそれを聞くの、勇気あるよ」
フィンは笑わなかった。
男が、薄く笑った。
「わざわざ、ありがとうございます」男は言った。「時間は取らせません」
「俺も、昨日の話は気になってた」フィンは言った。
男は、昨晩の倉庫の話から始めた。午前一時四十七分の交戦。どちらが、誰を雇ったか。
「消えたのは、輸送記録そのものではありません」男は言った。「財団へ提出される資料の、復号鍵です」
「……誰かが、中身を先に読めてるってことか」フィンは言った。
「そういうことです」男は頷いた。「これは、こちらの善意と受け取ってください。あなた方の役に立つはずだ」
「善意、ね」
フィンはカップを持ったまま、男を見た。
「その呼び方で統一するなら、それでいいよ」
男の笑みは変わらなかった。
「その上で、相談があります」男は言った。「うちの代表が、狙われている」
「東欧側から?」
「正規の退避路を、把握されています」男は、小卓に一枚の地図を広げた。会場周辺の路地が、細く描かれていた。「記録官と同時に地上へ出れば、こちらの代表も巻き込まれる」
フィンは地図を見て、顎に手を当てた。
「代表を、先に出したい」男は言った。「そのために、記録官の出発を、九十秒だけ待たせてほしいのです」
男の指が、地図の一点に触れた。
「九十秒」フィンは繰り返した。「それだけ止めるなら、理由がいる」
「警護された地下区画に、九十秒長く留まるだけです」
「九十秒で何をするの」
「代表を退避させます」
「……それだけ?」
男は答えなかった。
「九十秒にしては、随分と本人確認に熱心だね」
「あなたのお名前には、それだけの意味があります」
フィンは地図を見たまま、ミントティーを飲んだ。
「誰が、どうやって止めろって?」
「そこは、あなたにお任せします」
フィンは目を細めた。
「もう一つ」男は言った。「混線を避けるために、代表の車両を、西側の路地へ回してほしい」
地図の上を、指が一本、西へ滑った。
フィンは、地図を見た。
「記録官を、危険に晒すわけではありません」男は言った。「地上で、二つの警護対象を衝突させないための、調整です」
「君たちの人間は、どこにいるの」
男の指が止まった。
「当日の配置については、お伝えできません」
男は、フィンを見た。
フィンは西側の路地を指先で辿った。
「俺がここから代表を出すなら、この角を二つ押さえる。正面の窓にも一人。屋根にも置くかな。車だけ回して終わりじゃない」
「危機管理上、必要な措置です」
「護衛は何人?」
「配置はお伝えできません」
「会場側には?」
「共有していません」
「財団にも?」
男は答えなかった。
フィンが僅かに笑った。
「当日は賑やかになりそうだね」
「それを避けるために、お会いしています」
「そうかな」
フィンは地図の西側を、指で一度叩いた。
「君たちは、撃ち合いを避けたいんじゃない。自分たちが撃ちやすい場所を、先に取っておきたいだけに見える」
男の表情は変わらなかった。
「代表の安全が、我々の最優先です」
「生きて、出せばいいんだ」
男は、僅かに間を置いた。
「無傷で、です」
フィンは笑った。
「条件が増えたね」
男は何も言わなかった。
フィンはカップを小卓へ置いた。
「あなた自身は、誰かを撃っていただく必要はありません」男は続けた。「一度だけ、あなた自身の判断で配置を変えていただければいい」
地図を見た。西側の路地と、地下区画と、記録官の退避経路を順に見た。
「代表は連れて出すよ」
フィンは言った。
「残りは、その場にいる人数次第かな」
男が、フィンを見た。
フィンはカップを持ち上げた。
「アルノ・ヴァルツとの通信が途絶えた場合」男は言った。「作戦指揮も、あなたへ移るのでしょう」
フィンは、カップを口へ運ぶ手を止めた。
視線だけが、地図から男の目へ上がった。
フィンはカップを小卓へ戻した。指が、取っ手から離れた。
「……よく調べたね」フィンは言った。
「そうでなければ、相談する相手を間違えます」男は言った。
「通信が切れることも、予定に入ってる?」
「可能性を考慮しているだけです」
「九十秒も?」
「必要な時間だと聞いています」
「聞いているって言った?情報を売った人間から?」
男は答えなかった。
「……あなたは彼らとは違う」
男は続けた。
「組織の理念で働いているわけではないでしょう」
「それ、褒めてる?」フィンは口角を上げたまま話した。
フィンは背もたれへ僅かに体重を預けた。
「で?その九十秒で、誰を消すの」
「あなたには関係のないことです」
フィンは、男を見た。
「そう」
右手を、上着の内側へ入れた。
廊下で、靴底が一度鳴った。
男の視線が、フィンの右肩へ落ちた。
フィンは手を止めなかった。
扉の下に落ちていた影が、僅かに近づいた。
「入ってこないの?」フィンは言った。
男は答えなかった。
「さっきから、扉の右にいる人」
フィンは上着から、金色のBenson & Hedgesの箱を出した。
一本抜いた。
火をつけた。
「俺が銃を出すまで待てって言われてる?」
「警備です」男は言った。
「にしては遅いね」
フィンは煙草を咥えた。
「今の間に、君と廊下の一人は取れたよ。俺なら」
フィンは箱を上着の内側へ戻した。
扉の下の影は、元の位置へ戻らなかった。
フィンは、薄く笑って煙を吐いた。
上着の内側で、端末が一度、短く震えた。
フィンは取り出して端末をテーブルに置いた。
画面を伏せた。
男は一度だけそちらを見た。
「話、続けようか」フィンが言った。
男が、地図の横に薄い封筒を置いた。
フィンが一度、警備の男の方に顎を向けた。
「……下がりなさい」男が言った。
男の声を聞いて、警備の男が廊下の奥へ数歩下がる音がした。
「…前金は、すでにエスクローへ入れています」男は言った。「実行後に、残額と共に解除されます」
フィンは封筒を手に取った。
中を開いた。
数枚の書類に目を通した。送金元は複数の法人を経由していた。解除条件と、金額が記されていた。
フィンは提示された数字を見たまま、頬の脇へ手を上げた。
人差し指の爪側が、存在しないフレームをわずかに押し上げた。
「随分低く見積もったね」
「金額は交渉できます」
「これは、君が決められる金額?」
男の目が、僅かに細くなった。
「……希望額は」男が聞いた。
「質問に答えて」
フィンは封筒を見たまま言った。
声は穏やかだった。
「私の権限で提示できる上限です」
「そう」
フィンは封筒から目を上げた。
「じゃあ、上限まで」
男は端末を取り出した。
画面へ数字を入力し、フィンの前へ置いた。
フィンは金額を見た。
笑った。乾いた声が響いた。
そして、笑顔が引いた。
フィンは封筒をテーブルに置いて相手に滑らせた。三度、封筒を叩いた。
「ハクスリーをいくらで動かすのかって言ってんの」
「……」
男は端末を手元へ戻した。
「これ以上は、別の承認が必要です」
「誰の?」
「代表顧問室の統括責任者です」
「じゃあ、その人に聞いて」
「今、ですか」
「今」
フィンは背もたれへ体重を預けた。
軽く握った右手を頬の脇へ上げ、人差し指の爪側で、そこにあるはずの眼鏡の外縁を押し上げた。
「君に決められない話を、君と続けても仕方ないでしょ」
男は端末を手元へ戻した。
短い文を打った。
返答を待つ間、誰も喋らなかった。
フィンは瞬きをしなかった。
煙草を吸って、煙を吐いた。
窓の外を、白い車が一台通った。街路の影が、ゆっくりと窓枠を横切った。
男は画面を確認した。
端末は、フィンの前へ置かなかった。
「……上限は、外せるそうです」
「ただし、統括責任者が直接お会いしてから、と」
フィンは煙草を口から離した。
「いつ」
「今夜、十八時に。こちらから車を回します」
「自分で行くよ」
「ポンテ・ミルヴィオの北です。川沿いの事務所へ」
フィンは煙草を灰皿に押しつけた。
フィンが、地図の一点に印をつけた。
「君たちの人間は、ここより東へ出さないで」
「理由を伺っても?」
「死体で道を塞がれたくないから」
フィンは地図を畳んだ。封筒と一緒に、上着の内側へ入れた。
端末を取り上げ、上着の内側へ戻した。
立ち上がった。ミントティーは、半分残っていた。
「代表には、何も伝えないでください」男は言った。
フィンは扉へ向かいかけて、振り返った。
「君の代表は、何も知らないの?」
「知る必要がありません」
「なるほど」
フィンは、男を見た。
「ずいぶん大事にされてるようだね」
フィンは扉へ手をかけた。
「アンカーと同じですね」
フィンは動きを止めずに扉を開いた。
「その名前は、交渉に入ってない」フィンが後ろを向いたまま言った。
廊下で、靴底が一度鳴った。
廊下の先に、受付の灯りが見えた。
扉の右に、先ほどの男が立っていた。
黒いスーツの前を閉じたまま、右手だけが見えなかった。
フィンは、男の横を通った。
男は動かなかった。
フィンも歩調を変えなかった。
「次は、手を見えるところに置いてね」
返答はなかった。
フィンは数歩進んだ。
外へ出た。
プラーティの街路は、来た時より日向が狭くなっていた。
フィンは上着の上から、封筒の角を一度だけ押さえた。




