エレナ・コンティ
ローマ、資料室。午後三時四十六分。
二階の狭い資料室にヴィクトルがいた。
壁の棚に会場周辺の資料が積まれ、小さな机には会合関係者の一覧が開いてあった。Sobranieが一本、灰皿の縁で灰になりかけていた。
部屋は沢山の棚に囲まれ二畳ほどで窓がなく、小さな電球が一つ、ついているだけだった。
薄く開けていた扉が、大きく開いた。
「ヴィクトル」
ジュリオが入ってきた。手に、薄い書類の束を持っていた。
「悪いな、突然」
「突然来るときに、悪いと思ったことがあるか」
「ない。礼儀として言った」
ジュリオはいつものように机の角へ腰を預けた。灰皿の横に置かれたSobranieの箱へ手を伸ばし、ヴィクトルに指先を払われた。
「触るな」
「相変わらず心が狭いなあ」
「お前に一本やると、箱ごと持っていくだろ」
ジュリオは持っていた書類を、ヴィクトルの前に置いた。
「ちょっと見てくれ」
「確認ならこんな狭いところじゃなく共用スペースでいいだろ」
「俺だってお前と密室は嫌だよ、けど相談があって」
ヴィクトルは書類を手に取った。
ジュリオをこの会合の現地実働へ回す派遣命令と、欧州支部からの増援回答だった。日付も、署名も、経路も正しかった。
「これがどうしたんだ」ヴィクトルは言った。「変なところはない」
「ああ」ジュリオは言った。「それが気持ち悪い」
「……今さら細かいところ気にするのか。お前が?」
「アルノは、四人で申請を出してたと聞いた」
「…ああ」
「全部、正規の手続きで通ってる」ジュリオは言った。「ただ、交代要員なし。負傷、離脱時の補充なし。追加派遣の予定もなし、と」
ヴィクトルは書類を持ったまま、回答書をもう一度見た。
「……なるほどな」
「お前の見立てだとどうだ」ジュリオは言った。
ジュリオはポケットからMS Biondeの箱を出して、一本抜いた。
火をつけた。
「なあ」ジュリオが煙を吐いた。「……俺は、アルカに切られたと思う?」
ヴィクトルが止まった。
「煙草、持ってたなら最初から自分のを吸え」
もう一度書類を見て、眉間に皺を寄せた。
「何を根拠に言ってる」
「日本側のコアが、ヤクザだったんだろ」
「……それで?」
「欧州側も同じなら、元カラビニエリの俺は邪魔になる」
「お前がマフィアを摘発していたからか」
「しまくってたからな。恨まれる覚えはある」
「それで、欧州支部のコアがマフィア側なら、この派遣でお前を処分する、と?」
「処分命令なんかいらない」ジュリオは書類を指した。「追加人員は俺だけ。欠けても補わない。追加も出さない。それで充分だろ」
「馬鹿馬鹿しい。何年アルカにいるんだよ、お前。粛清ならもっと前にできた。アルノたちまで巻き込む理由もない」
「……じゃあ、任務ごと切る形なら?」
灰皿の縁で、ヴィクトルの煙草の灰が落ちた。
ジュリオは机から腰を上げなかった。
「前にもあったか」ジュリオが言った。「帰る手段だけ消えてる仕事」
ヴィクトルは、灰皿の煙草を消した。
「エレナ・コンティ」ジュリオが言った。
ヴィクトルが顔を上げた。
「……」
「六年前に消えた。財団の周りに入り込んでた女だ」
「……どういう関係だ」
「俺が聞いてる」
ヴィクトルは答えなかった。
「……やっぱ知ってるのか、ヴィクトル」
ヴィクトルは新しい煙草を一本出し、火をつけた。
「最後の退避担当は、俺だった」
ジュリオの身体から、動きが消えた。
「……何だって」
「国外へ出すための身分と経路を作った。最後に迎えへ行くのも、俺だった」
「お前が?」
「ああ」
「じゃあ、なんでエレナはいなくなった」
「……」
ジュリオはヴィクトルを見たまま、短く息を吐いた。
「……一緒に暮らしてたんだ」ジュリオが言った。
ヴィクトルは何も言わなかった。
「俺の部屋の鍵を持ってた。勝手に冷蔵庫の中身を捨てて、俺の煙草も捨てる女だった」
ヴィクトルの目が、わずかに動いた。
「煙草を窓から投げる女か」
ジュリオが止まった。
「覚えてたんだな」
「名前は聞いてなかった」
「俺が何年、誰の話をしてたと思ってた」
「確証がなかった」
間があった。
「……途中で何があった」ジュリオが言った。
「中止命令が来た」
「誰が決めた」
「コアだ」
「どの」
「惣一」
「……実行は」
「俺だ」
ジュリオの拳が、ヴィクトルの頬へ入った。
椅子が横へずれ、机の上の一覧が揺れた。一枚が床へ落ちた。
ヴィクトルは避けなかった。
ジュリオはヴィクトルの胸倉を掴み、引き起こした。
ヴィクトルはジュリオの手を外さなかった。
「なんで行かなかった」ジュリオがヴィクトルの顔に近づいて言った。
「……」
「命令が来たら、あいつはどうでもよくなったのか」
「違う」
「じゃあ、なんで行かなかった」
「俺が動けば、セーフハウスも協力者も、全部割れた」
「関係ない」
ジュリオの手に力が入った。
「迎えを待ってたかもしれない」ジュリオの目から涙が伝った。
「そうかもしれない」
「お前が来ると思ってたかもしれない」
「ああ」
「それでも行かなかった」ジュリオは声を荒げた。
「……そうだ」
ジュリオの呼吸が、そこで崩れた。
胸倉を掴んだまま顔を伏せた。涙がヴィクトルのシャツへ落ちた。
「俺があいつの話をしてたとき、お前は何を考えてた」
「名前を知らなかった」
「途中で気づいたんだろ」
「疑っただけだ」
「それで友達の顔をして、俺の話を聞いてた?」
「友達だったから聞いた」
ジュリオの目から、もう一度涙が落ちた。
「今、それを言うな」
「……」
「じゃあなんで、またアルカに関わってる」
「離れても、同じ命令は止まらなかった」
「今度は止められると思ってる?」
「思ってなきゃ、ここにはいない」
胸倉を掴む手が緩んだ。
ジュリオはヴィクトルを離した。
二人の荒い息が部屋に響いていた。
ジュリオは上着の内側から、折れた紙を取り出した。
「エレナの荷物に残ってた。財団のなにかの番号だ」
紙には、古い番号が一つ記されていた。
「何を調べてたのかは、分からない」
「……」
「お前なら何かわかるかもしれない」
ヴィクトルが手を伸ばすと、ジュリオは紙を引いた。
「原本は渡さない」
「仕事はさせるのか」
「いいから調べてくれ」
ジュリオは番号だけを読み上げた。ヴィクトルは端末へ入力した。
ジュリオは紙を上着の内側へ戻した。
「……あの半地下で、俺はリヴァに守られた」
ヴィクトルは口元の血を拭った。手についた血を確認した。
「……エレナも、そういう女だった」ジュリオは言った。「俺より先に危険へ入って、俺だけを後ろへ押す」
「リヴァをエレナにするな」
ジュリオの目が上がった。
「お前が言うのか」
「あいつは、お前のやり直しじゃない」
「お前も同じだろうが」ジュリオの声が響いた。
ヴィクトルが黙った。
ジュリオが机に置かれた派遣関係の書類も取り上げ、折って内ポケットへしまった。
ヴィクトルに背を向けて、大きく息を吸った。
袖で雑に目を拭いた。
扉のところまで歩いてから、振り返った。
口元にだけ、いつもの笑みを戻した。
「じゃあ俺、今からリヴァとデートだから」
「その顔で行くのか」
「弱ってる男には、女も少し優しいだろ」
「あいつは優しくないぞ」
ジュリオが扉を開けた。
「ジュリオ」
足が止まった。
「帰ってこい」
ジュリオは振り返らなかった。
「……六年前に言えよ」
ジュリオは出ていった。
資料室に、ヴィクトル一人になった。
閉まった扉を見て、少しだけ開けた状態に戻した。床に適当にまとめられた紙をドアに挟んだ。
机の上には、ジュリオの煙草の灰と、床へ落ちた会合関係者の一覧が残っていた。
ヴィクトルは紙を拾い、机へ戻した。
口元へ触れると、指に血がついた。
ヴィクトルは作戦記録の保留案件を開いた。
二件あった。
作戦編成除外に関する医学的勧告。
どちらにも、オラヴルの署名が入っていた。対象はリヴァ。能力使用後の意識喪失、記憶障害、急性症状を理由に、今回の作戦編成から外すことを求めていた。
二件とも、アルノのところで「上申保留」になっていた。
惣一には届いていない。
ヴィクトルは時計を見た。
午後四時八分。
東京は、午後十一時八分。
端末から、オラヴルを呼び出した。
二回で出た。
「…リヴァは」
「生きてる」ヴィクトルは言った。「挨拶くらいしろ、オリ」
「歩けている?」
「歩いてた。普通だよ」
「今は」
「当日の安全地帯の選定をしに行ってる」
オラヴルは黙った。
「お前の勧告を見た」ヴィクトルは言った。「リヴァの編成除外。二度出してるな」
「出したよ」
「二件とも、アルノで止まってる」
「……惣一には」
「届いてない」
返事がなかった。
オラヴルは短く息を吐いた。
ヴィクトルは、指についた血を親指で拭った。
「却下されると思って止めたんだろうな」
「……そうだろうね」
「お前の過去も、これ以上掘らせたくなかったんだろ」
「分かっているよ」
オラヴルの声は変わらなかった。
「止めようと思えば、お前なら出来た」ヴィクトルが言った。
「リヴァは大人しくしてるような子じゃないよ」
「薬でも何でも使えただろ、お前なら」
「物騒なこと言わないでくれるかい」
「準備してただろ」
オラヴルが止まった。
そして、いつもより小さな声で言った。
「……彼女が、帰ってくると言ったから」
ヴィクトルは何も言わなかった。
机の端に置かれたSobranieの箱へ手を伸ばし、一本抜いた。
「アルノに連絡してやれ」ヴィクトルは言った。「あいつも限界だ」
「アルノが待っているのは、僕じゃないだろう」
「俺も余裕がない」
「…そうか」
「お前もだ」
少し間があった。
「……そうだね」
ヴィクトルは煙草を口に咥えたまま、火をつけなかった。
「例の……君に頼んでいた件は」オラヴルが言った。
「マニラ行きならできてる」
「最初から、そこへ?」
「まさか。消えた後の場所だ」
「彼女には」
「まだ話してない」
「…何故」
「そのうち伝えるさ」
電話の向こうが静かになった。
「……誰が?」
「何だ」
「誰が生き残ったら、話すんだい」
間があった。
ヴィクトルが息を吐いた。
「いかん、疲れてるらしい」
「ヴィクトル」
ヴィクトルは止まった。そしてライターで煙草に火をつけた。
「……ユキナガには、もう渡した」ヴィクトルは言った。「俺の認証が七十二時間止まれば、ファイルが開く」
「それは、リヴァの帰還計画ではないね」
ヴィクトルが煙を吐いた。
「君の死亡処理だろ」
しばらく、どちらも話さなかった。
「明日も、電話しなさい」オラヴルが言った。
「おやすみ、オリ」
「ヴィクトル」
通話を切ろうとした指が止まった。
「何だ。しつこいぞ」
「リヴァを、帰してくれ」
「……分かってる」
「君もね」
ヴィクトルは返事をしなかった。
通話が切れた。
机の上で、リヴァの勧告書と、会合関係者の一覧が並んで開いていた。




