焼きたてパン
ヴィクトルとアルノが、廊下を歩いていた。ヴィクトルは片方の袖だけ雑に折られ、女物の香水が薄く残っている。
「六時半に戻るはずでは」アルノが言った。
「だいたい間に合った」
「あなたが戻ったのは六時四十八分です」
「昨日からどうした?そんなに傍に居てほしいのか?」
アルノは何も言わなかった。
ヴィクトルは小さく息を吐いた。
「また同じ拠点に住んでるだろ」ヴィクトルは言った。「日本の時と違って」
アルノは前を向いたまま歩いた。
「……昨晩もいると思ってました」
ヴィクトルはアルノを見て止まった。
「……」
アルノも歩みを止めた。
「あなたに聞きたかった判断がありました。南側の臨時地点について」
ヴィクトルが目を細めた。
アルノは振り返った。
「……部屋は、空でした」
「来たのか」
一拍あった。
ヴィクトルが小さく笑って、アルノを見た。手を伸ばして、一歩近づいた。
「疲れたか」
「……はい」
「妙に素直だな」
アルノは動かなかった。ヴィクトルを見上げた。
腕が肩へ触れる直前、知らない香りがした。
アルノが半歩引いて、顔を逸らした。
「…触らないでください」
アルノは振り返って、先に歩き出した。
三歩目で、歩調がわずかに落ちた。
背後からヴィクトルの靴音が続いた。
アルノは振り返らなかった。歩みを戻した。
アルノは共有スペースの扉を開けた。ヴィクトルもついていった。
ユキナガが端末の前にいた。画面に大学の観測ログを開いている。
アルノがユキナガを見た。
「ユキナガ。言い訳を聞きましょうか」
「最高でした」ユキナガは画面を見たまま言った。
アルノが舌打ちをした。
ユキナガがアルノを見た。
「え、今舌打ちした?」
「しました」
アルノが端末をポケットから出し、そちらを見た。
ヴィクトルが笑いながらユキナガの背後に立ち、煙草に火をつけた。画面を一度見る。
「それ、大学の記録と時刻合ってるか?」
「0.7秒だけズレてる」
「0.7秒あれば、人間は扉を抜ける」
「けどこれ、なんか――」
玄関が大きな音を立てて開いた。
「ユキー!!!」
ルカが入ってきた。白いシャツを着ていた。胸ポケットにシルバーのケースが挿さっている。片手にノートパソコンを提げていた。
「うわ」ユキナガが顔を顰めた。
ルカは座っているユキナガに抱きついて、頬にキスをした。
「……お前、そんな香水つかってたっけ」ユキナガが言った。
ルカは離れて、ユキナガの隣に座った。
胸ポケットからケースを出し、一本抜いて火をつけた。
「これ教授の服」咥えながら言った。
ユキナガの手が止まった。ヴィクトルとアルノも、ルカを見た。
「……なんで?」
「一緒に住んでるから」
ユキナガはキーから手を離した。
「…いつから」
「四年、くらい」
「……は?」
ユキナガはしばらく止まったあと、ポケットから煙草を取り出した。火をつける。
「生活まで任せてんの」
「んー…。うん。俺がご飯食べなくて、何回か倒れたから」
「……まだ直ってないのかよ」
「ユキがいないと、分かんなくなるんだもん。ご飯とか、寝るとか」
「その煙草も?」
「うん、くれる。足りなくなったらアイブラ吸う」
ヴィクトルがケースを見た。手巻きが隙間なく並んでいる。
ユキナガはルカの煙草へ目を移した。
「……お前、それでいいの」
「寝るまで研究の話できるし、いい機材使えるし」
「すごい熱量だな」ヴィクトルが横から言った。
ルカがヴィクトルを向いて笑った。
ヴィクトルが長く息を吐いた。
「…で、就職?するんだろ、その人の元で」ユキナガが言った。
「書類とかはもう出来てる」
「…なんか、それって」そこまで言って、ユキナガが言い淀んだ。「……平気なの」
アルノが眼鏡を上げた。
ルカは煙草を見たまま言った。
「ユキに会えたから」
アルノがルカを見ていた視線を逸らした。
ヴィクトルが煙草の灰を灰皿に落とした。
ルカが脚を揺らしながら、頬杖をついた。
「ユキも香水違うね。女ものみたい」
アルノがヴィクトルを睨んだ。ヴィクトルは煙を吐いた。
「うるさい。そんなんはいいんだよ」ユキナガはログを拡大した。「仕事するぞ」
「うん」
「二十七番に、送信が一件。でも端末が登録されてない。呼び出したプロセスも残ってない」
「消した?」
「消した痕跡もない」
「教授を含め、関係者は一度すべて洗ってください」アルノが言った。「ユキナガも協力を。必要ならヴィクトルも使ってください」
「教授は関係ない」ルカが言った。
「それを確認します」アルノはルカへ顔を向けた。「あと、当面、ここを出る時はアオイに声をかけてください」
「誰それ」
「地味な日本人」ユキナガが言った。
「ああ、あの人」
ルカはノートパソコンを開いた。
「じゃあ、どこから洗う?」ユキナガをみた。笑顔だった。
「四つ」ユキナガはキーを叩いた。「教授、研究室の人間、権限を持ってるやつ、二十七番に触れられるやつ」
「研究室は四人。権限は、教授と俺」ルカが画面を送った。「その番号のは、今は誰も割り当てられてない」
ユキナガは別の記録を重ねた。カメラ、入館証、人流。全部正常だった。
「統合すると、さっきの0.7秒だけやっぱ位置が合わない」ユキナガは言った。「ノイズなら残るし、欠損でも出る。どっちも出てない」
「じゃあ何」ルカが訊いた。
ヴィクトルが一歩ユキナガに近づいた。ユキナガの肩に手を置いて、画面をのぞき込んだ。
ルカがその手を見た。
「誰かがいた、とも出てないんだな」ヴィクトルは言った。
「そう。いなかったことにも、なってない」
ユキナガの指が止まった。
ルカがユキナガの横顔を見た。
「ユキ?」
「いや……前に一回、日本で似たことがあった気がしただけ」ユキナガはログへ視線を戻した。
「いつ」ヴィクトルが言った。
「……いや、気のせい。たぶん自然災害的なやつ」
アルノが一瞬ユキナガを見た。
ヴィクトルが画面から離れて、壁に背を預けた。
「送信と、同じ原因?」ルカが訊いた。
「送信履歴と、この位置ずれが同じとは限らない」ユキナガは画面を二つに割った。「分けて洗うべき」
ヴィクトルは煙草を吸って窓の外を見ていた。
アルノは一度だけ、ヴィクトルがそこにいることを確認した。
ローマの朝の光が、共用スペースの床を扉の近くまで伸びていた。
その光が、開いた扉に遮られた。
扉口に、アオイとフィンが立っていた。
アオイは片手に食料の入った紙袋を提げ、肩で扉を押さえていた。中へ入る前に一度だけ廊下の奥を振り返った。
後ろからフィンが、もう一つの紙袋を片手に入ってきた。もう片方の手に紅茶のカップを持っている。
「おはよう。パン買って来たけど、いる?」
誰も答えなかった。
フィンは部屋を見た。
同じ画面を見るユキナガとルカ。端末を持ったまま立っているアルノ。袖を雑に折ったヴィクトル。
煙草の向こうに、部屋にはないはずの甘い香水が混じっている。
それから、皺の寄ったルカのシャツを見た。
「朝からずいぶん情報量が多いね」
アオイは紙袋を持ったままテーブルへ向かった。
ヴィクトルがアオイの持つ紙袋へ目を向けた。
「買い出しなら使用人に頼めばよかった」
「フィンがどうしても行きたいパン屋があると」アオイが言った。
「警戒が上がってから、使用人は館から外してるでしょ。呼び戻すのも悪いよ」フィンが答えた。
フィンは空いた椅子を引いて座った。
アオイがパンの入った袋を開いた。
まだ熱の残るパンの匂いが部屋へ広がった。
フィンが画面へ一度目を向ける。
「弟くん、なんか見つかった?」
「それが分かんない」ルカが言った。
「なんもなかったの?」
「それも分かんない」ユキナガが言った。
「息ぴったりだ」
フィンはロゼッタパンを一つ取り出した。画面をもう一度見た。笑っていた目元だけが、少し静かになった。
「一番嫌なやつだね」
パンを齧った。硬い皮が、小さく音を立てた。
フィンが一つとってユキナガに渡した。
「……帰ったら和食食べたいな…」
「同意です…」アオイが言った。
二階から足音が近づいた。
ジュリオがシャツの袖を留めながら、階段を降りてきた。紙袋とテーブルに並んだパンを見ると、そのまま進路を変えた。
「お。パンもらい。隣のとこ?」
「うん、人たくさんいた」
「カンタルーナか。あそこはいつも朝から行列ができてる。よく買えたな」
「すごく並びました…」アオイが言った。
ピッツァ・ビアンカを一枚取り、空いた席についた。二つに折って齧ると、表面の岩塩がテーブルへ一粒落ちた。
階段から、もう一組の足音がした。軽い足音の半歩後ろを、重い靴音が下りてくる。
「おはよ」
リヴァが先に顔を見せ、その後ろからカイが降りて来た。
カイは部屋へ入る前に、テーブルの人数と、開いた端末を一度見た。
「おはよう」フィンが返した。
フィンは隣の椅子を足で引き、紙袋をリヴァの方へ寄せた。
リヴァはフィンの隣に座った。
「買ってきたの?いい匂い」
「うん。有名なやつらしいよ」
リヴァはロゼッタを手に取り、花形に割れた表面を指で押した。皮が薄く砕けた。
かじると、中の空洞から熱い空気が抜けた。
カイがリヴァの隣に座った。
カイはリヴァの指についたパンの欠片を見て、紙ナプキンを一枚寄せた。
最後の椅子が引かれる音を待って、アルノが端末を持ち直した。
パンの匂いと話し声が広がる中で、アルノだけが立ったままだった。
「ちょうど全員集まったので、今日の予定を共有します」
アルノが眼鏡を上げた。
「今朝得た情報です。夜のあいだに、外がさらに荒れました」アルノが言った。「午前一時四十七分、ローマ東部の保税倉庫で、東欧組織の実働と海運複合企業の警護要員が交戦しています」
フィンがカップを置いた。
「目的は?」
「文化財保護財団へ事前提出される予定だった輸送記録です。暗号化された記憶媒体が一つ、現場から消えています」
「近い?」
「会場からは離れています。ただし、財団はこの件を受けて記録官の移動経路を変更しました」
「フォーラム絡み?」
「現地警察は、密輸記録を巡る既存の抗争と見ています。会合との直接的な関与には否定的です」
「アルノは?」
「双方が、同じ時刻に同じ受渡地点を把握していました。情報源は別です」
フィンの目元から笑みが消えた。
「誰かに会わされたんだ」
「その可能性を前提にします」
ルカが手巻きの火を灰皿で消した。
「俺今日はここにいる」
「研究室行けよ」
「なんかヤバ目な状況なんでしょ?できるとこ手伝う」
「わかりました」アルノが言った。「ただし、担当は大学側の観測ログと二十七番の解析に限定します」
ルカがアルノを見た。
「ここから先は現場配置です。二階の、あなたが泊まっていた部屋で作業を続けてください」
ルカが舌打ちをした。アルノを睨んだ。
「……堅物」
「つまみ出されたいですか」アルノが言った。
「……」
ルカはノートパソコンを持って立ち上がった。
階段を上がっていった。
ルカが上がっていったのを見て、アルノが息を吐いてから言った。
「…狙撃地点選定の際に確保した端末ですが、通信先の一部が、昨夜の倉庫で確認された東欧側の回線と重なりました」
ジュリオがピッツァ・ビアンカを折った。
「じゃあ、あの時の連中も?」
「東欧陣営の可能性が高いとみています」
「一番の荒くれはそこっぽいかな」
「私たちが相手とは認識していなかったようですが、注意するようにお願いします」
「了解です」アオイが言った。
アルノが眼鏡を押し上げた。
「今日の夕方、リヴァは狙撃地点の最終確認。昨日の候補は破棄したので、資料で絞り直した一か所を見てください。ジュリオとリヴァ。後方にアオイ。ユキナガが位置を追います」
「俺も付く」カイが言った。
「いいえ。カイは記録官の動線にも変更がありますので、その確認してください」アルノが言った。「あと地下の車両の確認も行います」
カイはリヴァを一度見た。何も言わなかった。
「フィン」アルノが言った。
「予定どおり、昼にプラーティへ出るよ」フィンが言った。「北アフリカ側の外部顧問と会う。昨晩の倉庫の件と、東欧側の動きを持ってるらしい」
「国際商取引の法律事務所ですね」
「うん。表向きは、会合前の脅威情報の共有」
「同行はつけません。先ほど確認した条件を守ってください」
「その方が喋るでしょ」
フィンは軽く握った右手を頬の脇へ上げ、人差し指の爪側で、そこにあるはずの眼鏡の外縁を押し上げた。
アルノはその指先を一度見た。
フィンが眼鏡をかけているところは、誰も見たことがなかった。
「戻りは、予定どおり十九時。遅れる場合は十八時半までに連絡を」
「了解」
「十五分ごとの生存確認。場所を移す場合は、移動前に連絡してください」
「前に聞いたよ」
「応答が三分遅れた時点で、会談を打ち切ったものとして扱います」
「OK」フィンが頷いた。
「以降、外出の際は全員私を通してください。アオイ、入退出の記録を任せました。アオイが外へ出ている間は、ユキナガが記録を引き継いでください」
「はい」
「出た事務員」フィンが言った。
「お役に立てるなら光栄です……」
椅子を引く音が続いた。ジュリオだけが、皿のピッツァ・ビアンカを最後まで食べていた。




