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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十二章「閉鎖系の外乱 ― Disturbance in a Closed System」

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焼きたてパン




 ヴィクトルとアルノが、廊下を歩いていた。ヴィクトルは片方の袖だけ雑に折られ、女物の香水が薄く残っている。


「六時半に戻るはずでは」アルノが言った。


「だいたい間に合った」


「あなたが戻ったのは六時四十八分です」


「昨日からどうした?そんなに傍に居てほしいのか?」


 アルノは何も言わなかった。


 ヴィクトルは小さく息を吐いた。


「また同じ拠点に住んでるだろ」ヴィクトルは言った。「日本の時と違って」


 アルノは前を向いたまま歩いた。


「……昨晩もいると思ってました」


 ヴィクトルはアルノを見て止まった。


「……」


 アルノも歩みを止めた。


「あなたに聞きたかった判断がありました。南側の臨時地点について」


 ヴィクトルが目を細めた。


 アルノは振り返った。


「……部屋は、空でした」


「来たのか」


 一拍あった。


 ヴィクトルが小さく笑って、アルノを見た。手を伸ばして、一歩近づいた。


「疲れたか」


「……はい」


「妙に素直だな」


 アルノは動かなかった。ヴィクトルを見上げた。


 腕が肩へ触れる直前、知らない香りがした。


 アルノが半歩引いて、顔を逸らした。


「…触らないでください」


 アルノは振り返って、先に歩き出した。


 三歩目で、歩調がわずかに落ちた。


 背後からヴィクトルの靴音が続いた。


 アルノは振り返らなかった。歩みを戻した。


 アルノは共有スペースの扉を開けた。ヴィクトルもついていった。



 ユキナガが端末の前にいた。画面に大学の観測ログを開いている。


 アルノがユキナガを見た。


「ユキナガ。言い訳を聞きましょうか」


「最高でした」ユキナガは画面を見たまま言った。


 アルノが舌打ちをした。


 ユキナガがアルノを見た。


「え、今舌打ちした?」


「しました」


 アルノが端末をポケットから出し、そちらを見た。


 ヴィクトルが笑いながらユキナガの背後に立ち、煙草に火をつけた。画面を一度見る。


「それ、大学の記録と時刻合ってるか?」


「0.7秒だけズレてる」


「0.7秒あれば、人間は扉を抜ける」


「けどこれ、なんか――」


 玄関が大きな音を立てて開いた。


「ユキー!!!」


 ルカが入ってきた。白いシャツを着ていた。胸ポケットにシルバーのケースが挿さっている。片手にノートパソコンを提げていた。


「うわ」ユキナガが顔を顰めた。


 ルカは座っているユキナガに抱きついて、頬にキスをした。


「……お前、そんな香水つかってたっけ」ユキナガが言った。


 ルカは離れて、ユキナガの隣に座った。


 胸ポケットからケースを出し、一本抜いて火をつけた。


「これ教授の服」咥えながら言った。


 ユキナガの手が止まった。ヴィクトルとアルノも、ルカを見た。


「……なんで?」


「一緒に住んでるから」


 ユキナガはキーから手を離した。


「…いつから」


「四年、くらい」


「……は?」


 ユキナガはしばらく止まったあと、ポケットから煙草を取り出した。火をつける。


「生活まで任せてんの」


「んー…。うん。俺がご飯食べなくて、何回か倒れたから」


「……まだ直ってないのかよ」


「ユキがいないと、分かんなくなるんだもん。ご飯とか、寝るとか」


「その煙草も?」


「うん、くれる。足りなくなったらアイブラ吸う」


 ヴィクトルがケースを見た。手巻きが隙間なく並んでいる。


 ユキナガはルカの煙草へ目を移した。


「……お前、それでいいの」


「寝るまで研究の話できるし、いい機材使えるし」


「すごい熱量だな」ヴィクトルが横から言った。


 ルカがヴィクトルを向いて笑った。


 ヴィクトルが長く息を吐いた。


「…で、就職?するんだろ、その人の元で」ユキナガが言った。


「書類とかはもう出来てる」


「…なんか、それって」そこまで言って、ユキナガが言い淀んだ。「……平気なの」


 アルノが眼鏡を上げた。


 ルカは煙草を見たまま言った。


「ユキに会えたから」


 アルノがルカを見ていた視線を逸らした。


 ヴィクトルが煙草の灰を灰皿に落とした。


 ルカが脚を揺らしながら、頬杖をついた。


「ユキも香水違うね。女ものみたい」


 アルノがヴィクトルを睨んだ。ヴィクトルは煙を吐いた。


「うるさい。そんなんはいいんだよ」ユキナガはログを拡大した。「仕事するぞ」


「うん」


「二十七番に、送信が一件。でも端末が登録されてない。呼び出したプロセスも残ってない」


「消した?」


「消した痕跡もない」


「教授を含め、関係者は一度すべて洗ってください」アルノが言った。「ユキナガも協力を。必要ならヴィクトルも使ってください」


「教授は関係ない」ルカが言った。


「それを確認します」アルノはルカへ顔を向けた。「あと、当面、ここを出る時はアオイに声をかけてください」


「誰それ」


「地味な日本人」ユキナガが言った。


「ああ、あの人」


 ルカはノートパソコンを開いた。


「じゃあ、どこから洗う?」ユキナガをみた。笑顔だった。


「四つ」ユキナガはキーを叩いた。「教授、研究室の人間、権限を持ってるやつ、二十七番に触れられるやつ」


「研究室は四人。権限は、教授と俺」ルカが画面を送った。「その番号のは、今は誰も割り当てられてない」


 ユキナガは別の記録を重ねた。カメラ、入館証、人流。全部正常だった。


「統合すると、さっきの0.7秒だけやっぱ位置が合わない」ユキナガは言った。「ノイズなら残るし、欠損でも出る。どっちも出てない」


「じゃあ何」ルカが訊いた。


 ヴィクトルが一歩ユキナガに近づいた。ユキナガの肩に手を置いて、画面をのぞき込んだ。


 ルカがその手を見た。


「誰かがいた、とも出てないんだな」ヴィクトルは言った。


「そう。いなかったことにも、なってない」


 ユキナガの指が止まった。


 ルカがユキナガの横顔を見た。


「ユキ?」


「いや……前に一回、日本で似たことがあった気がしただけ」ユキナガはログへ視線を戻した。


「いつ」ヴィクトルが言った。


「……いや、気のせい。たぶん自然災害的なやつ」


 アルノが一瞬ユキナガを見た。


 ヴィクトルが画面から離れて、壁に背を預けた。


「送信と、同じ原因?」ルカが訊いた。


「送信履歴と、この位置ずれが同じとは限らない」ユキナガは画面を二つに割った。「分けて洗うべき」


 ヴィクトルは煙草を吸って窓の外を見ていた。


 アルノは一度だけ、ヴィクトルがそこにいることを確認した。


 ローマの朝の光が、共用スペースの床を扉の近くまで伸びていた。


 その光が、開いた扉に遮られた。


 扉口に、アオイとフィンが立っていた。


 アオイは片手に食料の入った紙袋を提げ、肩で扉を押さえていた。中へ入る前に一度だけ廊下の奥を振り返った。


 後ろからフィンが、もう一つの紙袋を片手に入ってきた。もう片方の手に紅茶のカップを持っている。


「おはよう。パン買って来たけど、いる?」


 誰も答えなかった。


 フィンは部屋を見た。


 同じ画面を見るユキナガとルカ。端末を持ったまま立っているアルノ。袖を雑に折ったヴィクトル。


 煙草の向こうに、部屋にはないはずの甘い香水が混じっている。


 それから、皺の寄ったルカのシャツを見た。


「朝からずいぶん情報量が多いね」


 アオイは紙袋を持ったままテーブルへ向かった。


 ヴィクトルがアオイの持つ紙袋へ目を向けた。


「買い出しなら使用人に頼めばよかった」


「フィンがどうしても行きたいパン屋があると」アオイが言った。


「警戒が上がってから、使用人は館から外してるでしょ。呼び戻すのも悪いよ」フィンが答えた。


 フィンは空いた椅子を引いて座った。


 アオイがパンの入った袋を開いた。


 まだ熱の残るパンの匂いが部屋へ広がった。


 フィンが画面へ一度目を向ける。


「弟くん、なんか見つかった?」


「それが分かんない」ルカが言った。


「なんもなかったの?」


「それも分かんない」ユキナガが言った。


「息ぴったりだ」


 フィンはロゼッタパンを一つ取り出した。画面をもう一度見た。笑っていた目元だけが、少し静かになった。


「一番嫌なやつだね」


 パンを齧った。硬い皮が、小さく音を立てた。


 フィンが一つとってユキナガに渡した。


「……帰ったら和食食べたいな…」


「同意です…」アオイが言った。


 二階から足音が近づいた。


 ジュリオがシャツの袖を留めながら、階段を降りてきた。紙袋とテーブルに並んだパンを見ると、そのまま進路を変えた。


「お。パンもらい。隣のとこ?」


「うん、人たくさんいた」


「カンタルーナか。あそこはいつも朝から行列ができてる。よく買えたな」


「すごく並びました…」アオイが言った。


 ピッツァ・ビアンカを一枚取り、空いた席についた。二つに折って齧ると、表面の岩塩がテーブルへ一粒落ちた。


 階段から、もう一組の足音がした。軽い足音の半歩後ろを、重い靴音が下りてくる。


「おはよ」


 リヴァが先に顔を見せ、その後ろからカイが降りて来た。


 カイは部屋へ入る前に、テーブルの人数と、開いた端末を一度見た。


「おはよう」フィンが返した。


 フィンは隣の椅子を足で引き、紙袋をリヴァの方へ寄せた。


 リヴァはフィンの隣に座った。


「買ってきたの?いい匂い」


「うん。有名なやつらしいよ」


 リヴァはロゼッタを手に取り、花形に割れた表面を指で押した。皮が薄く砕けた。


 かじると、中の空洞から熱い空気が抜けた。


 カイがリヴァの隣に座った。


 カイはリヴァの指についたパンの欠片を見て、紙ナプキンを一枚寄せた。


 最後の椅子が引かれる音を待って、アルノが端末を持ち直した。


 パンの匂いと話し声が広がる中で、アルノだけが立ったままだった。


「ちょうど全員集まったので、今日の予定を共有します」


 アルノが眼鏡を上げた。


「今朝得た情報です。夜のあいだに、外がさらに荒れました」アルノが言った。「午前一時四十七分、ローマ東部の保税倉庫で、東欧組織の実働と海運複合企業の警護要員が交戦しています」


 フィンがカップを置いた。


「目的は?」


「文化財保護財団へ事前提出される予定だった輸送記録です。暗号化された記憶媒体が一つ、現場から消えています」


「近い?」


「会場からは離れています。ただし、財団はこの件を受けて記録官の移動経路を変更しました」


「フォーラム絡み?」


「現地警察は、密輸記録を巡る既存の抗争と見ています。会合との直接的な関与には否定的です」


「アルノは?」


「双方が、同じ時刻に同じ受渡地点を把握していました。情報源は別です」


 フィンの目元から笑みが消えた。


「誰かに会わされたんだ」


「その可能性を前提にします」


 ルカが手巻きの火を灰皿で消した。


「俺今日はここにいる」


「研究室行けよ」


「なんかヤバ目な状況なんでしょ?できるとこ手伝う」


「わかりました」アルノが言った。「ただし、担当は大学側の観測ログと二十七番の解析に限定します」


 ルカがアルノを見た。


「ここから先は現場配置です。二階の、あなたが泊まっていた部屋で作業を続けてください」


 ルカが舌打ちをした。アルノを睨んだ。


「……堅物」


「つまみ出されたいですか」アルノが言った。


「……」


 ルカはノートパソコンを持って立ち上がった。


 階段を上がっていった。


 ルカが上がっていったのを見て、アルノが息を吐いてから言った。


「…狙撃地点選定の際に確保した端末ですが、通信先の一部が、昨夜の倉庫で確認された東欧側の回線と重なりました」


 ジュリオがピッツァ・ビアンカを折った。


「じゃあ、あの時の連中も?」


「東欧陣営の可能性が高いとみています」


「一番の荒くれはそこっぽいかな」


「私たちが相手とは認識していなかったようですが、注意するようにお願いします」


「了解です」アオイが言った。


 アルノが眼鏡を押し上げた。


「今日の夕方、リヴァは狙撃地点の最終確認。昨日の候補は破棄したので、資料で絞り直した一か所を見てください。ジュリオとリヴァ。後方にアオイ。ユキナガが位置を追います」


「俺も付く」カイが言った。


「いいえ。カイは記録官の動線にも変更がありますので、その確認してください」アルノが言った。「あと地下の車両の確認も行います」


 カイはリヴァを一度見た。何も言わなかった。


「フィン」アルノが言った。


「予定どおり、昼にプラーティへ出るよ」フィンが言った。「北アフリカ側の外部顧問と会う。昨晩の倉庫の件と、東欧側の動きを持ってるらしい」


「国際商取引の法律事務所ですね」


「うん。表向きは、会合前の脅威情報の共有」


「同行はつけません。先ほど確認した条件を守ってください」


「その方が喋るでしょ」


 フィンは軽く握った右手を頬の脇へ上げ、人差し指の爪側で、そこにあるはずの眼鏡の外縁を押し上げた。


 アルノはその指先を一度見た。


 フィンが眼鏡をかけているところは、誰も見たことがなかった。


「戻りは、予定どおり十九時。遅れる場合は十八時半までに連絡を」


「了解」


「十五分ごとの生存確認。場所を移す場合は、移動前に連絡してください」


「前に聞いたよ」


「応答が三分遅れた時点で、会談を打ち切ったものとして扱います」


「OK」フィンが頷いた。



「以降、外出の際は全員私を通してください。アオイ、入退出の記録を任せました。アオイが外へ出ている間は、ユキナガが記録を引き継いでください」


「はい」


「出た事務員」フィンが言った。


「お役に立てるなら光栄です……」


 椅子を引く音が続いた。ジュリオだけが、皿のピッツァ・ビアンカを最後まで食べていた。

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