二年の飛び級
レナートは台所のテーブルで、煙草を巻いていた。
テーブルには、散乱した書類。走り書きのメモ。
床にも書類が広がっていた。
大半はルカの論文と解析結果だった。その間に、レナートが余白へ書きつけたメモが混じっている。
紙の上へ葉を置き、指先で細く均す。巻き終えた一本を、開いたシルバーのケースへ収めた。すでに九本が並んでいた。
煙草を巻く手つきだけが精密にそろっていた。
レナートが手を止めた。
「……違うな」
レナートが立ち上がって、首から下げていた眼鏡をかけた。
乱雑に置かれた紙のもとにしゃがみ、拾わずにそのまま書き足した。
「あの群衆行動予測のデータで、どこで…」
書き終えて拾い上げ、テーブルの別の紙の上へ置いた。口に人差し指をあてて、部屋を歩く。
テーブルにあった別の紙を5枚、床に広げた。またしゃがんで書き始めた。
「日本の、査読で来てたやつか、」
レナートは床に座って独り言を話した。
立ち上がって、エスプレッソマシンのスタートボタンを押した。
テーブルの上にはすでに四つのマグカップが置かれていた。
「……観察者を固定した方ですか」寝室からルカの声がした。
レナートが床を見ながらまた口に人差し指を当てた。
「いや。反実条件を残した方だよ」
ルカの方を見ずに答えた。
「あれ、サンプル偏ってます」
レナートの寝室から、ルカが出てきた。
レナートが眼鏡を下にずらし、ルカを一瞬見た。
上半身には何も着ていなかった。
床の紙を踏んだ。
「ん……」
拾い上げた。
「あ。ここにあった」
その一言を聞いて、レナートが言った。
「ルカ。床のものを片づけなさい」
ルカは手元の一枚をベッドの上に放り投げ、足元の別の紙を拾った。
「これ、教授のです」
レナートが一度見た。
「それは次の学会で使う。残しておいて」
「これも教授の」
「……それは、そこに置いておいて」
ルカは二枚とも床へ戻した。
ルカは部屋を見まわした。
「服は…」
「昨日君が寝室に放り投げていたのは、いま回しているよ」
「水色のシャツ、しりませんか」
「水色は無かったな」
「どこかいっちゃいました」ルカが言った。
ルカは椅子の背に置かれていたレナートの白いシャツを取り、袖を通した。
「まだ洗ってないよ」
「…いいです、めんどくさい」
レナートは十本目をケースへ入れた。
ルカは、テーブルからはみ出していたメモを引いた。
「第三条件、外したんですか」
「潜在変数を一つ増やした」
レナートの端末が鳴った。
二人とも見なかった。
「それだと昨日の」
「残るよ」
「残らないです」
「君は兄を入れたからそう見えるんだ」
「……」
レナートはメモにまた走り書きをして、エスプレッソを飲んだ。
「…帰ってから見よう」
テーブルの端に、ルカの博士論文が置かれていた。
ルカは博士論文を持ち上げた。
余白に、黒い細字が増えていた。
「第三章が甘い」
「昨日、完成って言ってました」
「ああ。昨日の君には完成だった」
「今日は?」
「私が読んだから、完成ではなくなっただけだよ」
ルカは論文を元へ戻した。
その横に、常勤登用を前提とした研究員の公募要項と、応募書類の束が重なっている。
書類には、経歴と研究実績がすでに入力されていた。
空いているのは、署名欄だけだった。
「署名がまだないね」
ルカはシャツのボタンを留めながら、書類を見た。
「まだ、決まっては……ないです」
「では、落ちると思っているのかい?」
ルカは答えなかった。
下から二つ目のボタンを留めた。
「住居の欄も、このままでいいね」
ルカの手が止まった。
応募書類には、レナートの家の住所が入っていた。
「まだ出してないです」
「だから確認をしているんだよ」
レナートが何か書き終えて、ペンを置いた。
「おいで」
ルカはレナートの傍に寄った。
レナートは座ったまま、ルカの腰を引いた。
ルカは膝の間へ一歩入った。
「屈んで」
ルカが屈むと、首筋へ唇が触れた。
「愛しているよ」
ルカは目を閉じた。
「……俺の才能を、でしょ」
「ああ。もちろん」
レナートはルカの頭を抱き寄せ、唇へ口づけた。
それからレナートの手が、シャツの背を一度撫でた。
「学部と修士を二年も縮めて、ここまで来たんだ」
レナートがルカの袖を取り、手首が出るところまで二度折った。反対側も同じ幅に揃えた。
「セオでも飛び級が通ったのは一年だけだった」
ルカは動かなかった。
レナートはルカのシャツの胸ポケットへ、シルバーのケースを入れた。
「……一度研究室に寄って、ユキのとこに行きます」
ルカは玄関に向かおうとした。
「待ちなさい」
レナートが書類の下から、ルカの入館証を取り出した。
「昨夜、ベッドの脇に落ちていたよ」
ルカは受け取った。
「外したの、教授でしょ」
「邪魔だったからね」
ルカは目線を逸らした。
「…今日も遅くなります」
「帰ってくるなら構わない」
レナートは自分のケースから煙草を一本出した。咥えて、火をつけた。
ルカは応募書類を一度見た。
「もし俺が……帰らなかったら?」
レナートは床の論文を拾った。
「君の物はここに全部あるよ」
ルカは何も言わなかった。
そのまま、玄関へ向かった。




