残念だった?
ローマ拠点、中庭 午後九時四十分。
噴水が低く鳴っていた。
石床の上に夜が落ちて、水の音だけが動いていた。遠くで鐘が一度鳴り、また静かになった。
アオイは噴水の縁の近くのベンチに座って、煙草を吸っていた。煙が夜気へ細くのぼって、消えた。
硝子戸が開いた。
リヴァが出てきた。手に、水の入ったグラスを持っていた。
噴水の方へ歩いて、アオイの隣に立った。
「どうされました?」アオイが言った。
リヴァはアオイの方を向かなかった。
アオイが一度煙草を吸った。
煙を、リヴァと反対側に吐いた。
「……今日は、とても助かりました」アオイが言った。
「必死だった」
「長物相手にハンドガンで応戦して当てたなんて、相手からしたら悪夢ですね」
「アオイこそ」
二人とも、しばらく水の音を聞いていた。
リヴァは水のグラスを握った。
「…本当に残念だったの?」リヴァは言った。
アオイは煙を細く吐いた。
「何がですか」アオイは言った。
「怪我がなかったこと」
「……冗談ですよ」
「でも、首触ってた」
アオイの指が止まった。
「怪我がないか確認しただけです」
「血がなくなってからも、手を見てた」
アオイは煙草を見た。
灰を強く弾いた。火の粉が石床へ落ちて消えた。
「よく見てますね」
「うん」
リヴァはグラスをアオイの座るベンチの手すりに置いて、ポケットからMarlboroを出した。
一本を出した。
アオイがライターを出して、リヴァの方に傾けた。
リヴァは屈んで、アオイに近づいた。
乾いた音がして、ライターに火が灯る。
「残念だったことって」リヴァが言った。
火を挟んで、至近距離で目が合った。
「……生きてたこと?」リヴァは言った。それから、一本を咥えた。
アオイは火をつけたまま、一拍止まった。
リヴァが先端に触れさせ、吸った。
「違います」
「そっか」
煙を吐いた。
噴水の方を見た。
遠くで、また鐘が鳴った。
「私は、アオイが死んだら嫌だよ」リヴァは言った。
アオイの手が下がった。
「そういうこと、言わないでください」
「どうして?」
「困るからです」
アオイは立ち上がった。
二歩進んで、噴水の向こうを見た。煙草を持った手を腰へ当て、息を吐いた。
「自分が死ぬことまで怖がられたくないですよ」
「怖かったよ」
アオイが振り返った。
リヴァは同じ場所に立っていた。
「今日、アオイが死ぬかと思った」
「あなたの方が死にかけてたでしょう」
アオイの声が大きくなった。
「拾った銃で外の射手を撃つなんて、普通やらない。訓練もしてない拳銃で、遮蔽にも入らずに」
「ジュリオにあたると思ったから」
「だったら自分も同じです」
「同じ?」
「敵の目的があなたかもしれなかった。あなたには価値があるらしいですから」
「……それは、私にはわかんないよ」
「じゃあどうして要保護対象がこんな生存確率を度外視した任務に入ってるんですか」
「それは惣一が」
「だから、その人が何であなたを名指ししたんですか」
「…怒ってる?」
「怒ってる。俺とあなたの命の価値は違う」
アオイは煙草を持った手を下ろした。
「誰かが死ぬのは嫌だって言うくせに、自分は平気な顔で前に出るんですか」
「平気じゃなかったよ」
「見えませんでした」
「怖かった」
アオイは黙った。
「……私が弱いせいで誰かが死ぬのは、怖いよ」リヴァは言った。
アオイの口が開いた。
何も言わずに閉じた。
アオイはその場から動かなかった。
噴水の水が石へ落ち続けていた。
「今日は死なないで、アオイ」リヴァは言った。
アオイはリヴァを見た。
「……今日」
アオイは腕時計を見た。夜十時前。あと二時間で日付が変わる。
「明日になったら、また言う」
アオイは返事をしなかった。
指の間で、煙草の灰だけが長くなっていた。




