ローマ大学
研究棟の管理受付に、男が立っていた。
自動扉の内側、白いカウンターの手前。セピアがかった黒髪を後ろへ撫でつけ、暗いオリーブ色の目でこちらを見ていた。背はユキナガより少しだけ低い。
細く巻かれた手巻き煙草から、乾いた葉の匂いがしていた。その奥に、アンバーと香木を思わせる、整った香水の匂いが混じっていた。
「外まで来なくてよかったのに。教授」ルカが言った。
「遅かったね」
「ちょうどに着きました」
「君はいつも予定より三分は早いよ」
「……そういうこともあります」
男は街路のゴミ箱、その上部の灰皿で煙草を消した。カウンターの端末に指を滑らせ、受付の職員に何か短く告げた。
「レナート・モランディ教授。俺の指導教員」ルカが男を指して、ユキナガとリヴァに言った。
レナートの言葉に大学の受付職員が頷いた。来訪者の記録票は出てこなかった。
「ありがとうございます」ルカがレナートを見た。「助かります」
レナートは頷いてから、目線をリヴァへ向けた。
細められた。
「……?」
間があった。
「かわいいね」
リヴァは眉間に皺を寄せた。
やがて視線が外れた。ユキナガへ移った。
レナートは自分の唇に二回、人差し指を当てて、首を傾げた。
「……ルカと全然似ていないね」
ユキナガは一拍止まった。
「…弟が、お世話になってます」
レナートは表情を変えなかった。
ルカの腰にレナートは一度手を添え、先へ促した。手はすぐに離れた。ユキナガはその手を見ていた。
「何かあったら呼びなさい」
レナートはそのまま奥の会議棟の方へ歩いていった。
ルカの研究室は、廊下の突き当たりにあった。
室内にはルカの端末が並び、観測機材と解析用のモニターが壁際に据えられていた。私物が机の端に寄せてある。英語の論文が、画面に開いたままになっていた。
「ここ。解析室なんだけど、実質俺の専用部屋になってる」
「すげえ好待遇じゃん」
「まあね」
三人は作業に入った。ユキナガが通信ログを、ルカが行動観測データを開いていた。
旧鍵の痕跡を追い、リヴァは必要な箇所だけ確認する。数字が合わなければ、やり直した。会話は仕事の範囲を出なかった。
しばらくして、リヴァは席を立った。
研究室を出て、廊下を歩いた。
窓際に人が立っていた。
白に近い髪が、窓からの光を透かしていた。
通話を終えたところらしく、端末を下ろすところだった。
光が輪郭の縁に溜まって、後ろから射しているように見えた。中性的な、作りものめいた美しさだった。線の細さがどこかルカに似ていた。
目が合った。
相手は一瞬だけリヴァを見た。
「こんにちは」
リヴァの肩が動いた。
「……こんにちは」リヴァは言った。
研究室の扉が開いた。ルカが出てきた。男とあいさつを交わした。
「あの人、セオドール神父。バチカン系の文化財保護財団にいて、レナートの元教え子。今は共同研究で、研究室に出入りしてる」
「セオドール・カイン」セオドールはリヴァに手を出した。
リヴァが手を握った。
「……」
「こっちは兄の友達。リヴァ」
「……リヴァ」
相手はそれだけ言って、手を離した。
踵を返した。
「……」
二人は研究室へ戻った。
作業がある程度進んだ頃、扉が叩かれた。金髪の白衣の女が顔を出した。
そばかすがあって、快活な笑顔だった。
「ルカ、教授が呼んでたよ」
ルカの顔が、一瞬だけ歪んだ。
「わかった」
「急いであげて。この後教授、神父と会議入ってる」
「わかったよ」
女が出て行こうとして、ユキナガを見て動きを止めた。
「……待って。同じ顔。もしかしてお兄さん?」女は英語に切り替えた。
「あー…はい」ユキナガが首に手を当てた。
「嘘でしょ!?…よかったね、ルカ」
それだけ言って女は部屋を出た。
「今の、同期?」ユキナガが言った。
「元カノ」
ルカは立ち上がりながら、頭をかいた。
「ちょっと行ってくる」
ルカが足早に出て行った。
扉が閉まった。
「頭かいてるの、ユキナガとおんなじ動きだね」リヴァが笑った。「ちょっとめんどくさい時」
「やめろよ」ユキナガが頭をかこうとして、上がりかけた手を止めた。
「……ほら」
二人で目を合わせて、吹き出した。
ルカは扉を叩いてから開けた。
レナートは机に向かっていた。顔を上げなかった。
「ドアを閉めて」
ルカは無言で扉を閉めた。鍵もかけた。
机の前まで寄った。レナートとは目を合わせなかった。
レナートが顔を上げた。
「二日も帰らなかった理由を聞こうか」
「……ユキが見つかったから」
間があった。
それから、レナートの視線がルカの胸ポケットへ落ちた。箱の輪郭が布を押している。
「渡した煙草は?」
「…もうない、です」
ルカは上着の内側から、空になったシルバーのシガレットケースを出して、机に置いた。
レナートは引き出しから手巻きを取り、一本ずつケースへ入れていった。
十本ちょうど、ケースに収めた。
レナートがケースを閉めながら言った。
「長年の研究が実を結ぶのを見ると、私も嬉しいよ。ルカ」
閉じたケースを、ルカの方へ滑らせる。
「兄を見つけたくて、この研究を始めたんだものね?」
ルカは何も言わなかった。
「おいで」
ルカはレナートのすぐ横に立った。視線が床に向いていた。
レナートの指が、ルカの入館証のストラップにかかった。軽く引いた。
ルカが一歩、机側へ寄った。
しばらくそのまま、レナートが至近距離でまっすぐルカを見ていた。
ルカは観念して視線を合わせた。
「ルカ。私はもう用済みかい?」
ルカは答えなかった。
レナートはもう少し、入館証の紐を引いた。
さらに二人の距離が縮まる。
ストラップにかかった指は、まだ離れなかった。
レナートがストラップを離した。
離されても、ルカはその場から動かなかった。
「今回のデータは、私は見ない方がいいんだろう?」
「……え」ルカが顔を上げた。
「大丈夫。君は心配しなくていい」レナートが言った。「私は君を信じている。セオも会合にかかわるって言っていたからね」
レナートがもう一歩近づいて、その手がルカの頬を一度撫でた。
「行っていいよ」
「……ありがとうございます」
ルカはケースを内ポケットへ戻し、扉へ向かった。鍵を開け、ノブに手をかけた。
閉じかけた扉の隙間に、レナートの声が届いた。
「今夜は帰ってきなさい」
ルカは頭をかきながら部屋を出た。
扉が閉まった。




