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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十一章「情熱の死角 ― Blind Spot of Desire」

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帰る





 カラムはグレイの問いかけに答えなかった。


 グレイは机の向こうに立っていた。作業灯の光が二人の間に白く落ち、葉巻の煙がその中をゆっくり横切っていく。カラムの顎から、血が床へ落ちた。


 沈黙が続いた。


「返事をしなさい」


 カラムが顔を上げた。少し呼吸が早かった。


「……何」


 グレイの目が、細くなった。


「声はまだ出ますね」


 葉巻を灰皿の縁へ置くと、グレイはコップを取り、机を回ってカラムの横へ来た。革靴が床の血を避けて止まる。コップの縁を、カラムの唇へ当てた。


「飲んで下さい」


 カラムの唇が縁に触れた。喉は動かなかった。グレイは待った。


 やがてカラムの指が椅子の縁を掴み、それから一度だけ飲んだ。水だった。薬の味はしなかった。


「そうですね」


 グレイはカラムの背後へ回った。右手首の拘束具に鍵が差し込まれ、金属の外れる音がした。次に左手首。二つの腕が椅子の背後から解かれた。足首は、椅子の脚に留められたままだった。


 机へ戻り、グレイは鍵を机の手前の端へ置いた。手を伸ばせば届く位置だった。


 カラムの視線が、足首の拘束具から鍵へ移った。両手は左右に下げたままだった。


 グレイは葉巻を取り、一度だけ吸って、煙を光の外へ吐いた。


「取っていいですよ」


 カラムの手が机へ伸びた。半ばで止まった。指が一度閉じた。手は膝の上へ戻った。


 グレイはその手を見ていた。


「今度は、止められましたね」


 カラムの視線が上がった。


「教えられたんですか。命令されたら、一度考えろと」


 カラムの指が、膝の上で動かなくなった。


 グレイは鍵を指先で引いた。金属が、カラムの手の届かない場所へ滑って消えた。


「結局それも、あなたが決めたことではないですね」


 グレイは穏やかに笑った。


 葉巻の煙が、また光を横切った。


 グレイの視線が、机の上の黒いケースへ動いた。


「あなたは、あの場所にいればよかったのに」


「……回収が来なかった」


 グレイはそれ以上言わなかった。灰が長くなっていた。


 間があった。


「……俺を切ったのは、あんただ」カラムが言った。


 グレイは少し間を置いた。


「はい」


 灰が灰皿へ落ちた。


「ただ、あなたとの契約を終えるとは、一度も言っていません」


 カラムが下を見た。


「豪華客船のあと、あなたは私の連絡に応じなかった」


「受けない」


「ええ。仕事も、一件も受けていない」


「……」


「それで、自由になったつもりでしたか」


 カラムは答えなかった。


 グレイは葉巻を灰皿へ置いた。机の鍵を取り、足首の拘束を外した。それから机の脇へ退いた。出口までの道が、空いた。


「どうぞ」


 カラムは椅子の座面へ両手をついた。薬が残っていた。脚が定まらない。机の端を掴んで身体を引き上げ、立った。


 立ったばかりの膝が抜け、カラムは片手を床につき、片膝を落とした。


「……っ」


「ここから動けもしないのに」


 カラムは答えず、膝立ちのまま机の縁を掴み、もう一度足の裏へ体重を移した。


 グレイはその手首を取って、机から剥がした。


 息だけが漏れ、支えを失って、カラムはまた片膝と両手を床についた。


 カラムは膝と手で、出口の方へ身体を進めた。這うように片膝ずつ前へ引く。


 グレイが前へ回り、革靴でカラムの肩を上から押した。支えていた腕が崩れ、胸が床についた。


「あなたに、所属はありませんよ」


 カラムが両肘を立て、胸を床から浮かせた。


「アルカとは、もう契約もない」


 革靴が背中へ乗った。肩甲骨の間だった。浮かせた胸が、また床へ戻った。


 伏せたまま、カラムの手が黒いケースの方へ伸びた。グレイが靴を退ける。カラムは肘で身体を引き、机の脚のそばまで進んだ。片手を脚にかけ、上体を起こそうとした。


 腹の横へ、蹴りが入った。すでに一度打たれた場所だった。


「……っ、は」


 起こしかけた上体が横へ転がり、カラムは床に倒れた。それでも腕をつき、また肘を立てた。


「戻りなさい」


 カラムの肩が動いた。出口へ伸ばしていた右手が、数センチだけ後ろへ戻った。


「定期的に、そちらの情報を私に伝えてくれればいいんです」


 カラムは左手で、自分の右手首を掴んだ。床の上で、二つの手が止まった。


「聞こえていますね」


「……聞こえてる」


「では、戻りなさい。こちら側に」


 右腕が、また僅かに引かれた。左手の指に力が入り、爪が手首の皮膚へ食い込んだ。


「……嫌だ」


 さっきより、声が小さかった。


 グレイがカラムの右手を踏んだ。指が床へ押しつけられた。


「どこへ行くんですか」


 カラムは顔を上げなかった。


「……家、に」


「ええ、もちろんです」


 カラムの肩が、浅い呼吸に合わせて上下した。


「帰って、私のために動いてください」


 グレイは手を踏んだまま、カラムを見下ろし、声だけを落とした。


「レバノンは暑かったでしょう」


 カラムの呼吸が浅くなった。


「父親が、友達にあなたを売った。まだ七歳でしたっけ」


「……黙って」


「その人に傭兵として売られた時には、痛みにも、ほとんど反応しなかった」


「……やめて」


「その部屋は、どんな香りがしたんでしたっけ」


 カラムの背が、小さく震えた。


「一日に何度も、同じ声が、街に流れていたでしょう」


「……」


「あの家では、なんて呼ばれていたんでしたっけ」


 カラムの目が、見開かれた。


 焦点が外れた。作業灯の光を映したまま、何も見ていなかった。


 息を吸おうとして、喉だけが動いた。


 唇が、ほんの少し開いた。


 答えようとしたのか、呼吸をしようとしたのかも分からなかった。


 眉間に、かすかな皺が寄った。


 すぐに消えた。


 代わりに、ひどく静かな顔になった。


 踏まれた手の指が、床の上で一度だけ縮んだ。


 爪が、コンクリートを掻いた。


 グレイが靴を退けた。


 それから身を屈め、カラムの髪を後頭部でまとめて掴んだ。伏せていた顔が上がった。


「自分で何も選べないなら」


 カラムの目は、まだ戻っていなかった。


 グレイが耳元に口を寄せた。


「私のために、死にますか」


「……」


 声になる前の息が、喉に引っかかった。唇が動いた。


「あ……」


 グレイは待った。


 少しして、グレイの手が髪から離れた。


 支えを失った顔が床へ落ち、鈍い音がした。頬がコンクリートに当たって、切れた口元から赤い跡がついた。


 グレイの部下が音も無く近づいた。M29を、グレイに手渡した。


 グレイはそれを受け取り、銃口を床へ向けたまま右手に下げた。


「残念です。私はあなたを、とても大切にしていたのに」


 カラムの喉が、一度鳴った。カラムは顔を伏せたまま息を吸った。途中で切れた。もう一度吸った。


 目の縁に水が溜まっていた。落ちなかった。


 コンクリートの白い粉が、頬と濡れた睫毛についていた。


「壊れたらもう、使えませんね」グレイが言った。


「……わから、ない…でも」


 声が掠れ、続かなかった。カラムの指が、床の上でゆっくり閉じた。


 息を吸った。肩が一度震えた。


「……拠点に」


 声が切れた。唇を閉じ、息を整えようとして、できなかった。


 それでも、もう一度口を開いた。


「あそこに、帰りたい」


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