帰る
カラムはグレイの問いかけに答えなかった。
グレイは机の向こうに立っていた。作業灯の光が二人の間に白く落ち、葉巻の煙がその中をゆっくり横切っていく。カラムの顎から、血が床へ落ちた。
沈黙が続いた。
「返事をしなさい」
カラムが顔を上げた。少し呼吸が早かった。
「……何」
グレイの目が、細くなった。
「声はまだ出ますね」
葉巻を灰皿の縁へ置くと、グレイはコップを取り、机を回ってカラムの横へ来た。革靴が床の血を避けて止まる。コップの縁を、カラムの唇へ当てた。
「飲んで下さい」
カラムの唇が縁に触れた。喉は動かなかった。グレイは待った。
やがてカラムの指が椅子の縁を掴み、それから一度だけ飲んだ。水だった。薬の味はしなかった。
「そうですね」
グレイはカラムの背後へ回った。右手首の拘束具に鍵が差し込まれ、金属の外れる音がした。次に左手首。二つの腕が椅子の背後から解かれた。足首は、椅子の脚に留められたままだった。
机へ戻り、グレイは鍵を机の手前の端へ置いた。手を伸ばせば届く位置だった。
カラムの視線が、足首の拘束具から鍵へ移った。両手は左右に下げたままだった。
グレイは葉巻を取り、一度だけ吸って、煙を光の外へ吐いた。
「取っていいですよ」
カラムの手が机へ伸びた。半ばで止まった。指が一度閉じた。手は膝の上へ戻った。
グレイはその手を見ていた。
「今度は、止められましたね」
カラムの視線が上がった。
「教えられたんですか。命令されたら、一度考えろと」
カラムの指が、膝の上で動かなくなった。
グレイは鍵を指先で引いた。金属が、カラムの手の届かない場所へ滑って消えた。
「結局それも、あなたが決めたことではないですね」
グレイは穏やかに笑った。
葉巻の煙が、また光を横切った。
グレイの視線が、机の上の黒いケースへ動いた。
「あなたは、あの場所にいればよかったのに」
「……回収が来なかった」
グレイはそれ以上言わなかった。灰が長くなっていた。
間があった。
「……俺を切ったのは、あんただ」カラムが言った。
グレイは少し間を置いた。
「はい」
灰が灰皿へ落ちた。
「ただ、あなたとの契約を終えるとは、一度も言っていません」
カラムが下を見た。
「豪華客船のあと、あなたは私の連絡に応じなかった」
「受けない」
「ええ。仕事も、一件も受けていない」
「……」
「それで、自由になったつもりでしたか」
カラムは答えなかった。
グレイは葉巻を灰皿へ置いた。机の鍵を取り、足首の拘束を外した。それから机の脇へ退いた。出口までの道が、空いた。
「どうぞ」
カラムは椅子の座面へ両手をついた。薬が残っていた。脚が定まらない。机の端を掴んで身体を引き上げ、立った。
立ったばかりの膝が抜け、カラムは片手を床につき、片膝を落とした。
「……っ」
「ここから動けもしないのに」
カラムは答えず、膝立ちのまま机の縁を掴み、もう一度足の裏へ体重を移した。
グレイはその手首を取って、机から剥がした。
息だけが漏れ、支えを失って、カラムはまた片膝と両手を床についた。
カラムは膝と手で、出口の方へ身体を進めた。這うように片膝ずつ前へ引く。
グレイが前へ回り、革靴でカラムの肩を上から押した。支えていた腕が崩れ、胸が床についた。
「あなたに、所属はありませんよ」
カラムが両肘を立て、胸を床から浮かせた。
「アルカとは、もう契約もない」
革靴が背中へ乗った。肩甲骨の間だった。浮かせた胸が、また床へ戻った。
伏せたまま、カラムの手が黒いケースの方へ伸びた。グレイが靴を退ける。カラムは肘で身体を引き、机の脚のそばまで進んだ。片手を脚にかけ、上体を起こそうとした。
腹の横へ、蹴りが入った。すでに一度打たれた場所だった。
「……っ、は」
起こしかけた上体が横へ転がり、カラムは床に倒れた。それでも腕をつき、また肘を立てた。
「戻りなさい」
カラムの肩が動いた。出口へ伸ばしていた右手が、数センチだけ後ろへ戻った。
「定期的に、そちらの情報を私に伝えてくれればいいんです」
カラムは左手で、自分の右手首を掴んだ。床の上で、二つの手が止まった。
「聞こえていますね」
「……聞こえてる」
「では、戻りなさい。こちら側に」
右腕が、また僅かに引かれた。左手の指に力が入り、爪が手首の皮膚へ食い込んだ。
「……嫌だ」
さっきより、声が小さかった。
グレイがカラムの右手を踏んだ。指が床へ押しつけられた。
「どこへ行くんですか」
カラムは顔を上げなかった。
「……家、に」
「ええ、もちろんです」
カラムの肩が、浅い呼吸に合わせて上下した。
「帰って、私のために動いてください」
グレイは手を踏んだまま、カラムを見下ろし、声だけを落とした。
「レバノンは暑かったでしょう」
カラムの呼吸が浅くなった。
「父親が、友達にあなたを売った。まだ七歳でしたっけ」
「……黙って」
「その人に傭兵として売られた時には、痛みにも、ほとんど反応しなかった」
「……やめて」
「その部屋は、どんな香りがしたんでしたっけ」
カラムの背が、小さく震えた。
「一日に何度も、同じ声が、街に流れていたでしょう」
「……」
「あの家では、なんて呼ばれていたんでしたっけ」
カラムの目が、見開かれた。
焦点が外れた。作業灯の光を映したまま、何も見ていなかった。
息を吸おうとして、喉だけが動いた。
唇が、ほんの少し開いた。
答えようとしたのか、呼吸をしようとしたのかも分からなかった。
眉間に、かすかな皺が寄った。
すぐに消えた。
代わりに、ひどく静かな顔になった。
踏まれた手の指が、床の上で一度だけ縮んだ。
爪が、コンクリートを掻いた。
グレイが靴を退けた。
それから身を屈め、カラムの髪を後頭部でまとめて掴んだ。伏せていた顔が上がった。
「自分で何も選べないなら」
カラムの目は、まだ戻っていなかった。
グレイが耳元に口を寄せた。
「私のために、死にますか」
「……」
声になる前の息が、喉に引っかかった。唇が動いた。
「あ……」
グレイは待った。
少しして、グレイの手が髪から離れた。
支えを失った顔が床へ落ち、鈍い音がした。頬がコンクリートに当たって、切れた口元から赤い跡がついた。
グレイの部下が音も無く近づいた。M29を、グレイに手渡した。
グレイはそれを受け取り、銃口を床へ向けたまま右手に下げた。
「残念です。私はあなたを、とても大切にしていたのに」
カラムの喉が、一度鳴った。カラムは顔を伏せたまま息を吸った。途中で切れた。もう一度吸った。
目の縁に水が溜まっていた。落ちなかった。
コンクリートの白い粉が、頬と濡れた睫毛についていた。
「壊れたらもう、使えませんね」グレイが言った。
「……わから、ない…でも」
声が掠れ、続かなかった。カラムの指が、床の上でゆっくり閉じた。
息を吸った。肩が一度震えた。
「……拠点に」
声が切れた。唇を閉じ、息を整えようとして、できなかった。
それでも、もう一度口を開いた。
「あそこに、帰りたい」




