「反省しましたか?」
東京港湾部、旧保税倉庫。午後十時四十分。
カラムは向かいの給油塔の梯子を上りきり、点検用の狭い足場に伏せていた。降下経路は、上ってきた梯子と、北側の整備階段の二つ。倉庫までの距離、220メートル。見下ろし角、およそ15度。
カラムは火のついていないRothmansを口の端から抜き、胸ポケットへ戻した。L115A3のストックへ頬を落とした。倍率を5倍まで落とし、二階の窓と一階の搬入口を同じ視野へ入れた。
港湾の照明は半分が落ちていて、倉庫の輪郭だけが黒く浮いている。風は海側から、秒速2程度。
指示は三つだった。この位置につけ。十一時十五分に回収班が入る。通信が途絶えたら、自分の判断で処理しろ。
十一時十五分。
搬入口に、人影はなかった。無線に手を当てた。
「……こちらオーバーウォッチ。回収班、応答を」
返ってきたのは、砂の混じった無音だった。もう一度呼んだ。同じだった。
十一時二十分。
二階の窓の奥に、四角い影があった。細部を見る時だけ、倍率を上げた。棚の下段に置かれた、黒いハードケース。窓際に、それだけがあった。
搬入口には、まだ誰も来ない。
十一時二十三分。
カラムはスコープから目を離した。無線に手を当てた。
「……持ち場を離れる」
返事はなかった。
「回収に向かう」
もう一度言った。やはり、返事はなかった。
L115A3をドラッグバッグへ収め、背負った。腰の拳銃を確認した。梯子へ足をかけた。
北側の整備階段は、途中で塞がれていた。溶接された鉄板が、降り口を潰していた。カラムは少しそこを見てから、上ってきた梯子で降りた。
搬入口の内側で足を止め、一階を見渡した。柱の陰、積まれた木箱の裏、事務室の硝子。人影はない。
奥の鉄階段へ進んだ。足裏を静かに置き、一段ずつ上がった。二階の突き当たりから、二枚目の扉を開けた。棚の下段に、黒いハードケースがあった。
留め金には触れず、取っ手だけを掴んで持ち上げた。
照明が落ちた。
非常灯も、数秒遅れて消えた。窓の外の港湾灯だけが、床へ細く差した。
左手が、胸元の暗視単眼鏡へ動いた。
その動きを待っていたように、最初の一人が来た。
カラムはケースを壁際へ滑らせ、自分がその前に立った。突進を左半身で流し、襟を掴んで壁へ叩きつけた。骨の当たる音がした。
二人目が横から腕を伸ばしてくる。その肘を掴み、逆へ捻って落とし、膝で背中を潰した。
三人目が銃を抜こうとしていた。抜き切る前に手首を殴り、銃身を握って引き剥がして、床へ滑らせた。
三人が沈んで、四人目が来た。
腹へ膝が入った。カラムは相手の顎へ肘を入れようとして、止めた。肩を半歩引き、利き手を見せない立ち方。昔、同じ手順を聞いたことがあった。読まれている。
カラムは銃口を外した。四人目の腕を折り、膝を潰した。殺さず、床へ落とした。
腕を取った分だけ、身体が近づいた。
わき腹に違和感があった。
視線だけを落とすと、針が入っていた。
「……」
カラムは何の反応もせず、針を打った腕を掴んで捻った。骨の鳴る音がして、男が床へ落ちた。針を抜いた。
暗闇から声がした。
「まだ効いてない」
「分かってる。近づくな」
次の一人が間合いの外へ下がった。カラムが追う。
踏み込んだはずの足が、床を半歩遅れて捉えた。
距離がずれた。
その隙間へ拳が入った。頬を打たれ、顔が横へ流れた。
「……」
口の中で、歯が頬の内側を切った。
鉄の味が広がった。
カラムはすぐに顔を戻した。
「右から」
声と同時に、別の一人が来た。腹へ膝が入った。
「っ、」
息が全部抜けた。吸い直そうとした。喉の奥で、短い音だけが鳴った。空気が入らない。
それでもカラムは腕を伸ばした。相手の襟を掴み、引き寄せる。
「まだ動くぞ」
「体重かけろ」
二人分の重みが肩へ乗った。カラムは一人を振り落とした。もう一人の顔へ肘を入れた。男がよろめく。
「薬入ってんのに、しぶといな」
足元へ蹴りが来た。膝裏を払われ、片膝が床へ落ちた。
「……っ、は」
今度は、漏れた息が戻らなかった。視界の端が遅れて揺れた。手をついた床が、柔らかく沈んだように感じた。
「効いてきた」
「頭は打つな」
「手も潰すな。使えなくなる」
カラムの目が動いた。
立ち上がろうとした。右脚が伸びなかった。肩を押され、床へ伏せられた。頬が冷たいコンクリートへ当たった。背中へ膝が置かれる。
壁際に滑らせたケースが、視界に入った。カラムは右腕を伸ばした。
「……ケース」
「まだ届くのか」
指先が取っ手に触れた。握った。
「離させろ」
手首を掴まれた。それでも離さなかった。
「指から外せ」
人差し指を外された。中指。薬指。
カラムの喉から、低い息が漏れた。
「……それ」
声が続かなかった。
カラムは息を吸った。浅くしか入らなかった。
「……持って、帰る」
「まだ任務の話してるぞ」
別の男が言った。
「外せ」
最後の一本が、取っ手から剥がされた。
カラムの指は、何もない場所を一度だけ握った。
「確保」
港湾灯の細い光が、遠くなった。誰かがカラムの髪を避け、首筋へ指を当てた。
「問題ない」
「よし、運べ」
声が頭上を通り過ぎた。カラムの頬は、まだ床についていた。
肩を持ち上げられた。
カラムは腕を振りほどこうとした。動かなかった。
足が床を擦った。
視界は揺れていた。意識ははっきりしていた。
身体だけが、自分のものではなくなっていた。
黒いケースを持つ人間が、前を歩いていた。取っ手を握る手が見えた。
カラムは手を伸ばそうとした。
伸びなかった。
カラムが椅子へ座らされた。身体が横へ傾いた。肩を押され、背もたれへ直された。
両手首が背後へ回された。拘束具が締まった。
足首にも拘束具がついた。
カラムは目を開けていた。
正面で、作業灯が点いた。白い光が、顔に当たった。
背もたれに、濃い跡が広がっていた。椅子の脚の横へ、一定の間隔で血が落ちていた。
空気に、葉巻の匂いが混じっていた。乾いた、甘い匂い。
磨かれた革靴が、光の外から一歩視界へ入ってきた。
カラムの顎から、血が一滴落ちた。
「反省しましたか?」
カラムが視線を上げた。




