お蕎麦
東京拠点 午後九時五分
共用スペースに、出汁の匂いが満ちていた。
台所で惣一がざるを二度振り、氷水で締めた蕎麦の水を切っている。着流しの袖は肘まで上げられていた。
隣でカズマが薬味の小皿を並べていた。葱、山葵、刻み海苔。
カラムの席にだけ、葱は置かれていなかった。
テーブルには、そのカラムがいた。火のついていないRothmansを指の間で転がしながら、ただ見ていた。
オラヴルは廊下からその光景を見た。
一度、足を止めた。
そのまま来た方へ引き返そうとした。
「オラヴル」
惣一が、振り返りもせずに言った。
オラヴルの足が止まった。
「…いらない」
「聞いてねえ。座れ」
廊下側でカズマが動いた。両手に蕎麦猪口を持ったまま回り込み、笑ったまま出口の前に立つ。
「先生、こっち」
惣一は蕎麦を締める手を止めなかった。
水の音だけが続いた。
オラヴルはしばらくカズマを見ていた。
それから、席に着いた。
カズマが椀を運んでくる。
「ボス、料理するんだ」
「黙って運べ」
「はーい」
四人分の蕎麦と蕎麦猪口が並んだ。
カズマは箸に手を伸ばしかけて、惣一を見た。
惣一が席に着いた。
一口、蕎麦をすすった。
細く、長い音がした。
「食え」
カズマがすぐに箸を取った。
一口すすり、顔を上げた。
「うま」
惣一は何も言わなかった。
カラムも箸を持った。
蕎麦をつまむ。
三本ほど持ち上がり、一本が途中で落ちた。
カラムは残った二本をつゆにつけ、口へ運んだ。
すすらず、そのまま食べた。
オラヴルは目を上げなかった。
誰も話さなかった。
惣一が、もう一口すすった。
カズマも続いた。
二つの音が、少しずれて共用スペースに響いた。
カラムは箸を持ち直した。
また蕎麦をつまんだ。
今度は五本ほど持ち上がり、半分がつゆの中へ戻った。
壁の時計の秒針が進んでいた。
オラヴルの前では、蕎麦の表面から水気だけが失われていった。
カズマは惣一より早く食べ終わりそうになり、途中で速度を落とした。
カラムは蕎麦を三本ずつ食べていた。
箸から落とす。
拾い直す。
つゆにつける。
すすらずに食べる。
それを繰り返した。
オラヴルは箸にも触れなかった。
時計の長針が、わずかに動いた。
午後九時十二分だった。
惣一が蕎麦を手繰りながら言った。
「カラム」
カラムの箸が止まった。
「……何」
「十時。迎えが来る」
「……分かった」
オラヴルが顔を上げた。テーブルに手を置いた。
「どこへ行かせる気だ」
「お前には関係ねえ」
「なら、なぜ僕をここに座らせた」
「飯時だからだ」
惣一は蕎麦をすすった。
オラヴルは惣一を見ていた。
「食ってなかっただろ」
惣一は見返さなかった。
オラヴルの方が先に、視線を落とした。
カズマが箸で一本だけ蕎麦をつまみ、口へ運んだ。
カラムは止めていた箸を動かした。
蕎麦をつまんだ。
落とした。
もう一度つまんだ。
秒針が一周した。
さらに一周した。
冷蔵庫の駆動音が始まり、しばらくして止まった。
誰も立たなかった。
惣一が三口食べた。
カズマが一口食べた。
カラムが九本食べた。
オラヴルは下を向いていた。
午後九時十七分。
惣一の椀の蕎麦が半分ほどになった。
カラムの椀には、まだほとんど残っていた。
「俺は?」
カズマが言った。
「待て」
カズマは箸を持ったまま、嬉しそうに黙った。
また、蕎麦をすする音がした。
今度は惣一だけだった。
カラムが一度、壁の時計を見た。
十時まで、四十三分あった。
惣一は急がなかった。
カラムも、箸を置かなかった。
午後九時二十二分。
カズマの椀が空になった。
カラムの椀には、半分ほど残っていた。
箸の持ち方は、最初より少しだけましになっていた。
惣一は最後の蕎麦をすすり、つゆの残った猪口を置いた。
陶器が木のテーブルに触れ、小さく鳴った。
カズマが息を吸った。
惣一は蕎麦湯の入った湯桶を取り、蓋を外した。
白く濁った湯が、猪口へ流れた。
湯気が上がった。
惣一は両手で猪口を持ち、一口飲んだ。
カラムは蕎麦を食べていた。
途中で二本落ちた。
誰も何も言わなかった。
惣一が蕎麦湯を飲み終えるまでに、さらに二分かかった。
「カズマ」
「うん」
カズマは返事と同時に立った。
自分と惣一の器を重ね、台所へ運んでいく。
水道から水が出た。
器の触れ合う音がした。
カラムは残った蕎麦をつまんだ。
持ち上げた束の半分が、椀へ落ちた。
もう一度つまみ直した。
「全部食ってから行け」
惣一が言った。
カラムは顔を上げなかった。
「……うん」
蕎麦を口へ運んだ。
カズマが台所で器を洗っている。
オラヴルの蕎麦だけが、一口も減らないまま残っていた。
午後九時二十七分。
カラムは最後の蕎麦を食べた。
箸置きは使わず、遠慮がちに斜めに置いた。
惣一が空になった椀を見た。
それから、オラヴルの前の器を見た。
水道の音が続いた。
惣一は立った。
オラヴルの前から椀を下げた。
台所へ戻り、ざるに残っていた蕎麦を氷水へ通した。
水の中で、固まりかけていた蕎麦がほどけていった。
惣一がざるを振った。
水滴が流しへ落ちた。
新しい器を、オラヴルの前へ置いた。
出汁も新しいものに替えた。
山葵を少しだけ端へ寄せた。
「……いらない」
惣一は座った。
「そうか」
カラムも動かなかった。
空になった椀の横に、火のついていないRothmansが一本置かれていた。
カズマは台所に立ったまま、次の命令を待っていた。
午後九時三十分。
十時まで、三十分。
締め直された蕎麦から、最後の一滴が器へ落ちた。
その音が消えてからも、誰も動かなかった。




