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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十一章「情熱の死角 ― Blind Spot of Desire」

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お蕎麦




 東京拠点 午後九時五分


 共用スペースに、出汁の匂いが満ちていた。


 台所で惣一がざるを二度振り、氷水で締めた蕎麦の水を切っている。着流しの袖は肘まで上げられていた。


 隣でカズマが薬味の小皿を並べていた。葱、山葵、刻み海苔。


 カラムの席にだけ、葱は置かれていなかった。


 テーブルには、そのカラムがいた。火のついていないRothmansを指の間で転がしながら、ただ見ていた。


 オラヴルは廊下からその光景を見た。


 一度、足を止めた。


 そのまま来た方へ引き返そうとした。


「オラヴル」


 惣一が、振り返りもせずに言った。


 オラヴルの足が止まった。


「…いらない」


「聞いてねえ。座れ」


 廊下側でカズマが動いた。両手に蕎麦猪口を持ったまま回り込み、笑ったまま出口の前に立つ。


「先生、こっち」


 惣一は蕎麦を締める手を止めなかった。


 水の音だけが続いた。


 オラヴルはしばらくカズマを見ていた。


 それから、席に着いた。


 カズマが椀を運んでくる。


「ボス、料理するんだ」


「黙って運べ」


「はーい」


 四人分の蕎麦と蕎麦猪口が並んだ。


 カズマは箸に手を伸ばしかけて、惣一を見た。


 惣一が席に着いた。


 一口、蕎麦をすすった。


 細く、長い音がした。


「食え」


 カズマがすぐに箸を取った。


 一口すすり、顔を上げた。


「うま」


 惣一は何も言わなかった。


 カラムも箸を持った。


 蕎麦をつまむ。


 三本ほど持ち上がり、一本が途中で落ちた。


 カラムは残った二本をつゆにつけ、口へ運んだ。


 すすらず、そのまま食べた。


 オラヴルは目を上げなかった。


 誰も話さなかった。


 惣一が、もう一口すすった。


 カズマも続いた。


 二つの音が、少しずれて共用スペースに響いた。


 カラムは箸を持ち直した。


 また蕎麦をつまんだ。


 今度は五本ほど持ち上がり、半分がつゆの中へ戻った。


 壁の時計の秒針が進んでいた。


 オラヴルの前では、蕎麦の表面から水気だけが失われていった。


 カズマは惣一より早く食べ終わりそうになり、途中で速度を落とした。


 カラムは蕎麦を三本ずつ食べていた。


 箸から落とす。


 拾い直す。


 つゆにつける。


 すすらずに食べる。


 それを繰り返した。


 オラヴルは箸にも触れなかった。


 時計の長針が、わずかに動いた。


 午後九時十二分だった。


 惣一が蕎麦を手繰りながら言った。


「カラム」


 カラムの箸が止まった。


「……何」


「十時。迎えが来る」


「……分かった」


 オラヴルが顔を上げた。テーブルに手を置いた。


「どこへ行かせる気だ」


「お前には関係ねえ」


「なら、なぜ僕をここに座らせた」


「飯時だからだ」


 惣一は蕎麦をすすった。


 オラヴルは惣一を見ていた。


「食ってなかっただろ」


 惣一は見返さなかった。


 オラヴルの方が先に、視線を落とした。


 カズマが箸で一本だけ蕎麦をつまみ、口へ運んだ。


 カラムは止めていた箸を動かした。


 蕎麦をつまんだ。


 落とした。


 もう一度つまんだ。


 秒針が一周した。


 さらに一周した。


 冷蔵庫の駆動音が始まり、しばらくして止まった。


 誰も立たなかった。


 惣一が三口食べた。


 カズマが一口食べた。


 カラムが九本食べた。


 オラヴルは下を向いていた。


 午後九時十七分。


 惣一の椀の蕎麦が半分ほどになった。


 カラムの椀には、まだほとんど残っていた。


「俺は?」


 カズマが言った。


「待て」


 カズマは箸を持ったまま、嬉しそうに黙った。


 また、蕎麦をすする音がした。


 今度は惣一だけだった。


 カラムが一度、壁の時計を見た。


 十時まで、四十三分あった。


 惣一は急がなかった。


 カラムも、箸を置かなかった。


 午後九時二十二分。


 カズマの椀が空になった。


 カラムの椀には、半分ほど残っていた。


 箸の持ち方は、最初より少しだけましになっていた。


 惣一は最後の蕎麦をすすり、つゆの残った猪口を置いた。


 陶器が木のテーブルに触れ、小さく鳴った。


 カズマが息を吸った。


 惣一は蕎麦湯の入った湯桶を取り、蓋を外した。


 白く濁った湯が、猪口へ流れた。


 湯気が上がった。


 惣一は両手で猪口を持ち、一口飲んだ。


 カラムは蕎麦を食べていた。


 途中で二本落ちた。


 誰も何も言わなかった。


 惣一が蕎麦湯を飲み終えるまでに、さらに二分かかった。


「カズマ」


「うん」


 カズマは返事と同時に立った。


 自分と惣一の器を重ね、台所へ運んでいく。


 水道から水が出た。


 器の触れ合う音がした。


 カラムは残った蕎麦をつまんだ。


 持ち上げた束の半分が、椀へ落ちた。


 もう一度つまみ直した。


「全部食ってから行け」


 惣一が言った。


 カラムは顔を上げなかった。


「……うん」


 蕎麦を口へ運んだ。


 カズマが台所で器を洗っている。


 オラヴルの蕎麦だけが、一口も減らないまま残っていた。


 午後九時二十七分。


 カラムは最後の蕎麦を食べた。


 箸置きは使わず、遠慮がちに斜めに置いた。


 惣一が空になった椀を見た。


 それから、オラヴルの前の器を見た。


 水道の音が続いた。


 惣一は立った。


 オラヴルの前から椀を下げた。


 台所へ戻り、ざるに残っていた蕎麦を氷水へ通した。


 水の中で、固まりかけていた蕎麦がほどけていった。


 惣一がざるを振った。


 水滴が流しへ落ちた。


 新しい器を、オラヴルの前へ置いた。


 出汁も新しいものに替えた。


 山葵を少しだけ端へ寄せた。


「……いらない」


 惣一は座った。


「そうか」


 カラムも動かなかった。


 空になった椀の横に、火のついていないRothmansが一本置かれていた。


 カズマは台所に立ったまま、次の命令を待っていた。


 午後九時三十分。


 十時まで、三十分。


 締め直された蕎麦から、最後の一滴が器へ落ちた。


 その音が消えてからも、誰も動かなかった。

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