Marlboro Ice Blast
ローマ拠点の二階、一番奥の通信室は、窓がなかった。
光の届かない場所に、六枚のモニターが並んでいる。会場のカメラ、通りの映像、ログの流れる黒い画面。
机の上に、食べかけのパンと、冷めたコーヒーがあった。
ユキナガは椅子に座り、会場の観測システムのログを見ていた。
開いた扉の外に、ルカがいた。通信室には入らず、廊下の床に座り、膝の上でラップトップを開いている。
アルノが自室で、全班の回線を一つずつ確認していた。
『車を降りた』ヴィクトルの声が入った。
「二十分ずらした甲斐、あった?」ユキナガが言った。
『さあな』
会場の二筋手前で、黒いセダンが停まっていた。
ヴィクトルが先に降り、上着の襟を直した。歩幅を、観光客の速さに落とす。アオイが続いた。
ヴィクトルは、地下搬入口を見ていた。許可証の要る鉄扉。車の入る角度。壁に貼られた工事の告知。見るべきものを、順に見ていた。
アオイは半歩下がって、ときどきショーウインドウへ目をやっていた。
人の流れの中に、速度の合わない影が一つあった。
薄いジャケットの男。観光客の服装。歩き方にも、不自然なところはない。二つ前の角から、同じ距離を保っていた。
アオイは顔を動かさなかった。並んだ靴の硝子の前で足を止め、後ろの通りを反射で見た。
男は、新聞スタンドの前で止まった。
アオイはコートのポケットへ右手を入れた。
「……一人います」
『どこですか』アルノの声。
「後方。薄いジャケット。二つ前の角から」
ヴィクトルが振り返ろうとした。
「見ないでください」
ヴィクトルの首が止まった。前を向いたまま、歩き続けた。
「いつからだ」
「車を降りて、二つ目の角から。おそらく」
『続けてください。目的を探ります』アルノが言った。
ヴィクトルが、通りの先を見たまま言った。
「目的はリヴァじゃないかもな」
アオイは答えなかった。地下搬入口の位置と、男との距離だけを測っていた。
通信室で、ユキナガの指が止まった。
観測システムのログに、行き先の合わない線が一本あった。
地下会議室の観測値を、解析側へ送る経路だった。
まだ誰もいない会議室を、システムだけが待っていた。音声、視線、心拍、発話の間隔。項目だけが並び、集めた数字が、どこかへ流れていく。
ユキナガはログを遡った。
扉の外で、キーを叩く音が止まった。
「ユキ」
「何」
「二十七番、見てる?」
二人とも、同じ場所を見ていた。
「……お前が足した?」ユキナガが言った。
「足してない」
「研究室の誰かとか?」
「この権限、俺と教授しか持ってないはず」
ルカは床に座ったまま、ラップトップの画面をユキナガの方へ回した。
ユキナガが部屋の中から見た。
「教授じゃねえの」
ルカが時間を確認した。
「今は試験監督やってる時間。今、口頭試問に入ってる頃」
中継を三度噛んだ送信先が、一つ。研究室でも、会場でもない。
「収集先が、もう一つある」ルカが小声で言った。「内部じゃない」
「消せる?」
「消したら気づかれる」
アルノが、二つの回線を同時に聞いていた。
外から、アオイの声がした。
『男、電話してます。……口は、動いてません』
アルノの指が二度、机を叩いた。
「両方、そのままで」アルノが言った。「動かないでください」
外の男は、しばらくして携帯電話を下ろした。
来た方向へ、戻っていく。追ってはこなかった。
アオイは振り返らず、硝子でその背を確認した。
「戻ります。……こっちの用は、済んだみたいですね」
『済んだ、ね』ヴィクトルが言った。
通信室の戸口で、ルカが別の照会画面を開いた。
「ユキ」
ラップトップをユキナガの方へ向けた。ユキナガが一歩部屋を出て、覗き込んだ。
分岐経路の認証欄に、古い識別番号が出ていた。
「……これ、お前の鍵?」
「旧版の開発鍵」
「旧版って?」
ルカは画面から目を離さなかった。
「大学の元環境。あそこの端末にしかない」
「……確認できんの」
「大学に行けば」ルカが言った。
「もし大学関係者にバレてても、外部から入られててもまずいだろ」ユキナガが言った。
「分かってるよ」
ユキナガはポケットからMarlboro Double Burst 5mgを取り出した。黒地に緑とピンク色のパッケージ。
「あ。惜しい」ルカが言った。
「は?何」
ルカはポケットに手を入れて、Marlboro Ice Blast Mega 5mgの箱を出した。黒地に、青色のパッケージ、デザインはほぼ同じで、色だけが違った。
「予想外れた。アイブラじゃなかったんだ」
そう言いながらルカは一本取り出して、火をつけた。
ユキナガの手から煙草が一本、床に落ちた。




