朝の鐘
ローマ拠点 三階サロン 午前六時五十七分。
リヴァは中庭側の窓へ歩いた。
硝子戸を内側へ開き、両手を鎧戸へ掛けた。
一気に押し開ける。
木戸が外壁へ当たり、乾いた音が中庭へ響いた。
九月の朝日が、部屋の奥まで斜めに入った。
まだ低い光だった。向かいの黄褐色の壁を照らし、窓枠と家具の影を長く床へ落としている。夜の熱が石壁にわずかに残っていたが、窓から入る風は乾いていた。
屋根の向こうから、街の音が上がってきた。
金属製のシャッターを引き上げる音。石畳を走るスクーター。食器を重ねる音と、通りの向こうで交わされる声。遠くで鐘が鳴り、その途中を配送車のクラクションが横切った。
コーヒーの匂いがした。
リヴァは窓枠へ片肘を置き、煙草を咥えた。
火をつける。
最初の煙を、中庭へ吐いた。
一階下で、窓が開いていた。
二階の客室の窓枠にフィンが肘を置き、煙草を吸っていた。黄緑の箱が、窓辺に置かれている。
「おはよ、フィン」少し大きめの声で言った。
フィンはその声に顔を上げ、リヴァを見た。
「おはよう。映画みたいだね」
斜め下にいるフィンも、声を大きくして答えた。
煙草を指に挟んだまま笑った。
リヴァも少し笑った。
フィンが煙を吐いた。薄い煙が壁に沿って上がり、リヴァのいる窓へ届く前に消えた。
後ろで扉が開いた。
カイがサロンへ入ってきた。
「おはよ、カイ」
「おはよう」
足音を隠さず、開け放たれた窓の後ろまで来た。リヴァの肩越しに中庭を見下ろす。
フィンがカイを見た。
煙草を一口吸い、口元だけで笑った。
「Morning、カイ」
「ああ」
「先に下、行ってるよー」
フィンは窓辺から黄緑の箱を取り、部屋の奥へ消えた。
リヴァは窓枠に寄りかかったまま、一口吸った。
カイもポケットから箱を出し、一本抜いた。
「はい」
リヴァが外を向いたまま、手首を返してライターに火をつけた。
カイが屈んで、その火を受けた。
リヴァが横目で見て、ライターを窓枠に置いた。
「今日から忙しくなりそう」
「ああ」
街の音と、噴水の水音が、開いた窓から部屋へ入り続けていた。
ローマ拠点 一階共用スペース 午前七時十分。
硝子戸から、朝の光が斜めに入っていた。長いテーブルの上に、パン、果物、ハムの皿が並んでいる。
リヴァが階段を降りてくると、テーブルの端でルカがコーヒーを飲んでいた。
「あ。ルカいる」
ルカはリヴァを見た。
「おはよ」
「おはよう」
その隣にユキナガがいて、端末を睨んでいた。ルカは椅子を寄せて、ユキナガの手元を覗き込んだ。
「近い」ユキナガが言った。
ルカは動かなかった。
「昨日と同じ回線構成?」
「離れろって」
「同じなんだ」
ルカはカップを口へ運びながら、画面を見続けた。ユキナガは端末を少し傾けたが、それ以上は追い払わなかった。
カイがリヴァの後ろから降りてきて、椅子を引いてリヴァを座らせた。リヴァはパンに手を伸ばした。
ヴィクトルがキッチンの方から、コーヒーのカップを持って現れた。ルカを見て、足を止めた。ため息をついた。
「結局泊まったのか」
「だって私物なんでしょ。泊めてよ」
「事後承諾で言う台詞じゃないよな」
ヴィクトルはカップを置き、椅子に座った。
「ま。通信室と、三階に入らなきゃいい」
ルカはヴィクトルを見て、少しだけ笑った。
ジュリオが硝子戸の側から入ってきた。片手にエスプレッソの小さなカップを持ち、昨日より馴染んだ足取りで、テーブルの空いた席へ座った。
「Buongiorno。よく眠れた?」
「うん」リヴァが言った。
「俺は眠れなかった。君と同じ屋根の下だと思うと」
「別の屋根の下だったら眠れたの?」
「それはそれで眠れない」
アオイが遅れて降りてきて、いちばん端の席についた。皿を一枚引き寄せ、パンを取った。
アルノが端末を持って入ってきた。
ヴィクトルが空になったパン籠を見た。
「ルカ。厨房に新しいのがある。持ってこい」
「なんで俺が」
「泊めてやっただろ」
「はいはい」
ルカはユキナガの肩へ一度触れてから立ち上がった。空の籠を持ち、奥の厨房へ入った。
扉が閉まった。
アルノが一度扉を見てから、テーブルの脇に立った。
「おはようございます。今日の予定を共有します」
カイが果物のナイフを置いた。
「午前中に、会場周辺と退避経路を確認します。出発は二班に分けます」
アルノが続けた。
「リヴァ、カイ、ジュリオが先行。フィンは別経路から外周を確認してください。ヴィクトル、アオイは二十分後に、車で会場へ。私はここで通信を受けます」
「観光みたいなもんだね」フィンが言った。
「そう見えるように歩いてください」
「I LOVE ROMEのTシャツ買ったから着ようかな」
フィンが席についた。持っているマグカップに『I♡ROME』と書いてあった。
それを見てユキナガが吹いた。
「一緒に着る?」フィンが言った。
「着ねえよ」
「リヴァ、一緒に着よ」
「いいよ」リヴァが頷いた。
カイが固まった。
ユキナガが伏せて笑った。
ジュリオがエスプレッソを飲み干した。
「案内は任せてくれ。ローマの路地は、俺の庭だ」
アルノが頷いた。
「退避経路は、ヴィクトルから聞いていた三か所を回ります。トラステヴェレ、南側、それと──」
「もっとある」ヴィクトルが言った。「六つは」
アオイがパンを千切る手を止めた。
「セーフハウスを…六つも隠してるんですか…?」
「使える状態のがな」
「使えないのもあるんですか」
「ある」
「何個」
ヴィクトルはコーヒーを飲んだ。一瞬天井を見た。
「覚えてない」
「…」
アオイは無言でパンを口へ運んだ。
「それ一個くれたりしませんか」
「どれがマフィアに割れてるか覚えてないが」
「……やめときます」
リヴァはハムを一枚、パンにのせた。
「ジュリオ、ここから遠いの?」
「歩いて十分。君となら三十分にしてもいい」
「十分でいい」
アルノが端末を閉じた。
厨房の扉が開き、ルカがパン籠を抱えて戻ってきた。
「ねえパンもう無いんだけど」
「そんなはずは無いんだが」ヴィクトルが言った。
ヴィクトルがアルノを見た。
アルノが頷いた。
「ユキナガ、通信室で」
「わかった」
ユキナガが端末とカップを持って立ち、階段へ歩いていった。アルノがついて行った。
ルカが見た。
ヴィクトルが間髪入れずにルカに言った。
「いいか。通信室は入るなよ」
「はーい」
ルカは共用スペースでノートパソコンを開いた。
外に出た。
リヴァはカイと並んで、石畳の細い通りを歩いていた。髪は低い位置で緩く編んで、キャップをかぶっていた。『I LOVE ROME』と書かれたTシャツを着て、下は短パンをはいていた。
カイはカーキのポケット付きのTシャツに黒いサングラスをかけていた。
ジュリオは黄色いシャツを着て、その半歩後ろにいた。
通りの反対側を、フィンが歩いていた。白いTシャツにリュックだった。旅行者らしくショーウインドウを覗き、ときどき足を止める。三人と目を合わせなかった。
「次の角を左」ジュリオが言った。「そこから、会場の北の屋根が見える」
リヴァは角を曲がりながら、上を見た。建物の間に鐘楼が一つ。通りの半分が、その影に入っていた。
視線を戻した。
通りの両側で、カフェが店を開け始めていた。椅子が石畳へ並べられ、黒板にチョークで文字が書かれていく。
エプロンの若い店員が、テーブルを拭く手を止めた。
「Buongiorno」
「ボンジョルノ」リヴァが返した。
店員が胸に手を当て、何か言った。
「何て?」リヴァがジュリオに聞いた。
「……君が、今日一番の幸せだ、と」
「まだ九時前だよ」
ジュリオがそれを訳した。
店員は笑って、胸ポケットから店のカードを抜いた。裏に走り書きをして、リヴァへ差し出した。
「夜も開いてるから来い、と」
「行けないの」
店員は肩を落とした。
カードを引っ込めた。リヴァへウインクをした。
「AISHITERU」
覚えたての日本語だった。
リヴァは眉間に皺を寄せた。
「それはお前を殺すという意味だ」カイが英語で言った。
店員が固まった。
「嘘嘘、ごめん」ジュリオがイタリア語で言った。
三人は歩き続けた。
路地が少し広くなり、日が差した。前方から、書類の鞄を提げたスーツの男が歩いてきた。電話で話していたが、リヴァを見ると声が止まった。
すれ違った。
二歩進んだところで、男が振り返った。
「Scusi」
リヴァも振り返った。
男は一瞬だけ迷って、それから英語で言った。
「あー、突然すまない。何も言わずに通り過ぎたら後悔すると思った」
「何を?」
「君に昼食を断られる機会を、失うことを」
「断られる機会?」
「そちらの人にね」
男はカイを示した。
「なんで聞くの」リヴァは言った。
「聞かなければ、可能性はゼロだ」
「はじめからゼロだ」カイが言った。
男は小さく笑い、胸元から名刺を一枚出した。リヴァへ差し出す。
カイが横から受け取った。
「預かる」
男はカイをしばらく見て、諦めたように両手を上げた。リヴァへ軽く笑顔を向け、通りを小走りで戻っていった。
リヴァはその背を見送った。
「弁護士だ」ジュリオが名刺を覗き込んで言った。
「だから何だ」カイが言った。
「訴えられるぞ。恋の機会損失で」
「……」
カイは名刺を二つに折り、もう一度無理矢理折りたたんでポケットへ入れた。
ジュリオが手を出した。
「よこせ。もらっとく」
四つ折りになった名刺を渡した。
通りの先に、花屋があった。金属のバケツに、赤、白、桃色の花が並び、朝の水を弾いている。年老いた店主が、鋏を持って茎を切っていた。
三人が前を通りかかった。
店主が顔を上げ、リヴァを見た。
店先から身を乗り出し、赤い薔薇をリヴァへ差し出した。
リヴァが受け取ろうとすると、店主は首を横に振った。指で、自分の耳の後ろを示した。
店主は皺の寄った手で、リヴァの髪へ赤い薔薇を挿した。そして、頷いた。
カイは一度サングラスを外し、掛けなおそうとした。
店主とカイの目が合った。
白い薔薇を一本抜き、茎を切って、差し出した。
カイは顔をしかめた。
サングラスを胸にかけた。
「機嫌直せ、だと」ジュリオが言った。
リヴァが白い薔薇を取り、カイの胸ポケットへ挿した。
「いらない」
「似合ってるよ」
カイは胸元を見下ろした。
店主が満足そうに鋏を鳴らした。また何か言った。
「そんな顔してたら彼女が逃げるぞ、だと」
カイは深呼吸して、視線を逸らした。眉間の皺が浅くなった。
店主が笑った。小声でジュリオにもう一言、言った。
「……彼女に愛想つかされたら俺が貰うから教えろ、ってさ」
カイの眉間の皺が濃くなった。サングラスをかけた。
三人は花屋を離れた。赤い薔薇が、リヴァの耳の後ろで揺れた。
通りが石段へ変わった。上りきると、噴水を囲む小さな広場に出た。観光客がまばらに立っている。
『広場の縁で一度止まって。地図を広げると旅行者に見える』フィンの声。『そこから会場の裏口が正面に来る』
リヴァが噴水の縁に腰かけ、バッグから折り畳んだ地図を出して広げた。ジュリオが横から指をさす。案内をする男の手つきだった。
地図の上の目は、別のものを見ていた。
「搬出口、あそこだね」リヴァが小声で言った。
「路地に一つ。正面からは死角だ」ジュリオが同じ声で答えた。
「上からは見える」
「向かいの屋根と、鐘楼」
リヴァは地図を畳んだ。
広場の先、石造りの建物が朝の光の中に並んでいた。その裏に、会場があった。




