サイゼ
ローマ 旧市街 午後三時五十八分。
車が大通りを離れ、二度細い路地を曲がると、黄褐色の壁が窓のすぐ外を流れていった。
建物の間に洗濯物が渡され、その下をスクーターが抜けていく。
石畳の角のカフェで、立ったままエスプレッソを飲んでいた男が、黒い車列を目で追った。
先頭の黄色いアルファロメオが、古い建物の前で速度を落とした。両開きの木製扉は人の背丈の倍近くあり、黒い鉄鋲が並んでいる。
上部には擦れて読めなくなった紋章が残っていた。車が近づくと、扉が内側へ開いた。
アオイが窓の外を見た。
「ここですか」
「そうだ」ヴィクトルが言った。
「ホテルの看板ないですけど…」
車は門を抜け、四角い中庭へ入った。中央に石造りの噴水があり、水は止まっていた。縁に白い花が幾つか落ちている。
三階建ての建物が四方を囲み、柱の並ぶ回廊が中庭を一周していた。
傾いた午後の光が、最上階の窓へ入っていた。
車列が止まると、先頭のアルファロメオからジュリオが降りた。携帯電話を耳に当てたまま、後続車へ歩いてくる。
「当日地下へ入れる車が一台足りないそうだ。警察筋に話を通してくる」
ヴィクトルがドアを開けた。
「申請してないんですか」アルノが言った。
「してたさ。ローマではたまに役所が書類を食べるんだ」
最後の車からリヴァが降りた。ジュリオが端末を耳に当てたまま、その前まで来た。
「Bella。俺が戻るまで、誰にも口説かれるなよ」
「もう口説かれたじゃん」
「なんだって」
「ジュリオに」
ジュリオが笑った。
「名前まで覚えてくれてる。結婚の未来に一歩近づいた」
「仕事して」
「君に言われると、すごく働ける」
ジュリオはアルファロメオへ戻り、黄色い車は門を抜けて路地へ消えた。
アオイがその後ろを見た。
「あれがイタリア人か……」
「俺、日本人でよかったわ」
「でも、あれがモテるんですよね?」
「日本なら、あんなに喋らなくてもだいたい何とかなるし」ユキナガが言った。
アオイがユキナガを見た。
「その自信、どこで身につけたんですか」
「歌舞伎町」
「聞かなきゃよかった……」
「お前も黙ってれば顔は悪くないよ」
「何をさせる気ですか」
「褒めただけ」
アオイは建物を見上げた。
「……どこが俺らのエリアですか」
「違う。全部俺たちが使う」
「え」
アオイがヴィクトルを見た。
ヴィクトルは先に車を降りた。
「中を案内する」
中庭には、濃紺のスーツを着た使用人が四人並んでいた。全員が目立たない位置に立ち、荷室が開くのを待っている。荷物へ手を伸ばすタイミングまで揃っていた。
ユキナガが次の車から降り、建物を見上げた。
フィンがサングラスを外し、中庭を見回した。
「いいね。幽霊が三十人くらいいそう」
「古い家にはだいたいいるよ」ユキナガが言った。
「三十は居すぎじゃ…」
「いません」アルノが端末を見たまま車を降りた。「少なくとも、事前調査では確認されていません」
「調べたの?」
「比喩です」
正面の扉が内側から開いた。ヴィクトルが先に入る。
天井の高いホールだった。白い漆喰の壁、黒と白の大理石を交互に敷いた床、壁際の細いテーブルには銀の燭台。天井には薄く剥げたフレスコ画が残り、翼のある裸の子供が雲の上で果物を持っていた。
アオイが見上げた。
「……天井に裸の子供いますけど」
「天使だよ」フィンが言った。
「服着せた方がよくないですか」
「十六世紀に言って」
ユキナガが見上げていた。
「……サイゼじゃん」
アオイが肩を揺らして笑った。
奥の石造りの大階段は、三人が並んでも余る幅があった。黒い鉄の手すりに蔦の模様が組まれている。
二階の廊下には深い赤の絨毯が敷かれ、壁に風景画と肖像画が交互に並んでいた。
ヴィクトルは扉の前で立ち止まると、順に鍵を渡した。
「アルノ。フィン。アオイ。一人一室だ。ジュリオはどうせ泊るからその奥」
アオイが手の中の真鍮の鍵を見た。
「ゴツい鍵ですね…」
「電子錠も入っている。鍵は飾りだ」
「…必要ありました?」
「雰囲気だ」
アオイが扉を開け、そのまま止まった。大きなベッドの奥に、小さなサロンと白い大理石の浴室が見えた。
「お前は窓のない一番質素な部屋にしてある」ヴィクトルが後ろから言った。「新人だからな」
「質素って何でしたっけ……」
廊下の奥の重い扉を、ヴィクトルが開けた。そこだけ内装が違っていた。
壁際にモニターが六枚並び、机の下に予備電源、鍵付きの機材ケース。建物の正面、中庭、地下駐車場、通用口の映像がすでに表示されている。奥には寝室へ続く扉が二つあった。
ユキナガが中へ入り、機材を一通り見た。
「これ、部屋じゃなくて要塞じゃん」
「安全だろ」
「…外からはね」
「理解が早くなったな」
使用人がユキナガのスーツケースを置き、その隣へヴィクトルの黒いケースが並べられた。
「一時間後に回線試験だ」
「わかった。もう繋いであるのありがてえ」
最上階へ続く扉には、鍵が二つついていた。カイが先に上がり、扉の前で蝶番と壁際を確認する。ヴィクトルが鍵を開けた。
その先に、広いサロンがあった。天井まで届く窓が三つ並び、薄いカーテンの向こうにローマの屋根が広がっている。
サロンの左右には、寝室へ続く扉が一つずつあった。
「左がリヴァ、右がカイだ」ヴィクトルが外へ続く扉を示した。「入口は一つ。サロンを通らなければ、姫の寝室には入れない」
リヴァは少し考えた。
「わかった」
「俺も、番犬を通らなければ入れない」
「入るな」間髪入れずカイが言った。
「夜中に抜き打ちしてやってもいいんだぞ」
「やめろ」
カイがヴィクトルを睨んだ。
リヴァは寝室へ入り、奥のクローゼットを開けた。ワンピース、薄いニット、ジャケット、靴の箱が並んでいる。
「なんか用意されてる……」
「ローマでは何が起きるかわからん」
サロンへ戻ると、アルノが窓と二つの寝室、廊下への距離を確認していた。
「退避路はどこですか」
ヴィクトルが暖炉脇の壁へ手をかけると、壁面の一部が音もなく内側へ開き、細い石造りの階段が上へ続いていた。
「屋上へ出る。隣棟まで橋を渡してある。内側から外せる」
アルノが端末へ入力した。
「短期滞在のために、ここまで改修したのですか」
「そういう訳じゃない」
通信室からユキナガが出てきた。
「この建物、専用回線が三本あんだけど」
「あるな」
「いくらで借りたの」
「借りる?」
ユキナガがヴィクトルを見た。
「……じゃあ何」
「俺のだ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
中庭で止まっていた噴水の水が動き始めた。遠くで鐘が鳴った。




