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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十章「非対称の支配 ― Asymmetric Force」

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おすわり

※この話には心理的支配・暴力の描写が含まれます。





 東京拠点。午前一時三十八分。



 フィンは廊下の途中で足を止めた。


 カラムの部屋の前だった。


 いつもなら、壁の向こうから低い音楽が聞こえていた。


 今夜は、何も聞こえなかった。


 フィンは二度、ドアを叩いた。


 返事はない。


 ドアノブを引いた。


 鍵はかかっていなかった。


 部屋には、ベッド脇のランプだけがついていた。


 カラムは壁際の床に座っていた。


 片膝を立て、腕を乗せている。指の間に、火のついていないRothmansがあった。


 スピーカーの電源は落ちていた。


 フィンが部屋へ入った。


「静かだね」


 カラムが顔を上げた。


「……うん」


「死んだかと思った」


「……死んでない」


「死んでたらベルギーに持ってくのに」


「……」


 フィンは後ろ手にドアを閉めた。


 カラムの端末が、床に伏せてあった。


「苦情あった?」


 カラムは煙草を指の間で回した。


 フィンは少し笑った。


「優しいじゃん」


「違う」


 返事だけが早かった。


 フィンの笑みが薄くなった。


「何が」


「……優しくない」


「じゃあ、どうして音楽止めたの」


 カラムは答えなかった。


 フィンは部屋を見回した。


 椅子には何も掛かっていない。ベッドも整ったままだった。眠る気配がなかった。


「アオイが気になってる?」


 煙草を持つ指が止まった。


「俺らが楽しそうだった?」


「……別に」


 カラムの目が動いた。


「楽しかったよ」フィンは言った。「俺、アオイ好きだし」


 フィンはカラムを見た。


「君と違って」


 カラムの顔は動かなかった。


「ローマにも一緒に行くから」


 カラムの目が伏せられた。煙草を見ていた。


 フィンが少し首を傾けた。


「何、その顔」


「……別に」


「行きたいんでしょ?」


「……行かない」


「それは聞いてない」


 フィンの声が低くなった。


「行きたいかって聞いた」


 カラムは黙った。


「またそれ?」


「……任務があるから」


「何の」


 返事はなかった。


 フィンが足を組み替えた。


「カラム」


「……日本で」


「誰の指示」


 カラムは煙草を握った。


「……惣一」


 フィンの顔から笑みが消えた。


「直接言われたの?」


「……うん」


「内容は」


「……まだ、聞いてない」


「話していいと思ってるの」


 カラムが顔を上げた。


「……聞かれたから」


 次の瞬間、フィンがカラムの胸元を掴んだ。


 床に座ったままのカラムの身体が、壁から引き剥がされた。


 背中が、もう一度壁へ当たった。


 鈍い音がした。


「あのさ」


 カラムは抵抗しなかった。


 煙草が指から落ちた。


「俺たちはローマに行く。君は日本に残る。コアから直接仕事を振られてる」


 フィンの指が、シャツを強く握った。


「何も考えてないだろ」


「……任務だから」


「それしか言えないの?」


「……」


「命令されたからやる。正しい配置だから残る。仕方ないから見送る」


 カラムの目が、わずかに細くなった。


「……違う」


「何が違うの」


「……今度は、失敗しない」


 フィンの手が止まった。


 それから、カラムの身体をさらに壁へ押しつけた。


「それを言えば、俺が喜ぶと思った?」


「……」


「惣一に指名されて、嬉しかった?」


 フィンは一度、目を閉じた。


 短く息を吐いた。


「本当に嫌い」


 カラムの喉が動いた。


「君のそういうところ」


 フィンはカラムの襟を引いた。


 顔が近づいた。


「誰かに指を差されたら、そこに立つ。撃てと言われたら撃つ。残れと言われたら残る」


「……」


「俺に聞かれたら、話しちゃダメなことまで話す」


 フィンの視線が、床に落ちたRothmansへ移った。


「そのくせ、俺がアオイと仲良くしてただけで音楽を止める」


 カラムの肩が動いた。


「違う」


「違わない」


「……アオイは、関係ない」


「じゃあ何」


 フィンがカラムを揺さぶった。


 後頭部が壁に軽く当たった。


「言えよ」


 カラムは答えなかった。


 フィンの顔が歪んだ。


 笑いかけて、やめたような顔だった。


「君、自分のことだけ急に馬鹿になるよね」


 フィンは襟元から手を離した。


 カラムの身体が壁へ戻った。


「アオイが羨ましい?」


「……」


「ローマに行くから」


「……」


「リヴァの近くにいられるから」


 カラムの指が、床の上で動いた。



 フィンの顔が近づいた。前髪がカラムの髪に触れた。


「ねえ。死ねって言われたら死ぬの?」


「……」


 カラムが下がろうとした。頭が壁に当たった。


「返事しろって教えたはずだけど」


「……分から、ない」


「分からないで済ませるなよ」


 フィンの声が、初めて荒れた。


「俺は君の頭の中を片づける係じゃない」


「……」


「飼い主でもない」


 カラムの目が伏せられた。


 フィンはドアへ向かった。


 反射的に、カラムが立ち上がった。


 大きな影が、ランプの光を塞いだ。


「……どこ行くの」


「アオイのところじゃないよ。安心した?」


 カラムの顔が止まった。


「そうじゃない」


「じゃあ何」


「……」


「ほら」


 フィンはドアノブへ手をかけた。


「何も言えない」


 ドアを開けた。


 廊下の白い光が、部屋の床へ伸びた。


「行きたいとも言えない。残りたくないとも言えない。誰かといたいとも言えない」


「……」


 フィンは振り返った。


「そんな人生、ずるいよ」


 カラムは壁際に立っていた。


 長い髪が、頬にかかっていた。


 カラムの指が動いた。


 フィンは廊下へ出た。


 シャツの背中が引かれた。


 フィンの身体が、半歩だけ後ろへ戻った。


 後頭部がカラムの肩に触れた。背中がカラムの胸元に当たった。


 フィンは、背中に触れた体温を確かめるように一度だけ止まった。


「離して」


 カラムは離さなかった。


「カラム」


 指が、わずかに緩んだ。


 フィンは振り返った。


 カラムの手首を掴んだ。


 そのまま腕を捻り、壁へ押しつけた。


 フィンの前腕が、カラムの胸元へ食い込んだ。


 カラムが膝立ちになった。フィンが見下ろす。


「何がしたいんだよ」


「……分からない」


「それは禁止したよね」


「……」


「離してほしい?」


「……違う」


 カラムが立ち上がって、フィンとの距離を詰めた。一歩、壁から離れた。


 フィンが下がって、膝裏がベッドサイドに当たった。カラムを見上げた。


「それだけ?」


「……」


 カラムは答えなかった。


 フィンはカラムの手首を押さえたまま、待った。


「それで済ませるなよ」


 カラムの呼吸が、少し深くなった。


「今、俺にしてほしいこと。言って」


 カラムの口が開いた。


 声は出なかった。


 フィンは待った。


 廊下の足元灯が、二人の影を壁に重ねていた。


「……行かないで」


 フィンの腕から、少し力が抜けた。


「で?」


 カラムの眉が、わずかに寄った。


「今、俺にしてほしいことは何」


「……帰らないで」


 フィンはしばらく、カラムを見ていた。


 カラムの指が、フィンのシャツをもう一度掴んだ。


 今度は背中ではなく、脇腹の布だった。


「……お願い」


 フィンはカラムの手首を離した。


「座って」


 カラムは目を伏せた。


「おすわり」フィンが言った。


 カラムは脱力するように床に座った。


 フィンは、その膝に近い位置へ腰を下ろした。



 ローマまで、あと六日だった。


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