綿棒
廊下は静かだった。
リヴァはパジャマの裾を押さえながら、カイの部屋の前で立ち止まった。
二回ノックする。
「カイ」
少し間があって、ドアが開いた。
「どうした」
「綿棒ってある?」
「うん」カイが言った。
「耳かゆい」
「入れ」
それだけ言って部屋へ戻る。
リヴァも遠慮がちについて入った。
カイの部屋は相変わらず物が少ない。ベッドと机、本棚。整えられた靴。壁際にはトレーニング用のダンベルが置いてあるだけだった。
引き出しを開け、綿棒の箱を取り出す。
一本抜き取る。
そして振り返ると、ベッドへ腰を下ろした。
自分の太腿を軽く叩いた。
「え」
「こっち」
あまりにも当然の顔で言われて、リヴァは少し笑ってしまった。
ベッドの横へ行き、そっと横になる。
頭を預けると、カイの太腿は思ったより固かった。
「重くない?」
「重いわけがない」
耳を覗き込みながら、髪を指先で耳の後ろへ流す。
その手つきが驚くほど丁寧だった。
「動くな」
「はい」
綿棒が耳へ触れる。
「……ん」
少しくすぐったい。
思わず肩が動く。
「だから動くな」
「だって、くすぐったい」
カイは小さく息を吐いた。
笑ったような、笑っていないような音だった。
綿棒がゆっくり回る。
耳の形に沿うように、少しずつ動かしていく。
その慎重さが、逆に眠気を誘った。
部屋は静かだった。
エアコンの低い音。
「痛くないか」
「うん……」
返事が少し遅くなった。
カイは綿棒を替えた。
新しい綿が耳へ触れる。
「……気持ちいい…上手い…」
「妹のをよくやっていた」
「眠くなる」
「寝るな」
「うーん……」
リヴァの瞼が少しずつ重くなる。
「……あと何回寝たら、ローマだっけ」
「数えなくていい」
「……ん」
「俺も行く」
リヴァはカイの服を少し握った。
頭に添えたカイの温かい掌、耳に触れる綿。
一定のリズム。
全部が心地よかった。
「反対」
カイが小声で、いつもよりゆっくり言う。
リヴァはゆっくり顔を向けようとしたが、半分眠っていて動きが鈍い。
「……ん」
「リヴァ」
「……ねむい」
「起きろ」
「起きてる……」
カイは小さく肩をすくめる。
なんとかそのままリヴァの体を反対へ向けた。
顔がカイの腹側に向いた。
「ありがと……」
その声はほとんど音になっていなかった。
反対の耳も同じように、ゆっくり掃除する。
途中でリヴァの呼吸が一定になった。
静かな寝息だった。
カイの手が止まる。
「……リヴァ」
返事はない。
寝息だけが返ってきた。
起こそうとして、やめた。
眠る横顔を見る。
力の抜けた睫毛。
安心しきった寝顔。
カイは小さく息をついた。
リヴァの頭に手を添えて、読みかけの本に片手を伸ばした。
リヴァは時々、小さく寝返りを打とうとして、頭を少し擦り寄せる。
そのたびにカイは無言で頭を撫でた。
部屋の灯りを少しだけ落とした。
本を開いた。一ページも進まなかった。
静かな夜だった。
ユキナガがカイの部屋をノックした。
ドアが開いた。
カイが立っていた。
スウェットパンツ姿だった。髪は乾ききっていなくて、前髪だけ少し額に落ちている。肩と脇腹の包帯は新しいものになっていた。
上半身には何も着ていなかった。
ユキナガが一度、カイを見た。
「……服着ろよ」
「風呂に入っていた」
「見れば分かる。廊下に出る格好じゃない」
「まだ出てないだろ」
「めんどくさ」
ユキナガは端末を持っていた。
「…ちょっと暇?」
「何だ」
「ローマの配置図の事で」
端末を持ち上げながら、開いたドアの向こうへ視線をやった。
一歩入ろうとした。
そこで止まった。
薄暗い部屋の奥。
カイのベッドで、リヴァが眠っていた。掛け布団を肩までかけ、淡い髪が枕の上に広がっている。
「……なんでリヴァがいるの」
「寝てる」
ユキナガがカイを見た。
濡れた髪。裸の上半身。新しい包帯。
もう一度、ベッドを見る。
「……俺、邪魔した?」
カイはユキナガを見た。
ユキナガも目を逸らさなかった。
一拍あった。
「部屋に来て、寝ただけだ」カイが言った。
「ふうん」
「何だ」
「何も」
ユキナガがもう一度、リヴァの方を見た。
カイが半歩動いた。開いていた隙間が、少し狭くなった。
「寝てるか確認しただけだろ」
「必要ない」
「は?」
ベッドの上で、掛け布団が動いた。
リヴァが小さく眉を寄せた。
「……カイ?」
カイが息を吐いた。リヴァへ振り返った。
「起こしたか」
「ううん……」
リヴァがゆっくり目を開けた。
ドアのところにいるユキナガを見た。
「ユキナガ」
「ごめん。うるさかったよな」
「……カイに耳掃除してもらってたら、寝ちゃった」
ユキナガが黙った。
カイを見た。
「……耳掃除?」
「……うん」
リヴァは枕に頬をつけたまま、少し笑った。
「部屋入って三分だった…」
目を擦った。
「ユキナガもやってもらったらいいよ。カイすごいの」
「…俺はいい。自分でできる」
「そうしろ」カイが言った。
ユキナガが眉を寄せた。
リヴァが小さく笑った。
「リヴァ、自分の部屋に…」ユキナガが言いかけた。
リヴァの瞼がまた落ちかけていた。
「……おやすみ」
ユキナガの声は、少しだけ柔らかくなった。
呼吸が、またゆっくりになった。
カイがユキナガへ向き直った。
「配置図は」
「明日でいいよ」
端末を下ろした。
「ユキナガ」
ユキナガは黙っていた。床を見ていた。
カイは待った。
「……なんか、眠れなくて」
ユキナガが言った。
「お前なら起きてると思ってさ」
カイはユキナガの顔を見た。
カイが部屋へ戻った。
椅子の背に掛けていたTシャツを取り、頭から被る。
ベッドの脇へ行き、ずれていた掛け布団をリヴァの肩まで戻した。
ユキナガは黙って見ていた。
カイが廊下へ出た。
「行くぞ」
後ろ手で、静かにドアを閉める。全く音がしない。
「ここにいたら起こす」
二人は廊下を少し歩いた。
階段の手前で、カイが壁に背を預けた。
ユキナガは向かいの壁に寄った。
端末を見た。
「……会議、誰か死ぬ前提で話してた」
カイは答えなかった。
「出口二つしかなくて、車まで二百メートルあって、地下は回線も落ちる」
「ああ」
「負傷したら置いてくって、普通に言ってた」
「…ああ」
「フィンは、死んだって判断しても位置消すなって言うし」
ユキナガが笑おうとした。
口元だけが少し動いた。
「何が起きるか分かんないのに、起きた後の話だけ、やたら具体的なんだよ」
カイは黙って聞いていた。
「…しかもそんな状況に、弟を置きたくない」
カイが床を見た。
廊下の足元灯が、二人の影を壁に伸ばしていた。
「……嫌な感じする」ユキナガが言った。「せめて、リヴァだけでも日本に置いていけたら」
「出来なかった」カイが言った。
ユキナガが顔を上げた。
「…そう、なんだ」
ユキナガが息を吐いた。
少しだけ、肩が下がった。
「もし何かあったら、最悪、俺が回線切るんだって」
「そうだな」
「俺のせいで」
言葉が止まった。
カイは続きを待った。
「……誰か帰ってこないかもしれない」
「そうなる」
「…ちょっとは否定しろって」
「嘘を言っても意味がない」
ユキナガが顔を顰めた。
「お前、こういう時ほんと優しくないよな」
一拍あった。
カイが腕を組んだ。右足を揺らした。
「…戻った後は、一人にしない」
ユキナガが黙った。
カイは視線を外さなかった。
「もし俺が」ユキナガが言い淀んだ。「選択を間違えたら?」
「間違えたかどうかは、帰ってから決めればいい」
「誰か死んでても?」
「それでもだ」
ユキナガはしばらく何も言わなかった。
端末を閉じて、脇に抱えた。
「……兄ちゃんぶるなよ」
「お前よりは兄だろ」
「うざ」
カイが小さく息を吐いた。
笑ったのかどうかは、分からなかった。
「配置図は明日詰める」カイは言った。「今日は寝ろ」
「寝れたら来てない」
「……なら話せ」
ユキナガがカイを見た。
それから、隣の壁へ移動した。もう一度端末を開く。
二人の肩の間に、少しだけ隙間があった。
閉じたドアの向こうで、リヴァは眠っていた。




