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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十章「非対称の支配 ― Asymmetric Force」

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綿棒




 廊下は静かだった。


 リヴァはパジャマの裾を押さえながら、カイの部屋の前で立ち止まった。


 二回ノックする。


「カイ」


 少し間があって、ドアが開いた。


「どうした」


「綿棒ってある?」


「うん」カイが言った。


「耳かゆい」


「入れ」


 それだけ言って部屋へ戻る。


 リヴァも遠慮がちについて入った。


 カイの部屋は相変わらず物が少ない。ベッドと机、本棚。整えられた靴。壁際にはトレーニング用のダンベルが置いてあるだけだった。


 引き出しを開け、綿棒の箱を取り出す。


 一本抜き取る。


 そして振り返ると、ベッドへ腰を下ろした。


 自分の太腿を軽く叩いた。


「え」


「こっち」


 あまりにも当然の顔で言われて、リヴァは少し笑ってしまった。


 ベッドの横へ行き、そっと横になる。


 頭を預けると、カイの太腿は思ったより固かった。


「重くない?」


「重いわけがない」


 耳を覗き込みながら、髪を指先で耳の後ろへ流す。


 その手つきが驚くほど丁寧だった。


「動くな」


「はい」


 綿棒が耳へ触れる。


「……ん」


 少しくすぐったい。


 思わず肩が動く。


「だから動くな」


「だって、くすぐったい」


 カイは小さく息を吐いた。


 笑ったような、笑っていないような音だった。


 綿棒がゆっくり回る。


 耳の形に沿うように、少しずつ動かしていく。


 その慎重さが、逆に眠気を誘った。


 部屋は静かだった。


 エアコンの低い音。


「痛くないか」


「うん……」


 返事が少し遅くなった。


 カイは綿棒を替えた。


 新しい綿が耳へ触れる。


「……気持ちいい…上手い…」


「妹のをよくやっていた」


「眠くなる」


「寝るな」


「うーん……」


 リヴァの瞼が少しずつ重くなる。


「……あと何回寝たら、ローマだっけ」


「数えなくていい」


「……ん」


「俺も行く」


 リヴァはカイの服を少し握った。


 頭に添えたカイの温かい掌、耳に触れる綿。


 一定のリズム。


 全部が心地よかった。


「反対」


 カイが小声で、いつもよりゆっくり言う。


 リヴァはゆっくり顔を向けようとしたが、半分眠っていて動きが鈍い。


「……ん」


「リヴァ」


「……ねむい」


「起きろ」


「起きてる……」


 カイは小さく肩をすくめる。


 なんとかそのままリヴァの体を反対へ向けた。


 顔がカイの腹側に向いた。


「ありがと……」


 その声はほとんど音になっていなかった。


 反対の耳も同じように、ゆっくり掃除する。


 途中でリヴァの呼吸が一定になった。


 静かな寝息だった。


 カイの手が止まる。


「……リヴァ」


 返事はない。


 寝息だけが返ってきた。


 起こそうとして、やめた。


 眠る横顔を見る。


 力の抜けた睫毛。


 安心しきった寝顔。


 カイは小さく息をついた。


 リヴァの頭に手を添えて、読みかけの本に片手を伸ばした。


 リヴァは時々、小さく寝返りを打とうとして、頭を少し擦り寄せる。


 そのたびにカイは無言で頭を撫でた。


 部屋の灯りを少しだけ落とした。


 本を開いた。一ページも進まなかった。


 静かな夜だった。







 ユキナガがカイの部屋をノックした。


 ドアが開いた。


 カイが立っていた。


 スウェットパンツ姿だった。髪は乾ききっていなくて、前髪だけ少し額に落ちている。肩と脇腹の包帯は新しいものになっていた。


 上半身には何も着ていなかった。


 ユキナガが一度、カイを見た。


「……服着ろよ」


「風呂に入っていた」


「見れば分かる。廊下に出る格好じゃない」


「まだ出てないだろ」


「めんどくさ」


 ユキナガは端末を持っていた。


「…ちょっと暇?」


「何だ」


「ローマの配置図の事で」


 端末を持ち上げながら、開いたドアの向こうへ視線をやった。


 一歩入ろうとした。


 そこで止まった。


 薄暗い部屋の奥。


 カイのベッドで、リヴァが眠っていた。掛け布団を肩までかけ、淡い髪が枕の上に広がっている。


「……なんでリヴァがいるの」


「寝てる」


 ユキナガがカイを見た。


 濡れた髪。裸の上半身。新しい包帯。


 もう一度、ベッドを見る。


「……俺、邪魔した?」


 カイはユキナガを見た。


 ユキナガも目を逸らさなかった。


 一拍あった。


「部屋に来て、寝ただけだ」カイが言った。


「ふうん」


「何だ」


「何も」


 ユキナガがもう一度、リヴァの方を見た。


 カイが半歩動いた。開いていた隙間が、少し狭くなった。


「寝てるか確認しただけだろ」


「必要ない」


「は?」


 ベッドの上で、掛け布団が動いた。


 リヴァが小さく眉を寄せた。


「……カイ?」


 カイが息を吐いた。リヴァへ振り返った。


「起こしたか」


「ううん……」


 リヴァがゆっくり目を開けた。


 ドアのところにいるユキナガを見た。


「ユキナガ」


「ごめん。うるさかったよな」


「……カイに耳掃除してもらってたら、寝ちゃった」


 ユキナガが黙った。


 カイを見た。


「……耳掃除?」


「……うん」


 リヴァは枕に頬をつけたまま、少し笑った。


「部屋入って三分だった…」


 目を擦った。


「ユキナガもやってもらったらいいよ。カイすごいの」


「…俺はいい。自分でできる」


「そうしろ」カイが言った。


 ユキナガが眉を寄せた。


 リヴァが小さく笑った。


「リヴァ、自分の部屋に…」ユキナガが言いかけた。


 リヴァの瞼がまた落ちかけていた。


「……おやすみ」


 ユキナガの声は、少しだけ柔らかくなった。


 呼吸が、またゆっくりになった。


 カイがユキナガへ向き直った。


「配置図は」


「明日でいいよ」


 端末を下ろした。


「ユキナガ」


 ユキナガは黙っていた。床を見ていた。


 カイは待った。


「……なんか、眠れなくて」


 ユキナガが言った。


「お前なら起きてると思ってさ」


 カイはユキナガの顔を見た。


 カイが部屋へ戻った。


 椅子の背に掛けていたTシャツを取り、頭から被る。


 ベッドの脇へ行き、ずれていた掛け布団をリヴァの肩まで戻した。


 ユキナガは黙って見ていた。


 カイが廊下へ出た。


「行くぞ」


 後ろ手で、静かにドアを閉める。全く音がしない。


「ここにいたら起こす」


 二人は廊下を少し歩いた。


 階段の手前で、カイが壁に背を預けた。


 ユキナガは向かいの壁に寄った。


 端末を見た。


「……会議、誰か死ぬ前提で話してた」


 カイは答えなかった。


「出口二つしかなくて、車まで二百メートルあって、地下は回線も落ちる」


「ああ」


「負傷したら置いてくって、普通に言ってた」


「…ああ」


「フィンは、死んだって判断しても位置消すなって言うし」


 ユキナガが笑おうとした。


 口元だけが少し動いた。


「何が起きるか分かんないのに、起きた後の話だけ、やたら具体的なんだよ」


 カイは黙って聞いていた。


「…しかもそんな状況に、弟を置きたくない」


 カイが床を見た。


 廊下の足元灯が、二人の影を壁に伸ばしていた。


「……嫌な感じする」ユキナガが言った。「せめて、リヴァだけでも日本に置いていけたら」


「出来なかった」カイが言った。


 ユキナガが顔を上げた。


「…そう、なんだ」


 ユキナガが息を吐いた。


 少しだけ、肩が下がった。


「もし何かあったら、最悪、俺が回線切るんだって」


「そうだな」


「俺のせいで」


 言葉が止まった。


 カイは続きを待った。


「……誰か帰ってこないかもしれない」


「そうなる」


「…ちょっとは否定しろって」


「嘘を言っても意味がない」


 ユキナガが顔を顰めた。


「お前、こういう時ほんと優しくないよな」


 一拍あった。


 カイが腕を組んだ。右足を揺らした。


「…戻った後は、一人にしない」


 ユキナガが黙った。


 カイは視線を外さなかった。


「もし俺が」ユキナガが言い淀んだ。「選択を間違えたら?」


「間違えたかどうかは、帰ってから決めればいい」


「誰か死んでても?」


「それでもだ」


 ユキナガはしばらく何も言わなかった。


 端末を閉じて、脇に抱えた。


「……兄ちゃんぶるなよ」


「お前よりは兄だろ」


「うざ」


 カイが小さく息を吐いた。


 笑ったのかどうかは、分からなかった。


「配置図は明日詰める」カイは言った。「今日は寝ろ」


「寝れたら来てない」


「……なら話せ」


 ユキナガがカイを見た。


 それから、隣の壁へ移動した。もう一度端末を開く。


 二人の肩の間に、少しだけ隙間があった。


 閉じたドアの向こうで、リヴァは眠っていた。



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