ローマ作戦会議
東京拠点、共用スペース 午前七時二十分。
共用スペースには、味噌汁の匂いがしていた。
リヴァは茶碗を両手で持っていた。カイは隣で黙って焼き鮭をほぐしている。
フィンだけが妙に機嫌よく、紅茶のカップを持っていた。
アオイは、テーブルの端に座っていた。
服は昨日と同じように整っていた。箸もまっすぐ置かれていた。
ただ、目の下に薄い影があった。
ユキナガが味噌汁をアオイに手渡した。
「モブ、寝れた?」
「あ、ありがとうございます」
アオイは口を開きかけて、少しだけ黙った。
「……あれは、なんですか」
「どれ?」
「音楽がずっとかかってて……」
リヴァが顔を上げた。
「午前三時過ぎまで、低い音楽が鳴っていました」アオイが言った。
フィンは紅茶を飲みながら、楽しそうに目を細めた。
「苦情言った?」
「……撃たれたら怖いじゃないですか」
リヴァが小さく笑った。
「カラム、寝れないんだと思う」
アオイは一度、口を閉じた。
「……そうですか」
その時、硝子戸が開いた。
カラムだった。
長い髪が少し乱れていた。眠そうなアンバーの目が、部屋をゆっくり見た。
アオイの箸が止まった。
カラムは戸口で少しだけ首を傾け、共用スペースに入ってきた。
「おはよ、カラム」リヴァが言った。
カラムはリヴァを見た。それから、フィンを見た。
フィンがにこにこしていた。
カラムが止まった。
「アオイ、なんか言うことあるんじゃない?」
「いや……ないです……」
カラムは黙ってアオイを見た。
アオイも一度は視線を合わせたが、すぐに味噌汁の椀へ落とした。眉が少し寄った。
カラムはそのまま、フィンの近くの椅子に座った。大きな体が椅子に収まると、テーブルの影が一段濃くなった。
アオイは黙って味噌汁を飲んだ。
その時、アルノが端末を持って入ってきた。
「おはようございます。ローマのブリーフィングを行います。九時、会議室。遅れないように」
カイが箸を置いた。フィンも紅茶のカップを置いた。リヴァは茶碗を両手で持ったまま、アルノを見た。
アオイは箸を揃えて置いた。
「了解です」
味噌汁の椀から、湯気がまだ立っていた。
会議室。午前九時。
長机の中央に、アルノが端末を置いた。
リヴァはカイの隣に座っていた。
カイは左肩を庇うように、椅子をわずかに後ろへ引いている。ユキナガは椅子の背に体を預け、フィンはその隣で紅茶のカップをテーブルに置いた。
ヴィクトルは壁際に立っていた。
アオイはいちばん端に座っている。
「始めます」
アルノが端末を操作した。
フィンの口元から、朝の機嫌のよさが消えた。背もたれから背が離れた。
「Operation FORUM。ローマで行われる非公式会合の中立警備です。アルカは交渉四勢力のいずれにも属さず、会場全体の安全を確保します」
壁に、黄褐色の石造りの邸宅が映った。
縦長の窓が並び、中央に四角い中庭がある。正面扉の上には、擦れた紋章が残っていた。
「会場はローマ旧市街の私有邸宅。十六世紀建築。地上三階、地下二区画。協議は地下一階の会議室で行われます」
「地下ってことは窓も無い?」フィンが言った。
「ありません。壁厚は最大1.2メートル。無線も安定しません」
「出入口は」
「屋内階段と搬出口。二つです」
画面が切り替わった。
ローマ旧市街の地図だった。
邸宅の周囲を、細い路地が複雑に走っている。広場。石段。教会。向かいの建物。その奥に鐘楼が見えた。
「地下の退路は少ない。地上へ出た後は逆です」
アルノが地図を拡大した。
「路地、石段、建物の通用口。侵入経路も退避経路も多い。車両は正面まで入りません。退避車両までは最短で約200メートルです」
「面倒だね」フィンが言った。
リヴァが画面を見た。
「高いところも多い」
「向かいの建物と北側の鐘楼。屋根も三方向から見えます」
画面に、五つの名称が並んだ。
「交渉に参加するのは四勢力です」
アルノが順に表示した。
「北アフリカ系の資源ブローカー。東欧の軍事組織の代理人。海運複合企業。北欧の資源開発組合、ノルドハウン資源連盟です」
ページを切り替えた。
「これとは別に、聖座周辺と関わりのある財団が主催側として入ります。交渉には参加しません」
「VRGは」ヴィクトルが言った。
「正式な参加者には含まれていません。ただし、ノルドハウンと海運複合企業の双方に取引記録があります。間接的な関与は想定しています」
「レオンハルト本人は」カイが言った。
「参加者名簿にはありません。ローマ入りを示す記録も、現時点では確認されていません」
ヴィクトルが画面を見た。
ノルドハウン資源連盟の欄で、視線が一度止まった。
すぐに外した。
「ヴィクトル、ユキナガ。念のため、会合までに代表者の情報を再度洗ってください」
「了解」
ユキナガは、その動きを見ていた。
「聖座周辺って」ユキナガが言った。「バチカン?」
「バチカンが、自分でバチカンと名乗ると思うか?」ヴィクトルが言った。
「今回の名義は文化財保護財団です」アルノが言った。
「ほらな」
画面に、鍵と天秤を組み合わせた紋章が映った。
「財団は、中立の記録機関として入ります」
「記録?」リヴァが言った。
「誰が何を受け入れ、誰が拒否したかを残します。合意文書は、記録官の認証をもって発効します」
フィンが腕を組んだ。
「……もしその人が死んだら?」
「認証が行われないため、会合は無効です」
リヴァは画面を見た。
「一番狙われるってこと?」
「その理解であっています」
フィンが紅茶を一口飲んだ。
「議題は?」
「資源、軍需、海運、資金経路の再編です」
「仲良く分ける話じゃないね」
「誰を残し、誰を切るかを決めます」
ヴィクトルが腕を組んだ。
「大人しく終わると思ってるのか」
「その前提では組みません」
カイが画面を見たまま言った。
「どこにつく」
「どこにもつきません」
アルノが全員を見た。
「今回、味方はいません」
部屋が静かになった。
フィンの指が、紅茶のカップから離れた。
「交戦に移行した後の識別は」
「代表者と記録官の位置は追跡します」
「撃つ前に迷うね」
「はい」
フィンは画面を見た。
「向こうも迷う。それは使える」
一拍あった。
「でも、味方がいないのと、識別できないのは別だ」
アルノが画面を切り替えた。
「申告上の参加者は二十二名。代表、補佐、警護、通訳を含みます」
「会場側の人員は?」ユキナガが言った。
「使用人と現地警備を含めて八名前後です。建物内は最大三十名程度です」
「武装は」カイが言った。
「十名から十二名を想定します」
アオイが顔を上げた。
「こちらの実働は?」
「東京から入る実働は、私、カイ、フィン、アオイの四名。リヴァは外周狙撃。ユキナガは通信管制。ヴィクトルは参加者側へ入ります」
アルノが画面の端に、もう一人の名前を表示した。
「現地では、ヨーロッパ支部のジュリオ・ヴァレーリが屋内実働に合流します」
「知ってる人?」リヴァが言った。
「私は資料上でしか知りません」
ヴィクトルが顎に手を当てた。
「……」
アオイは画面を見た。
「……少なくないですか」
「相手は一つの部隊ではありません。互いを警戒しています」
「負傷者が一人出れば、運ぶ側も抜けます」アオイが言った。
フィンがアオイを見た。
「そうだね」
アオイはアルノを見た。
「警護対象と味方が同時に負傷したら」
「警護対象を優先します」
「その後、味方を回収できない場合は」
「置いて退避します」
アオイはすぐ頷いた。
「了解です」
フィンはアオイから視線を外した。
カイが目を細めてアオイを見た。
「優先保護対象は四勢力の代表と、財団の記録官です。記録官を最優先とします」
アルノが平面図を表示した。
「私は会場内で各勢力との調整を担当します。カイは記録官の近接警護。フィンは外周。リヴァは外周の観測、狙撃支援、アオイは機動です」
「ジュリオは?」ヴィクトルが言った。
「詳細な配置と退避経路は、現地確認後に決定します」
「撤収条件は」フィンが言った。
「代表と記録官の安全区画への退避が確定した時点です」
アルノは眼鏡を上げた。
「指揮は私が取ります。第二指揮はフィンです。私との通信が切れた場合は、指揮権は彼へ移します」
アオイがフィンを見た。
「全員の位置情報は、皆に入る?」
「入れます」
「最後に受信した位置と時刻も残せる?ユキナガ」
ユキナガが顔を上げた。
「できる」
「通信が落ちても消さないようにして」
「消えないように組むよ」
「ううん」
フィンが首を振った。ユキナガを見た。
「死んだと判断しても消さないで」
部屋が静かになった。
ユキナガの指が、端末の縁で止まった。
「……わかったよ」
各勢力の代表者と随員数が並んだ。
「それと、ヴィクトルには参加者側へ入ってもらいます」
ヴィクトルがアルノを見た。
「地下で交戦が始まった場合は、内部制圧にも入ってください」
「やっぱり撃ち合いじゃないか」
「可能性の話です」
「帯域が落ちたら」ユキナガが言った。
「残す回線を選んでください」
ユキナガの指が止まった。
「俺が?」
「はい」
「アルノとの回線も?」
「必要なら切って構いません」
ユキナガは一度、ヴィクトルを見た。
ヴィクトルは画面を見ていた。
「参ったな」ヴィクトルが頭をかいた。
フィンがヴィクトルを見た。
「コアから、頭数に入れるって言われてたじゃん」
「実働とは聞いてない」
「次に進みます」
邸宅周辺の航空写真が映った。
「リヴァは外部から見つからないことを最優先に。現地でジュリオと地点を決めます」
赤い線が、正面通り、中庭、二階の窓、屋根、裏路地の入口を横切った。
「能力は使わせない」カイが言った。
「その前提で組んでいます」
「惣一から能力を使えって指示が来たら?」フィンが言った。
「従います」
フィンが首を傾げた。
「止めないの?」
「使用判断は我々の権限ではありません」
フィンが小さく息を吐いて、紅茶のカップを持った。
「もし使ったら」カイが言った。「狙撃が一枚落ちるかもしれない。スポッターもいない。無防備になる」
「そのためにも、見つからないことを優先に狙撃地点を決めます」
「リヴァがもし動けなくなったら――」ユキナガが言った。
「残存戦力で続行を判断します」
リヴァは画面を見ていた。
「わかった」
「リヴァ」カイが言った。
「指示を待つ」
リヴァの言葉に、全員が一瞬止まった。
「……はい」アルノが言った。
次に、大学施設の写真が表示された。
「現地では、通信設備と会場の観測系統に外部協力を受けます」
「観測系統?なにそれ」ユキナガが言った。
「会場には行動観測システムがあります。音声、視線、心拍、発話の間隔を収集します」
「会議する人間を丸ごと測るの」
「表向きは、紛争調停と対話支援の研究です」
ヴィクトルが笑った。
「表向きは、な」
「開発したのは、ローマ・ラ・サピエンツァ大学の研究室です」
アルノが名前を表示した。
ルカ・トウマ。
「……げ」ユキナガが言った。
「ユキナガの……もしかして」リヴァが言った。
「双子か」ヴィクトルが言った。
ユキナガがため息をついた。
「研究分野は認知神経科学・行動経済学。ストレス下の意思決定と集団交渉の予測です」
「なんでルカ」
「すでに研究室が会場設備に関わっています。彼は管理権限を持っています。行動観測の解析は、研究室側が担当します」
「俺は?」
「通信、映像、入退室制御です」
「だからって裏の仕事に入れるの。あいつのキャリアは」
「本人から協力の申し出がありました。三十二件のメールと共に」
「は?なんでアルノの連絡先知ってんの」
アルノが止まった。
間があった。
「……あなたが伝えたのでは」
ユキナガが椅子に座りなおした。
「家族とも無断連絡取るなって、アルカの規則だろ」
「……」
「アルカの情報管理が負けたな」ヴィクトルが笑った。
アルノが眼鏡を上げた。
「笑い事ではありません」
「でもユキナガの双子なんだろ」ヴィクトルが言った。「一卵性双生児」
「それがなんです」
「そのくらいできる天才ってことだろ」
「……」
リヴァが小さく笑った。
「惣一は、知ってんの」ユキナガが顔を上げた。
「承認しました」
ユキナガが画面を見た。
「……なんでだよ」
「研究室はすでに会合側へ設備を提供しています」
アルノが続けた。
「放置しても巻き込まれる。見える位置に置く。惣一はそう判断しました」
「勝手に盤面へ乗せんなよ」
「だから、本人が乗る気です」
「それが一番面倒なんだよ」
「一旦、持ち帰らせてください。セキュリティについても再考します」アルノが言った。
アルノは資料を閉じた。息を吐いた。
「出発は今日から一週間後。ローマ到着後、さらに七日間の準備期間を取ります。会合は今日から二週間後です。以上」
全員が立ち始めた。
ユキナガの端末が震えた。
画面に、ルカの名前が出ていた。
ユキナガは切った。
一秒後、また鳴った。
「……気持ち悪りい」
端末を伏せた。また通知がなった。
ヴィクトルが扉に手をかけた。
「アルノ」
「何ですか」
「俺の身分は」
「ノルドハウン資源連盟の外部顧問です」
ヴィクトルが止まった。
「随分と嫌なところへ入れたな」
アルノは何も言わなかった。
扉が閉まった。




