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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十章「非対称の支配 ― Asymmetric Force」

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曇りのないワイングラス




 東京拠点 ユキナガのバー 二十三時二十分。



 歓迎会は終わっていた。


 ユキナガはカウンターの内側にいた。グラスを洗っていた。


 カウンターの端に、ヴィクトルが残っていた。Sobranieを一本指に挟んでいた。前のグラスには、赤ワインが少し残っていた。


「残ってるなら、片付け手伝ってよ」ユキナガが言った。


「客だからな」


「さっき自分でボトル出してたじゃん」


「あれは補充だ」


 ユキナガがグラスを伏せて置いた。シンク脇のタオルで手を拭いた。


 ヴィクトルが煙を吐いた。


「ローマの部屋割り、聞いたか」ヴィクトルが言った。


「部屋?」


「最上階は二寝室のスイートだ。リヴァとカイを入れる」


 ユキナガの手が止まった。


「は?」


「その下の階に個室だ」


「待って。なんでリヴァとカイだけ一緒なの」


「寝室は別だ」


「そういうこと聞いてない」


 ヴィクトルがグラスを回した。


「外からスイートに入る扉は一つ。共有のサロンを通らなければ、リヴァの寝室には届かない」


「カイを前室に置くってこと?」


「そうだ」


「誰が決めたの」


「惣一だ」


 ユキナガが眉を寄せた。


「……リヴァが狙われると思ってる?」


「思っていなければ、コアがわざわざ降りてきて、アンカーを名指しで連れていかない」


 水の音だけが続いた。


「退避路は取った。電源と監視系統も、一般区画から切り離せる」ヴィクトルが言った。


「通信と監視は別のスイートへ集める。モニター、傍受機材、予備電源。夜間も人を置く」


「それ、俺でしょ」


「いや」


 ヴィクトルが赤ワインを飲んだ。


「お前と俺だ」


 ユキナガの手が止まった。


「は?なんで」


「機材の管理、一人でやる気か」


 ユキナガがヴィクトルを見た。


「俺とヴィクトル、一緒に泊まるってこと?」


「泊まる」


「寝室は別だ」


「その説明、今日二回目だけど。誰もそこ心配してない」


 ユキナガはため息をついた。


「……なんで俺なの」シェイカーを流しに置いた。「ヴィクトル、絶対意図があるでしょ」


 ヴィクトルが煙を吐いた。


 グラスの底の赤ワインを、一度回した。


「お前、歓迎会で何を見てた」


「え」


「あの新入りだ」


 ユキナガが少し考えた。


「……アオイ?酒弱そうだったけど」


「そうじゃない」ヴィクトルが言った。「あいつは何を一番見てた」


 ユキナガが止まった。


「……フィンじゃないの。旧知だし。あとカラムも怖がってた。リヴァにも何回か視線が行ってた」


「違う」ヴィクトルが言った。「表面の話じゃない」


「じゃあ何だよ」


 ヴィクトルがグラスを置いた。



「アオイが一番気にしてたのは、お前だ。ユキナガ」



 ユキナガの手が、布の上で止まった。


「あいつは、お前が端末を触るたびに見ていた。アルノがローマの話をした時も、カイが入ってきた時もだ」


「……」


「この拠点で誰が情報の入口と出口を握っているか、初日で探してた」ヴィクトルが言った。「元警察だ。まず、誰が情報を握っているかを見る」


 ヴィクトルが少し笑った。


「お前はよく見てる。人の顔も、誰が嘘をついているかも分かる。だが、自分が盤面のどこに置かれているかは見えていない」


 ユキナガが眉を寄せた。


「それを若さで片づけるには惜しい」


 ヴィクトルは煙草を灰皿の縁に置いた。


「お前はローマで、何の仕事をする」


「……いつも通りだよ」


「お前が開けた扉から、人が入る。お前が閉じた扉の向こうで、人が死ぬ」


 ユキナガの顔から、少し表情が消えた。


「脅してんの」


「慣らしてる」


「何に」


「選ぶことにだ」


 ユキナガが布を置いた。


「アルノの指示を待てばいいじゃん」


「回線が生きていればな」


「その回線を生かすのが俺の仕事だろ」


「切られた後の話をしている」


 ヴィクトルの声は変わらなかった。


「惣一が、わざわざここまで降りてきた」


 ユキナガは黙った。


「アンカーと名指しして、ローマへ連れていくと言った」ヴィクトルが続けた。「リヴァの部屋割りまで口を出してる。何が起きてもおかしくない」


「……起きるの」


「わからん」


「答えになってない」


「正確な答えだ」


 ヴィクトルが椅子から立った。


 カウンターを回り込み、内側へ入った。


 ユキナガは止めなかった。


「誰が何を恐れているか。誰が誰を置いていけないか。誰が命令を破るか。誰が、それでも戻ってくるか」


 ユキナガの前で止まった。


 ヴィクトルが至近距離で見下ろした。


「全部見ろ」


 それから少し屈み、逃げられない高さまで目線を下げた。


「……近いんだけど」


「目を逸らすな」


 ヴィクトルが視線を合わせたまま、シンク脇のタオルを取った。


 ユキナガの手首に残っていた水滴を拭いた。


 二人とも、一度も視線をそちらに向けなかった。


「………」


 ユキナガは手を引かなかった。


「俺のことは一番よく見ておけ」


「…なんで」


 ペールグリーンの瞳を、ユキナガが見た。瞳の外側に茶色が混じっていた。


「俺は嘘が上手い」


「自分で言うんだ」


 ユキナガは、わざと笑った。


 意識的に視線を外さず耐えていた。瞳が少しだけ揺れてた。


「お前がまだ見抜けていないから言ってる」


 ようやくヴィクトルが離れた。


 ヴィクトルは布を折った。


 ユキナガの手の中へ戻した。


「俺の許可なく、俺との回線を切るな」


「……俺の回線なんだけど」ユキナガが言った。


「俺の位置情報も落とすな」


 ユキナガのすぐ横に立ったまま、赤ワインを飲み干した。


 ヴィクトルは空のグラスをシンクへ置いた。スポンジを取り、自分で洗い始めた。


「ローマは荒れる。指示を待つ人間から死ぬ」


「俺は…別に指示待ちじゃない」


「そうか」


 ユキナガは黙った。


 ヴィクトルは水を止めた。


「お前の仕事は、回線を繋ぐことじゃない」ヴィクトルが言った。「誰に、どの回線を残すか決めることだ」


 ユキナガが少し眉を寄せた。


 ヴィクトルがユキナガの肩にかかっていたトーションを取って、グラスを拭き始めた。


「……なんで俺なんだよ」


 一度ヴィクトルがグラスを光にかざした。


 間があった。


「お前なら、必要な時に俺を切れるからだ」ユキナガの方は見なかった。


 ユキナガの喉が、わずかに動いた。


「…どういう意味」


 ヴィクトルは答えなかった。拭いてからもう一度、光にかざした。


「勝手に選ぶなよ」ユキナガが言った。


「もう選んだ」


 トーションとワイングラスをカウンターに置いた。


 Sobranieを灰皿から拾って、火を消した。


「ローマだ。外で遊ぶ分には文句は言わん」


「ヴィクトルがいるなら呼ばない」


「自信がないか」


「逆。二人とも俺見たら面倒だろ」


 ヴィクトルが少し笑った。


「ホストは辞めたんじゃなかったのか」


「顔は辞められないから」


「随分言うな」


 ヴィクトルが踵を返して階段の方へ歩き出した。


 ユキナガは、その背中を見た。


「ヴィクトル」


 ユキナガが呼んだ。


 ヴィクトルが足を止めた。


「俺が、部屋変えてって言ったら」


「変えない」


「機材を別に置くって言ったら」


「運ばせない」


「アルノに言ったら?」


「先に話は通してある」


 ユキナガが黙った。


 ヴィクトルが振り返った。


「また、盤面が見えてなかったな」


「……くそ」


「いい返事だ」


 ヴィクトルは階段を上がっていった。


 足音が遠くなった。


 ユキナガは、カウンターに一人残った。


 ヴィクトルが拭いたグラスを手に取った。


 照明にかざした。


 一点の曇りもなかった。


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