曇りのないワイングラス
東京拠点 ユキナガのバー 二十三時二十分。
歓迎会は終わっていた。
ユキナガはカウンターの内側にいた。グラスを洗っていた。
カウンターの端に、ヴィクトルが残っていた。Sobranieを一本指に挟んでいた。前のグラスには、赤ワインが少し残っていた。
「残ってるなら、片付け手伝ってよ」ユキナガが言った。
「客だからな」
「さっき自分でボトル出してたじゃん」
「あれは補充だ」
ユキナガがグラスを伏せて置いた。シンク脇のタオルで手を拭いた。
ヴィクトルが煙を吐いた。
「ローマの部屋割り、聞いたか」ヴィクトルが言った。
「部屋?」
「最上階は二寝室のスイートだ。リヴァとカイを入れる」
ユキナガの手が止まった。
「は?」
「その下の階に個室だ」
「待って。なんでリヴァとカイだけ一緒なの」
「寝室は別だ」
「そういうこと聞いてない」
ヴィクトルがグラスを回した。
「外からスイートに入る扉は一つ。共有のサロンを通らなければ、リヴァの寝室には届かない」
「カイを前室に置くってこと?」
「そうだ」
「誰が決めたの」
「惣一だ」
ユキナガが眉を寄せた。
「……リヴァが狙われると思ってる?」
「思っていなければ、コアがわざわざ降りてきて、アンカーを名指しで連れていかない」
水の音だけが続いた。
「退避路は取った。電源と監視系統も、一般区画から切り離せる」ヴィクトルが言った。
「通信と監視は別のスイートへ集める。モニター、傍受機材、予備電源。夜間も人を置く」
「それ、俺でしょ」
「いや」
ヴィクトルが赤ワインを飲んだ。
「お前と俺だ」
ユキナガの手が止まった。
「は?なんで」
「機材の管理、一人でやる気か」
ユキナガがヴィクトルを見た。
「俺とヴィクトル、一緒に泊まるってこと?」
「泊まる」
「寝室は別だ」
「その説明、今日二回目だけど。誰もそこ心配してない」
ユキナガはため息をついた。
「……なんで俺なの」シェイカーを流しに置いた。「ヴィクトル、絶対意図があるでしょ」
ヴィクトルが煙を吐いた。
グラスの底の赤ワインを、一度回した。
「お前、歓迎会で何を見てた」
「え」
「あの新入りだ」
ユキナガが少し考えた。
「……アオイ?酒弱そうだったけど」
「そうじゃない」ヴィクトルが言った。「あいつは何を一番見てた」
ユキナガが止まった。
「……フィンじゃないの。旧知だし。あとカラムも怖がってた。リヴァにも何回か視線が行ってた」
「違う」ヴィクトルが言った。「表面の話じゃない」
「じゃあ何だよ」
ヴィクトルがグラスを置いた。
「アオイが一番気にしてたのは、お前だ。ユキナガ」
ユキナガの手が、布の上で止まった。
「あいつは、お前が端末を触るたびに見ていた。アルノがローマの話をした時も、カイが入ってきた時もだ」
「……」
「この拠点で誰が情報の入口と出口を握っているか、初日で探してた」ヴィクトルが言った。「元警察だ。まず、誰が情報を握っているかを見る」
ヴィクトルが少し笑った。
「お前はよく見てる。人の顔も、誰が嘘をついているかも分かる。だが、自分が盤面のどこに置かれているかは見えていない」
ユキナガが眉を寄せた。
「それを若さで片づけるには惜しい」
ヴィクトルは煙草を灰皿の縁に置いた。
「お前はローマで、何の仕事をする」
「……いつも通りだよ」
「お前が開けた扉から、人が入る。お前が閉じた扉の向こうで、人が死ぬ」
ユキナガの顔から、少し表情が消えた。
「脅してんの」
「慣らしてる」
「何に」
「選ぶことにだ」
ユキナガが布を置いた。
「アルノの指示を待てばいいじゃん」
「回線が生きていればな」
「その回線を生かすのが俺の仕事だろ」
「切られた後の話をしている」
ヴィクトルの声は変わらなかった。
「惣一が、わざわざここまで降りてきた」
ユキナガは黙った。
「アンカーと名指しして、ローマへ連れていくと言った」ヴィクトルが続けた。「リヴァの部屋割りまで口を出してる。何が起きてもおかしくない」
「……起きるの」
「わからん」
「答えになってない」
「正確な答えだ」
ヴィクトルが椅子から立った。
カウンターを回り込み、内側へ入った。
ユキナガは止めなかった。
「誰が何を恐れているか。誰が誰を置いていけないか。誰が命令を破るか。誰が、それでも戻ってくるか」
ユキナガの前で止まった。
ヴィクトルが至近距離で見下ろした。
「全部見ろ」
それから少し屈み、逃げられない高さまで目線を下げた。
「……近いんだけど」
「目を逸らすな」
ヴィクトルが視線を合わせたまま、シンク脇のタオルを取った。
ユキナガの手首に残っていた水滴を拭いた。
二人とも、一度も視線をそちらに向けなかった。
「………」
ユキナガは手を引かなかった。
「俺のことは一番よく見ておけ」
「…なんで」
ペールグリーンの瞳を、ユキナガが見た。瞳の外側に茶色が混じっていた。
「俺は嘘が上手い」
「自分で言うんだ」
ユキナガは、わざと笑った。
意識的に視線を外さず耐えていた。瞳が少しだけ揺れてた。
「お前がまだ見抜けていないから言ってる」
ようやくヴィクトルが離れた。
ヴィクトルは布を折った。
ユキナガの手の中へ戻した。
「俺の許可なく、俺との回線を切るな」
「……俺の回線なんだけど」ユキナガが言った。
「俺の位置情報も落とすな」
ユキナガのすぐ横に立ったまま、赤ワインを飲み干した。
ヴィクトルは空のグラスをシンクへ置いた。スポンジを取り、自分で洗い始めた。
「ローマは荒れる。指示を待つ人間から死ぬ」
「俺は…別に指示待ちじゃない」
「そうか」
ユキナガは黙った。
ヴィクトルは水を止めた。
「お前の仕事は、回線を繋ぐことじゃない」ヴィクトルが言った。「誰に、どの回線を残すか決めることだ」
ユキナガが少し眉を寄せた。
ヴィクトルがユキナガの肩にかかっていたトーションを取って、グラスを拭き始めた。
「……なんで俺なんだよ」
一度ヴィクトルがグラスを光にかざした。
間があった。
「お前なら、必要な時に俺を切れるからだ」ユキナガの方は見なかった。
ユキナガの喉が、わずかに動いた。
「…どういう意味」
ヴィクトルは答えなかった。拭いてからもう一度、光にかざした。
「勝手に選ぶなよ」ユキナガが言った。
「もう選んだ」
トーションとワイングラスをカウンターに置いた。
Sobranieを灰皿から拾って、火を消した。
「ローマだ。外で遊ぶ分には文句は言わん」
「ヴィクトルがいるなら呼ばない」
「自信がないか」
「逆。二人とも俺見たら面倒だろ」
ヴィクトルが少し笑った。
「ホストは辞めたんじゃなかったのか」
「顔は辞められないから」
「随分言うな」
ヴィクトルが踵を返して階段の方へ歩き出した。
ユキナガは、その背中を見た。
「ヴィクトル」
ユキナガが呼んだ。
ヴィクトルが足を止めた。
「俺が、部屋変えてって言ったら」
「変えない」
「機材を別に置くって言ったら」
「運ばせない」
「アルノに言ったら?」
「先に話は通してある」
ユキナガが黙った。
ヴィクトルが振り返った。
「また、盤面が見えてなかったな」
「……くそ」
「いい返事だ」
ヴィクトルは階段を上がっていった。
足音が遠くなった。
ユキナガは、カウンターに一人残った。
ヴィクトルが拭いたグラスを手に取った。
照明にかざした。
一点の曇りもなかった。




