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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十章「非対称の支配 ― Asymmetric Force」

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Highlight





 東京拠点 深夜二時十一分。



 拠点の灯りは、廊下の足元灯だけになっていた。


 リヴァは水色のキャミソールの上に白のカーディガンを羽織り、素足で廊下を歩いた。


 惣一の部屋の前まで来て、ノックせずにしばらく立っていた。


 カイは、まだ戻らない。


 手首の跡は、完全に消えていた。


 リヴァは一度だけ目を閉じてから、ノックした。


「入れ」


 すぐに惣一の声がした。


 扉を開けた。


 惣一は奥の椅子で、低い灯りの下、書類に目を落としていた。墨紺のシルクのパジャマを着ていた。


 卓の灰皿に、吸いさしのHighlightが一本、短くなって煙を立てていた。指には次の一本を挟んでいた。顔は上げなかった。


「なんだ」


 リヴァは扉の内側に立ったまま、少し黙っていた。


「私がいる理由って、何」


 惣一が、書類をめくる手を止めた。指の一本を口にくわえ、煙草に火が点いた。


「アンカーだからだ」


 考える間がなかった。煙を横に吐いた。書類から目線が動かなかった。


「それだけ?」


「それ以外に、何がいる」


 惣一が、初めて顔を上げた。


 リヴァの肩から、力が抜けた。


「……役に立つなら、いい」


「……」


 惣一が立ち上がった。


 リヴァはカーディガンの肩を落とし、一歩前に出た。


 顎を少し上げ、目を閉じた。


 惣一は、くわえていた煙草を灰皿の縁に置いた。


「目、開けろ」


 低かった。


 リヴァが目を開けた。


 惣一は近づかなかった。


 低い灯りの向こうから、リヴァを見ていた。


「身体で、何を買うつもりだ」


 リヴァの唇が、少し開いた。


「……何も」


「嘘をつけ」


 惣一は表情を変えなかった。


「俺の機嫌を取って、何を守る」


 リヴァの肩が、わずかに動いた。


「俺の目を、あいつらから逸らしに来たか」


 リヴァの視線が落ちた。


「まだあるだろ」


 リヴァが顔を上げた。


 しばらく、何も聞こえなかった。


 灰皿の煙草から、細い煙が上がっていた。


「交渉しにきたなら、最後までやれ」


 リヴァは息が詰まった。


 少し止まって、言った。


「……私のこと」リヴァが言った。「知ってることがあるなら、教えてほしい」


 惣一が一歩踏み出した。


「結構」


 また一歩。


 足音を聞いて、呼吸が不規則に音を立てた。


「抱かれれば、教えてもらえると思ったか」


 リヴァは答えなかった。


 惣一が目の前で止まった。


「随分、安く見られたもんだな」


 リヴァの瞳が揺れた。惣一を見上げた。


 惣一の手が上がり、リヴァの顎を持った。


 親指が、頬に触れた。


「身体ひとつで買えるのは、今夜の俺だけだ」


「……」


「あいつらをどうするかも、お前について俺が知っていることを話すかも、俺が決める」


 リヴァの肩から、力が抜けた。


 期待が消えた。


 それでも、カーディガンを拾わなかった。


 惣一は数秒、リヴァを見た。


 間があった。


 リヴァはもう一歩近づいて、惣一の胸元へ手を置いた。


 パジャマ越しに、指が触れた。


 惣一がその手首を取った。


 リヴァの手は、氷のように冷えていた。


「ちゃんと言え」


「……ここに、いたい」


「何のために」


 リヴァの呼吸が浅くなった。


「わからない」


 惣一は目を細めた。


 リヴァの手を離した。


 その手を、今度はリヴァの腰へ回した。


「分からないまま来たことだけは、忘れるな」


 引き寄せられ、リヴァの額が惣一の胸に触れた。


 リヴァは動かなかった。


 惣一はそれを見ていた。


「そうやって生きてきたか」


 リヴァは答えなかった。


「今夜は誰も守るな」


 惣一の指が、リヴァの顎を上げた。


「見ろ」


 リヴァが惣一を見た。


「役に立つ顔をするな」


 惣一はリヴァを体に収めながら、壁のスイッチへ手を伸ばした。


「それを決めるのは俺だ」


 部屋が暗くなった。


 足元灯の余りだけが、床を這っていた。



 今度は、緩く導いた。


 惣一の影が、視界の上に落ちていた。


 古い傷だけがいくつか残っていた。他に何もない、綺麗な肌だった。




 リヴァは手を惣一の肩へ回した。


 顎が上がり、目を閉じた。


「目、開けろ」


 リヴァは動かなかった。


 惣一の手が、リヴァの頬を掴んだ。


「開けろ」


 少し遅れて、目が開いた。


 焦点が合っていなかった。


 惣一はその目を見た。


「……あの野郎」


 低かった。


 リヴァが瞬いた。


 惣一はリヴァの頭上へ手を伸ばし、スイッチを押した。


 小さな明かりが灯った。


 リヴァの焦点が、ゆっくり戻った。


「見えるか」


「……うん」


「誰がいる」


 リヴァは惣一の顔を見た。


「コア」


「名前を言え」


「惣一」


 惣一は一度だけ目を閉じた。


「そうだ」


 惣一の親指が、リヴァの目尻を一度撫でた。


「俺を、そいつの代わりにするな」


 リヴァの呼吸が止まった。


「そいつって、誰」


 惣一は低く息を吐いた。


「今は俺の言う通りにしろ」


 リヴァは惣一を見ていた。


 秒針が鳴っていた。


 小さな明かりの下、卓の灰皿で、吸われないままのHighlightが灰になっていた。






 扉が開いた。


 リヴァが廊下に出た。カーディガンを肩で羽織り直していて、髪が片側だけ乱れていた。


 扉が背後で閉まった。


 廊下の突き当りにフィンがいた。壁に背を預けていた。


 リヴァが惣一の部屋から出てきた。


 フィンは乱れた髪を見た。


 リヴァが顔を上げる前だった。


 眠そうな、退屈な顔をするのに、一秒もかからなかった。


 リヴァが顔を上げた。


「……フィン」


「ん」フィンは言った。「眠れなくて」


「そっか」


「リヴァも?」


「……うん」


「早く寝なよ」フィンが言って、あくびを一つした。本物に見えるあくびだった。


 フィンが壁から背を離し、リヴァの横を通った。すれ違う時、足を止めなかった。


 煙草の匂いが違っていた。フィンは気づかないふりをした。


 リヴァが自分の部屋の方へ歩いていった。素足の音が、遠ざかった。


 フィンは惣一の部屋の扉を見た。


 壁の方を向いて、額を付けた。


 一度だけ拳で、壁を叩いた。


 拳の痛みだけが残った。


 音は、誰にも届かなかった。

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