Highlight
東京拠点 深夜二時十一分。
拠点の灯りは、廊下の足元灯だけになっていた。
リヴァは水色のキャミソールの上に白のカーディガンを羽織り、素足で廊下を歩いた。
惣一の部屋の前まで来て、ノックせずにしばらく立っていた。
カイは、まだ戻らない。
手首の跡は、完全に消えていた。
リヴァは一度だけ目を閉じてから、ノックした。
「入れ」
すぐに惣一の声がした。
扉を開けた。
惣一は奥の椅子で、低い灯りの下、書類に目を落としていた。墨紺のシルクのパジャマを着ていた。
卓の灰皿に、吸いさしのHighlightが一本、短くなって煙を立てていた。指には次の一本を挟んでいた。顔は上げなかった。
「なんだ」
リヴァは扉の内側に立ったまま、少し黙っていた。
「私がいる理由って、何」
惣一が、書類をめくる手を止めた。指の一本を口にくわえ、煙草に火が点いた。
「アンカーだからだ」
考える間がなかった。煙を横に吐いた。書類から目線が動かなかった。
「それだけ?」
「それ以外に、何がいる」
惣一が、初めて顔を上げた。
リヴァの肩から、力が抜けた。
「……役に立つなら、いい」
「……」
惣一が立ち上がった。
リヴァはカーディガンの肩を落とし、一歩前に出た。
顎を少し上げ、目を閉じた。
惣一は、くわえていた煙草を灰皿の縁に置いた。
「目、開けろ」
低かった。
リヴァが目を開けた。
惣一は近づかなかった。
低い灯りの向こうから、リヴァを見ていた。
「身体で、何を買うつもりだ」
リヴァの唇が、少し開いた。
「……何も」
「嘘をつけ」
惣一は表情を変えなかった。
「俺の機嫌を取って、何を守る」
リヴァの肩が、わずかに動いた。
「俺の目を、あいつらから逸らしに来たか」
リヴァの視線が落ちた。
「まだあるだろ」
リヴァが顔を上げた。
しばらく、何も聞こえなかった。
灰皿の煙草から、細い煙が上がっていた。
「交渉しにきたなら、最後までやれ」
リヴァは息が詰まった。
少し止まって、言った。
「……私のこと」リヴァが言った。「知ってることがあるなら、教えてほしい」
惣一が一歩踏み出した。
「結構」
また一歩。
足音を聞いて、呼吸が不規則に音を立てた。
「抱かれれば、教えてもらえると思ったか」
リヴァは答えなかった。
惣一が目の前で止まった。
「随分、安く見られたもんだな」
リヴァの瞳が揺れた。惣一を見上げた。
惣一の手が上がり、リヴァの顎を持った。
親指が、頬に触れた。
「身体ひとつで買えるのは、今夜の俺だけだ」
「……」
「あいつらをどうするかも、お前について俺が知っていることを話すかも、俺が決める」
リヴァの肩から、力が抜けた。
期待が消えた。
それでも、カーディガンを拾わなかった。
惣一は数秒、リヴァを見た。
間があった。
リヴァはもう一歩近づいて、惣一の胸元へ手を置いた。
パジャマ越しに、指が触れた。
惣一がその手首を取った。
リヴァの手は、氷のように冷えていた。
「ちゃんと言え」
「……ここに、いたい」
「何のために」
リヴァの呼吸が浅くなった。
「わからない」
惣一は目を細めた。
リヴァの手を離した。
その手を、今度はリヴァの腰へ回した。
「分からないまま来たことだけは、忘れるな」
引き寄せられ、リヴァの額が惣一の胸に触れた。
リヴァは動かなかった。
惣一はそれを見ていた。
「そうやって生きてきたか」
リヴァは答えなかった。
「今夜は誰も守るな」
惣一の指が、リヴァの顎を上げた。
「見ろ」
リヴァが惣一を見た。
「役に立つ顔をするな」
惣一はリヴァを体に収めながら、壁のスイッチへ手を伸ばした。
「それを決めるのは俺だ」
部屋が暗くなった。
足元灯の余りだけが、床を這っていた。
今度は、緩く導いた。
惣一の影が、視界の上に落ちていた。
古い傷だけがいくつか残っていた。他に何もない、綺麗な肌だった。
リヴァは手を惣一の肩へ回した。
顎が上がり、目を閉じた。
「目、開けろ」
リヴァは動かなかった。
惣一の手が、リヴァの頬を掴んだ。
「開けろ」
少し遅れて、目が開いた。
焦点が合っていなかった。
惣一はその目を見た。
「……あの野郎」
低かった。
リヴァが瞬いた。
惣一はリヴァの頭上へ手を伸ばし、スイッチを押した。
小さな明かりが灯った。
リヴァの焦点が、ゆっくり戻った。
「見えるか」
「……うん」
「誰がいる」
リヴァは惣一の顔を見た。
「コア」
「名前を言え」
「惣一」
惣一は一度だけ目を閉じた。
「そうだ」
惣一の親指が、リヴァの目尻を一度撫でた。
「俺を、そいつの代わりにするな」
リヴァの呼吸が止まった。
「そいつって、誰」
惣一は低く息を吐いた。
「今は俺の言う通りにしろ」
リヴァは惣一を見ていた。
秒針が鳴っていた。
小さな明かりの下、卓の灰皿で、吸われないままのHighlightが灰になっていた。
扉が開いた。
リヴァが廊下に出た。カーディガンを肩で羽織り直していて、髪が片側だけ乱れていた。
扉が背後で閉まった。
廊下の突き当りにフィンがいた。壁に背を預けていた。
リヴァが惣一の部屋から出てきた。
フィンは乱れた髪を見た。
リヴァが顔を上げる前だった。
眠そうな、退屈な顔をするのに、一秒もかからなかった。
リヴァが顔を上げた。
「……フィン」
「ん」フィンは言った。「眠れなくて」
「そっか」
「リヴァも?」
「……うん」
「早く寝なよ」フィンが言って、あくびを一つした。本物に見えるあくびだった。
フィンが壁から背を離し、リヴァの横を通った。すれ違う時、足を止めなかった。
煙草の匂いが違っていた。フィンは気づかないふりをした。
リヴァが自分の部屋の方へ歩いていった。素足の音が、遠ざかった。
フィンは惣一の部屋の扉を見た。
壁の方を向いて、額を付けた。
一度だけ拳で、壁を叩いた。
拳の痛みだけが残った。
音は、誰にも届かなかった。




