ミントの絵文字
東京拠点 夜十時〇〇分。
端末が鳴った。
ユキナガだった。
『準備できたよ おいで』
絵文字が一つついていた。ミントの葉だった。
リヴァは端末を伏せ、共用スペースの奥へ向かった。
ユキナガのバーは、カウンターの灯りが点いていた。暖色の光が磨かれた天板へ落ち、背後に並ぶボトルを透かして琥珀色に滲んでいる。
ユキナガはカウンターの中に立っていた。
黒のシャツ。袖を肘まで上げていた。
カウンターはすでに拭かれていて、グラスが二つ、等間隔に伏せてあった。ボトルが三本、ラベルをこちらに向けて並び、その横ではミントの束が小さなグラスに活けてある。
リヴァの足音が近づくと、ユキナガが手元から顔を上げた。
「待ってた」
カウンターの端には端末が二台寄せてあった。片方の画面では解析ログが流れ続けている。何行もの文字列が上へ送られ、通知ランプが三秒ごとに点滅していた。
「ちゃんと考えてたのがあって、なかなか材料揃わなかった」
「そこまで考えてくれてたんだ」
「当たり前じゃん」
ユキナガは伏せてあったグラスを一つ取った。照明へ掲げ、角度を変えながら曇りがないか確かめる。
「テキサスから結構時間経っちゃったけど」
グラスを置き、もう一つを取った。指紋が残っていないのを確かめてから、それも並べる。
「やっと二人きりになれた」
ユキナガがカウンターへ視線を落とした。
「座って、そこ。灯りがきれいに当たるから」
リヴァは言われた椅子を引いて座った。
カウンターの暖色が、ちょうど手元に落ちる位置だった。ユキナガはその位置を確かめるように一度リヴァを見てから、まな板を手前へ引いた。
ライムを手に取って切った。
ミントを取り、茎から一枚ずつちぎった。葉の大きさを見て、使うものを手元へ揃えていく。
「何作るの?」
「サウスサイド」
「聞いたことない」
「禁酒法の時代に、ニューヨークのギャングが飲んでたやつ」
「なんでそんなの知ってるの」
「こういうの、好きなんだよ。意外かもだけど」ユキナガは笑った。「ギャングとか傭兵とか」
「なんで?」
「目立つから」
ユキナガがジンの瓶を取り出した。ヘンドリックス。黒いラベルが照明を受けて鈍く光った。
メジャーカップへジンを注ぎ、シェイカーへ移す。ライムを絞り、シロップを加える。指先でミントを取り、氷と一緒に落とした。
蓋を閉じて、シェイカーを持ち上げた。
振った。
最初の一往復で、腕の動きが鈍った。シェイカーが肩の高さまで上がりきらず、そこで一度軌道が落ちる。
ユキナガは握り直した。
次からは一定だった。氷の音が同じ間隔で鳴り、手首から肘までが正確な幅で動く。端末を叩く時と変わらない速さだった。
止めると、そのままグラスへ注いだ。
液体は透明で、光に透かすと薄く緑を帯びていた。
ミントの葉が一枚、表面に浮いていた。
ユキナガはリヴァの手元までまっすぐ滑らせた。
「どうぞ」
リヴァは両手でグラスを取り、飲んだ。
冷たかった。最初にジンの鋭さが舌へ当たり、そのあとからミントの香りが上がった。
「……おいしい」
ユキナガが笑った。目尻が下がり、グラスを持つリヴァの手元を一度見た。
そのままカウンターに肘をつき、Marlboroを取り出した。一本咥え、ライターを擦る。
点かなかった。
親指でホイールを戻し、もう一度擦った。
火がついた。
煙草の先へ火を移し、吸い込む。吐いた煙がカウンターの灯りを横切り、天井へ向かって薄く広がった。
ユキナガは灰皿を取ると、リヴァから遠い側へ置いた。
「リヴァ、両手でグラス持ってる」
「冷たいから」
「かわいい」
「うるさい」
「褒めてるのに」
ユキナガはカウンターの斜めに置いた椅子を引いて座った。
座るなり、椅子が前後へ動き始める。片足の爪先で床を押して揺らしていた。
普段より間隔が長かった。
端末の通知ランプがまた点滅した。
光がユキナガの横顔へ一度映ったが、顔はそちらへ向かなかった。煙草を持つ手を膝へ落としたまま、リヴァを見ている。
「もう一杯いく?」
「まだ残ってるよ」
「何杯でも」
「何杯でもは無理」
「リヴァが酔うとこ見たい」
「見せない」
「けち」
ユキナガは口元を緩めた。
「ユキナガ」
「うん」
「ありがとね、ちゃんと作ってくれて」
「当たり前じゃん。約束したし」
端末では解析ログが流れ続けていた。
ユキナガは煙草の灰を落とした。視線は一度も画面へ向かない。
「今は、リヴァといるから、ちょっとだけ」
リヴァがユキナガを見た。
目の下に影があった。
カウンターの暖色に照らされている側でも、目元の窪みが残っている。ユキナガが煙草を口元へ運ぶたび、頬にも薄く影が動いた。
「ユキナガ、疲れてるでしょ」
「別に」
「……」
リヴァはグラスへ視線を戻した。それ以上は言わなかった。
ユキナガがMarlboroを吸い、天井へ向かって煙をゆっくり吐く。
もう一台の端末が一瞬光った。
ユキナガの目がそちらへ動いた。
通知の表示を捉えると、煙草を持った手を口元へ戻しながら視線も戻した。
もう一度、煙を吐いた。
「品川も沖縄も、リヴァが撃ってる間、ずっと見てたよ」
「……うん」
「リヴァが怖がったタイミング、心拍でたまにわかった」
リヴァの指がグラスの表面で止まった。
「でも俺はモニターの前にいるだけだった。回線繋いで、ログ追って。それだけ」
「……ユキナガ」
リヴァが顔を上げ、口を開く。
ユキナガの声が先に重なった。
「撃たれるのもリヴァ。守るのもあいつら。…俺は数字見てただけ」
リヴァの唇が閉じた。
「……それだけじゃないよ。ユキナガがいるから安心して撃てる」
ユキナガの爪先が床から離れた。
椅子の揺れが止まった。
動かなくなった椅子の上で、ユキナガはリヴァを見ている。カウンターの灯りが顔の片側へ当たり、反対側はボトル棚の影に入っていた。
「……安心して、撃てる」
繰り返した。
声が低かった。
リヴァはグラスを持ったまま、ユキナガを見返した。
ユキナガが煙草を灰皿へ持っていく。火のついた先を灰の中へ押しつけ、指先をひねった。火が消えても、しばらく指を離さなかった。
「安心して撃てる、か」
「……ユキナガ?」
「安心して戦場に出て、安心して傷ついて、安心して誰かに守られて」
リヴァの口が開いた。
「——何、」
「通信が落ちたら俺の仕事は終わり。カイ達なら身体張れるけど」
消した煙草から細い煙が立っている。
「カラムがリヴァ見てる目。あれ、もう信仰だよ。何千メートル先から、ずっと見てる」
リヴァはグラスをカウンターへ置いた。
「フィンはいつのまにか、ずっとリヴァを意識した立ち位置に立ってる」
「……」
「カイも、変わった。リヴァが来てよく喋るように変わったけど。あそこまでじゃなかった」
ユキナガが椅子から立った。
カウンターを回る。靴音が床を横切り、リヴァのいる側へ来た。
「ヴィクトルが船でリヴァを連れ出した時、俺の回線、切られてたの知ってる?」
リヴァの指がグラスから離れた。
「意図的に切った。俺の監視を外して連れてった」
「……」
「で、リヴァは帰ってきて、そのこと、...怒ってなかった」
リヴァはユキナガを見上げたままだった。
ユキナガはカウンターの縁へ指をかけた。
「まだ信用してるの」
「……ヴィクトルは、そういうんじゃ」
「わかってるよ。わかってる」
ユキナガがリヴァの椅子の横へ立った。
近づいた分、照明が背後へ回り、顔の輪郭に光が残った。
「俺はリヴァのこと、誰よりもデータを持ってる」
「……」
「でも何考えてるかは全然わかんない」
リヴァが椅子の上で身体の向きを変えた。ユキナガを正面から見た。
「…アルノと、いつあんなに仲良くなったの」
リヴァは答えなかった。
冷えたグラスの表面を水滴が伝い、コースターへ染み込んでいく。
「…だからみんな、大切な人なんだろ」
ユキナガがカウンターへ腰を預けた。両手を天板の縁に置き、親指で木目をなぞる。
「得体が知れないんだよ。アルバンもお前も。…カズマも。俺が三日かけて解析したパターンを、お前らは勘で避ける。データを超えてる」
「……」
「おっさんもそうだった。一晩かけて掘って、戸籍も経歴も、何も出てこなかった」
ユキナガが低く笑った。
顔は上がらなかった。
「掘って何も出ないやつ、リヴァ以来だよ。二人目」
「……」
「グレイには何回さらわれた?何回傷ついた?そのたびに俺はログ追ってた」
「……」
ユキナガの指がカウンターの縁を離れた。
「でもやるしかないじゃん。目の前のパケット追って、間に合わせるしかない」
ユキナガが笑った。
目の下の影が照明の下でも消えなかった。口元が上がっている間も、視線はリヴァから外れていた。
「だから、止めない。疲れてる暇がないだけ」
バーには、端末の冷却ファンの音が残っていた。
氷が溶け、グラスの中で位置を変えた。
「止まったら追いつけなくなる」
「……何に?」
「…みんなに」
リヴァが息を吸った。
口を開き、何も言わないまま閉じる。
視線をカウンターへ落とした。
煙草の箱があった。
リヴァの手がそこへ伸びた。
指先が箱へ届く前に、横からユキナガの手が入った。
ユキナガが先に箱を取った。残り二本だった。一本抜き、箱をカウンターへ戻す。
ユキナガがリヴァの方を向いた。
煙草を持った手が、リヴァの口元へ近づく。
いつもならそのまま咥えさせる距離まで来て、止まった。
「…リヴァ、俺が触っても逃げない?」
フィルターがリヴァの唇に触れる手前で、ユキナガの指がずれた。
煙草が上へ傾く。
代わりに、ユキナガの親指がリヴァの下唇へ触れた。
指の腹が乗ったまま、動かない。
ユキナガの目は自分の指先へ落ちていた。
リヴァは煙草を受け取ろうとしていた形のまま、唇を開いていた。グラスを置いた手も、膝の上にある。
ユキナガの親指がゆっくり押した。
リヴァの眉が寄った。
それでも手は上がらなかった。
押された下唇が少し開き、その隙間へ指の腹が滑り込む。
そこでリヴァの目がユキナガへ上がった。
「……」
ユキナガの視線も、指先からリヴァの目へ移った。
据わっていた。
リヴァの右手が膝から上がった。
ユキナガの手首をつかむ。
「……っ」
「俺じゃなくても、良いってこと?」
声は低かった。
ユキナガの親指が動いた。
そのあとで指がリヴァの唇から離れた。
手首を引き、リヴァの手から抜く。そのまま距離を取り、カウンターの中へ戻った。
水のグラスを取った。
一口飲んだ。
グラスを置く。
リヴァは椅子に座ったまま、ユキナガを見ていた。つかんでいた右手が、まだ宙に残っている。
ユキナガは箱から最後の一本を出した。
咥える。
使い捨てライターを擦ると、今度は一回で火がついた。
吸い込み、煙を長く吐く。
吐煙越しにリヴァを見た。
口元を上げた。
「カイでもフィンでも、アルノでもいいんだろ」
ユキナガが煙草を灰皿に置いた。
「俺は画面越しだもんな」
「…違う、ユキナガが居なかったら戦えてない」
ユキナガの手が灰皿から離れた。
カウンターを回り、もう一度こちらへ来る。目を細め、小さく笑った。
リヴァの椅子の前で止まった。
「立って」
リヴァがユキナガを見上げた。
ユキナガは位置を変えずに待っていた。
「俺のことが大切なら立って、リヴァ」
リヴァが椅子を引き、立ちあがった。
ユキナガの手がリヴァの腕を取った。肘の少し上をつかみ、そのまま壁の方へ身体を向ける。
数歩移動し、リヴァの背中が壁についた。
ユキナガは片手を壁についた。
リヴァの目を見た。そこから瞳孔へ視線を絞り、胸元へ下げる。呼吸の間隔を追ってから、また目へ戻った。
「……リヴァ」
「……うん」
「心拍、上がるんだ」
ユキナガの目がリヴァの顔を見ていた。
リヴァは壁へ背をつけたまま、両手を下ろしている。
「……」
「…何その顔」
ユキナガの声は変わらなかった。
目元も動かない。
ユキナガが壁についていた手とは反対の手を上げた。
人差し指と親指をリヴァの顎へ当て、上を向かせる。
「逃げなよ」
リヴァの目がユキナガを見ていた。
「……逃げない。ユキナガだから」
「馬鹿じゃん」
「大切だからだよ」
「それは皆、でしょ?」
ユキナガは顎から指を離さないまま、リヴァの目を覗き込んだ。
「瞳孔、開いてる」
「……」
「怖がってるのか、それ以外か、どっち」
リヴァの唇が少し動いたが、声は出なかった。
「答えて」
「……怖くない」
ユキナガがため息をついた。
顎に置いていた指が離れた。
「俺のこと信用してる?」
「してるよ。とっても」
「それなんだよ」
リヴァはユキナガから目を外さなかった。
ユキナガの視線が一度、リヴァの口元へ落ちる。
「…リヴァは俺に隠し事しないと思ってた」独り言みたいだった。
「違——」
言い終わる前に、ユキナガの顔が近づいた。
壁との間にあった距離が狭くなる。
「俺の名前、呼んで」
「……ユキナガ」
「もう一回」
声が低くなった。
息が触れる距離だった。
リヴァが目を逸らした。
「ユキナガ」
「……じゃあ俺は、どうしたら選ばれる?」
腕が身体の横へ戻る。
「……怖くないって、言って」
「怖くない」
「もう一回」
「怖くないよ、ユキナガ」
ユキナガの手がリヴァの腰へ回った。
掌が背中側へ入り、そのまま引き寄せる。
壁からリヴァの背が離れた。
カウンターの上で、サウスサイドの氷が一つ鳴った。
「言って。俺が、必要だって」
「必要」
リヴァがユキナガに一歩近づいた。両腕で抱きしめた。
「ユキナガが必要だよ」
カウンターの灯りはついたままだった。
バーの鍵は閉まっている。
端末では解析ログが流れ続け、心拍の波形が速くなっていた。
ユキナガはそちらを見ずに、リヴァに唇を重ねた。
夜が明けるまで、バーの扉が開くことはなかった。
”High for this" / the weekend
参考:サウスサイド
ジン:60ml
ライムジュース:20〜30ml
シロップ:15〜20ml
ミント:5〜8枚




