ブリティッシュブレックファースト
朝の共用スペースに、油の匂いが満ちていた。
フィンが台所に立っていた。フライパンが二つ。片方でベーコンとソーセージ、もう片方で卵とトマト。
鍋ではベイクドビーンズが温まっていた。トースターからパンが二枚、跳ね上がった。
ユキナガがソファに沈んでいた。顔が半分クッションに埋まっていた。
「死んでる」フィンが笑った。
「死んでる」ユキナガが返した。
「飯できるよ」
「いらない」
「紅茶は」
「……コーヒーがいい」
カウンターに皿が並び始めた。フィンが手際よく盛りつけていく。ベーコン、ソーセージ、目玉焼き、焼いたトマト、ビーンズ、ブラックプディング、トースト。一皿が、茶色で埋まった。
ユキナガがそれを見て、起き上がった。
「何これ。全部茶色」
「ブリティッシュブレックファーストだよ」
「色がない」
「ビーンズはオレンジだろ」
「茶色寄りのオレンジ」
「トマトは赤」
「赤茶」
「君、難癖つけたいだけだよね」フィンが笑った。
アルノがコーヒーを持って、テーブルの端に座った。
いつもの席ではなかった。灰皿のある側を避けて座った。
コーヒーを置いてから初めて、少しだけ眉が動いた。
フィンがアルノの前に皿を置いた。
「アルノ、食べて。朝、糖分でしょ」
アルノがポケットからチョコを出しかけて、止めた。皿のビーンズを、フォークで掬った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
カラムが、壁際の椅子に座っていた。皿が前に置かれた。フォークで、ブラックプディングをどけた。それから、ソーセージだけ食べた。
「ブラックプディング、嫌い?」
フィンは返事を待たず、ブラックプディングを自分の皿へ移した。
「…」
「イギリス育ちなのに?」
「黙って」
カイが、リヴァの隣に座っていた。リヴァの前にも皿があった。
リヴァはトーストを小さくちぎって、紅茶に手を伸ばしていた。
リヴァが立ち上がって、ミルクを取りに行った。カイの視線が、動いた。リヴァが座ると、カイが食べ始めた。
リヴァが、診療室の方を見た。
「オラヴルは」
フィンが、手を止めずに答えた。
「さっきミント入ってったから、たぶん部屋で寝てる」
リヴァは、それ以上聞かなかった。
紅茶にミルクを入れた。少し入れすぎた。
カイの前に自分の皿をよせた。
ブラックプディングとビーンズだけ残していた。
カイは何も言わず、リヴァの前に空になった自分の皿を置いた。
ヴィクトルが入ってきた。シャツの袖をまくっていた。シャワー上がりだった。拠点に泊まったようだった。
「俺の分は」ヴィクトルが言った。
「あるよ」フィンが皿を出した。
「豪華だな」
「焼くだけだよ。実家で毎朝出てた」
「さすが。いいとこの坊ちゃん」
「うるせえ」
ヴィクトルが座って、フォークを取った。
ユキナガがコーヒーを両手で持って、ようやく落ち着いていた。
「…結局あのおっさん、何者なんだよ」ユキナガが言った。
手が止まった。フィンの手も、一瞬だけ止まった。
ヴィクトルが、ソーセージを切った。
「知らない方が長生きする」
それ以上は、言わなかった。
フォークを口に運んだ。ユキナガが、何か言いかけて、やめた。コーヒーを飲んだ。
カイが、コーヒーをテーブルに置いた。
「……アンカーって何だ」
音が止まった。
部屋が静かになった。リヴァが固まった。
フィンがパンを齧る。
「俺も詳しくは知らない」フィンが言う。「沖縄で一回聞いただけ」
「意味は」
「説明されませんでした」アルノが言った。
アルノがフォークを置いた。
「……裏社会で、その単語が出た結果、人が死んだ。それだけ知っています」
「コアは、知っていた」カイがリヴァに言った。「…何か思い出したか」
リヴァはマグカップを強くつかんでいた。
「……わかんない」リヴァは言った。「言葉だけ、知ってる気がする」
ポケットから煙草の箱を出して、テーブルに置いた。
「でも思い出せない」
フィンは肩を落とした。
「…あんたは」カイがヴィクトルに言った。
全員ヴィクトルを見た。
「俺も知らん」首を横に振った。
「ヴィクトルでも?」ユキナガが眉を寄せた。
ヴィクトルは肩をすくめた。
「何でも知ってるように見えるか」
「見える」
「買い被りだ」
ヴィクトルはコーヒーを飲んだ。
間があった。
外はいい天気だった。七月の暑さが今日も始まろうとしていた。
フィンが、最後の一皿を自分の前に置いた。エプロンを外した。
椅子に座って、紅茶を一口飲んだ。
「よし。いい朝だ」
「すげえなお前」ユキナガが言った。
ナイフとフォークの音だけが続いた。
誰もテレビをつけなかった。
全員が耳を空けていた。
誰も次の話題を探さなかった。




