負け
硝子戸が閉まった。
足音が遠ざかっても、誰も動かなかった。
誰も惣一が帰ったと思えなかった。
まだ部屋のどこかに座っているようだった。
灰皿で、燃え残りが細く煙を上げていた。
カイがリヴァのところへ行った。戸口で固まったままの体を、抱え上げた。
バッグが床に落ちた。
オラヴルの座る椅子の、隣に下ろした。カイはその前にしゃがんだ。リヴァの手首に、指を当てて脈を確かめた。
フィンがリヴァのバッグを持ってきて、リヴァの隣に置いた。
「俺、入る組織間違えた?」ユキナガが言った。
「今さら?」フィンが言った。
「初日に来て人の過去抉る上司、普通いる?」
「いないね」フィンが認めた。「普通の入口なんて初めから無かったでしょ」
「知った口きくな」
「新人の目線でもやばい」
ユキナガがカズマを見た。
「お前。なんであいつと話してたんだよ」
「面白そうだった」
「お前な」
「変なの。怒ることじゃないだろ」
カズマが立ち上がった。煙草を指に挟んだまま、伸びをした。
戸口まで行って振り返った。
「お前らが負けてるとこ、見れて気持ちよかった」
カズマがフィンとカラムの方を見た。
「新人さんたち、よろしく」
フィンが軽く手を上げた。カラムは見なかった。
カズマが出ていった。硝子戸が、また鳴った。
「あいつ、ほんと嫌い」ユキナガが言った。
ユキナガがいつものテーブルに座った。肘をついた。
ポケットから煙草を出した。一本を取り出さず、箱を見ていた。
「…そういうことかよ」独り言のように言った。
部屋は静かだった。
「…全部、繋がった」
「何がだ」ヴィクトルが言った。
「俺、ずっとあの人の手のひらの上じゃん」
「常連から裏の仕事学んだって言ってたやつか」
「そう」ユキナガが言った。「あの頃スーツだったから一瞬わかんなかった。名乗んなかったし」
一拍あった。
共用スペースの時計の秒針が鳴っていた。
「……ってか俺、釣られただけかよ」
フィンはユキナガを見て、何も言わなかった。
ヴィクトルが小さくため息をついた。
「……明智なんて、名前も最悪じゃん」ユキナガがつぶやいた。
「どうして」フィンが言った。
「主君を裏切った男の名字だ」カイが言った。
「へえ」フィンは言った。「ちなみに、主が悪かった可能性は?」
ユキナガがフィンを見た。
「何だよ。お前日本史の議論したいの」
「違うよ。あの人がどっち側なのかと思って」
「どっち側でも嫌だよ」
「裏切った側でも?」
「裏切らせた側でも」
フィンが黙った。
ユキナガは端末へ目を落とした。キーボードを叩き始めた。
しばらく間があった。
「……うわ。嘘だ」
もう一度叩いた。
「何も出てこない」
「何がだ」ヴィクトルが言った。
「明智惣一。何も。経歴も、戸籍も、逮捕歴も。名前だけで、後ろに何もない」
ユキナガが端末から顔を上げた。
「……まじで本職なの?アルカのコア」
誰も答えなかった。
「ヤクザってもっとこう…記録あるだろ。なんで何もないんだよ」
「偽名名乗った?」フィンが言った。
「いや」ヴィクトルが言った。
ヴィクトルは腕を組んだまま、オラヴルの肩へ体を預けていた。
うつむいたままのオラヴルを見ていた。
「聞いたことがある」
「どこで」ユキナガが言った。
「……どこだったか」
ヴィクトルは、それ以上言わなかった。
煙草を出して火をつけた。
オラヴルの肩に一度手を置いて、いつものカウンターに座りにいった。
ユキナガがため息をついた。
「てか。オラヴルどしたの。そっちの方が怖かったんだけど俺」
フィンが、オラヴルの方を見た。
「オラヴル」
返事がなかった。
「オリ」
オラヴルは俯いたまま、動かなかった。
リヴァが隣に座っているのに、あれからオラヴルは一度もリヴァを見なかった。
「放っておけ」ヴィクトルが言った。
フィンが目を細めた。
ユキナガが肩を落とした。端末に戻った。
ヴィクトルが、アルノを見た。
アルノは灰皿の燃え残りに目を落としたままだった。
「合理性が、ない」
アルノが呟いた。誰に聞かせるでもなかった。
「負ける日もある」ヴィクトルが言った。
アルノが、ヴィクトルを睨んだ。
「そういう日だ」ヴィクトルは肩をすくめた。
部屋が、また静かになった。
「…最悪」ユキナガが言った。
「情報量が違いすぎる」フィンが言った。
誰も返さなかった。
リヴァが口を開いた。
「……私の、せい」
「違う」
カイが言った。間を置かなかった。
「お前じゃない」
リヴァは答えなかった。
床から、目が上がらなかった。




