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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十章「非対称の支配 ― Asymmetric Force」

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コア

 


 共用スペースに、知らない和服の男がいた。


 ソファの中央に深く腰を据え、紺色の着流しの胸元を寛げていた。


 黒髪で、暗めの肌、顔立ちは日本人。歳は40前後に見えた。


 テーブルにHighlightの青い箱があり、一本を指に挟んでいた。灰皿には吸い殻が二本あった。


 その向かいに、カズマがいた。


 脚を投げ出し、煙草を咥えたまま、終始機嫌がよかった。足を揺らしていた。


 リヴァは、戸口で足を止めた。


 バッグの紐が、肩から滑った。


「……誰?」


 男はリヴァを見ていた。


 カイが動いた。


 リヴァの前へ一歩、二歩入り、間合いを潰した。


 リヴァを背に庇い、右手を上着の内側に入れたまま、男の正面に立った。視線は男の手元から動かなかった。



「立て」カイが言った。



 男は動かなかった。


 カイの殺気を、湯気でも見るように眺めていた。


 ユキナガが、ヘッドホンを首から外した。


 低く息を吐いた。


「……堅気じゃない」


 言ったあと、ユキナガは一度、煙草へ視線が落ちた。


「……」ユキナガは黙った。


 男はリヴァたちの後ろにいるアルノへ、視線を移した。



「休暇はどうだった。土産話を聞かせろ」



 アルノが止まった。


 カズマが振り返った。


「あ。おかえり」


 煙草を口に挟んでいた。



「コアだよ」



 カズマが言った。脚を投げ出したままだった。


 空気が落ちた。


 カイの右手が、内側で止まった。


「……は?」ヴィクトルが思わず声を漏らした。



 オラヴルが、中庭の硝子戸の手前にいた。男の方は見ていなかった。


「やっと帰ってきた」オラヴルがリヴァたちに言った。男を見ないままだった。「アルノ、早くなんとかして」


 アルノが、端末を握る手を下ろした。



「……タイド」アルノが言った。


 コア三名のうち、アルノが唯一、声だけを知る男だった。



 男が薄く笑った。


 和服の懐から出したライターで、Highlightに火をつけた。



「明智 惣一(あけち そういち)だ」


 アルノの目が見開いた。


 コアは名を持たない。


 少なくとも、現場の人間に明かすことはない。


 コードネームすら、アルノしか知らなかった。




 男は煙を吐きながら、全員の顔を一度見た。


 カイはリヴァの前に立ち、まだ睨んでいた。アルノは一切動いていなかった。フィンも、瞬きをせずに見ていた。ユキナガは斜めに立って、男を見ていた。ヴィクトルは壁を背にもたれていた。


 カラムは中庭の方を見ていた。


「お前」男が呼んだ。


「……」


 カラムが視線を男に合わせた。


 一度リヴァを見て、それからまた男を見た。


「お前に懸かった賞金、最高でいくらだった」


 カラムは答えなかった。


「俺が見た最高額は、三百万ドルだ」


「……」


「ベルギー人が積んだやつだったな」


 カラムは反応しなかった。


「ベルギー」ヴィクトルが言った。「……そいつは知らなかったな」


 アルノは動かなかった。


「今日からここは俺が預かる」


 惣一がHighlightを一口吸った。


 そして、カイの肩越しに視線を伸ばした。


 リヴァで止まった。


 人差し指と中指で煙草を挟んだ左手を持ち上げ、リヴァの方を指した。



「それが」惣一が言った。「アンカーか」


 リヴァの体が、止まった。


 指の先から温度が引いた。意味は何も浮かばなかった。


 喉が締まり、足の裏が床から遠くなった。視線が上げられなかった。


 カイが半身をずらした。惣一とリヴァの間に完全に入った。肩で視界を塞いだ。


「やめろ」カイが言った。


 惣一は、リヴァから目を離さなかった。カイには答えなかった。


 『アンカー』という単語を、アルノは石垣の地下で一度だけ聞いていた。あの夜、意味はわからなかった。


 その内容は報告していない。


 少なくとも、自分はしていない。


 戸口の脇で、フィンも止まっていた。同じ夜、同じ部屋にいた。柔らかい笑みが引いていった。


 二人の視線が、一度だけ交差した。


 惣一が背をソファに戻した。


「長旅だ」惣一が言った。「座れ。話はそれからでいい」


 誰も座らなかった。


「結構」


 それで終わった。


 二度と言わなかった。



 遠くで電車の通る音がした。オラヴルはまだ、一度も惣一を見ていなかった。


 惣一が煙を逃した。


「アルノ。概要を言え」


 アルノが、命じた相手を一度見た。それから口を開いた。


「……イタリア・ローマでの多勢力会合。地中海沿岸の資源利権をめぐる調停。その監視と護衛です」


 惣一は手に持った煙草を灰皿に押し付け、もう一本取り出し火をつけた。


 煙を一度、吐いた。


「その段取りは崩す」


 アルノの眉が一瞬動いた。



「カズマ。お前の凍結を解く」


 カズマが顔だけ上げた。脚は投げ出したままだった。口の端が上がる。


「やった。俺もローマ?」


「まず日本での任務を任せる」


「……まあいいや。了解、ボス」


 カズマはそれから、ゆっくりアルノとユキナガを見た。


 アルノは表情を変えなかった。



「また会ったな」惣一がユキナガに言った。


 全員の視線がユキナガへ向く。


 ユキナガは答えなかった。


 テーブルの上のHighlightを見た。


 灰皿の吸い殻。


 青い箱。


 ライター。


 その並びまで、変わっていなかった。


「……やっぱ、コアだったのか」ユキナガが言った。「Bifröst(ビフレスト)で飲んでた」


 惣一が煙を吐いた。


「あの店はもう無い」


 ユキナガが止まった。


 青い箱から目が上がらなくなった。


「……そっか」


 惣一は灰を落とした。


 それきり、何も言わなかった。


「和服なんて着てたら、分かんないじゃん」


 惣一がユキナガを見た。


 二人の目があった。


 ユキナガが先に視線を外した。




 惣一がアルノと、ユキナガと、フィンを順番に指差した。


「お前と、お前と、お前はローマに行かせる」


 カイが少し動いた。


「カイ・レオン」惣一がフルネームで呼んだ。


 カイの指が壁から離れた。


「お前を単独で一つ動かす」惣一が言った。「使えるかどうか、そこで見る。ローマに連れていくかは、その結果次第だ」


 カイは答えなかった。惣一を見ていた。


「不服か」


「いや」


「結構」


 惣一が、煙を吐いた。



「カラム・アルスランは置く」惣一が言った。「お前は残れ」


「……」


 壁際のカラムが、Rothmansを指で回した。火はついていない。


 窓の外へ戻しかけた視線が、リヴァを一度だけ撫でた。



「アンカーは連れていく」


 視線がリヴァに向いた。


 リヴァは戸口で固まったままだった。籐のバッグの紐を握った手が、動かない。


 床から、目が上がらなかった。


「あれの能力は俺が預かる。いつ使うか、使わせないか、決めるのは俺だ」


 カイが口を開こうとした瞬間、物音がした。


 オラヴルが動いた。


 カイが振り返った。


 オラヴルは部屋を横切って、リヴァの傍まで来た。白衣の裾が椅子を払って一脚が倒れかけた。


「だめだ」オラヴルが言った。「行かせない」


 リヴァの手を包んだ。


 部屋の温度が落ちた。


「えっ」フィンがそれを見て小さく言葉を発した。



 その異常を、全員が見ていた。


 惣一は黙っていた。


 オラヴルが、そこで初めて惣一を見た。


 瞳が揺れていた。口を開きかけた。


「お前が口を出すのか」惣一が言った。


 オラヴルが止まった。顔を顰めた。視線は惣一に向いたままだった。


 リヴァの手を握る指が、震えていた。


「……っ」


 オラヴルは惣一から目を逸らした。


 惣一は煙草を吸った。


「自分がしたこと、忘れてねえだろ」


 オラヴルは顔を上げた。


 目を見開いていた。


「……」


 灰かかった青色の瞳が揺れていた。


「都合のいい時だけ、守る側に戻れると思うな」


 アルノが息を詰めた。眉間に皺を寄せた。


 一拍あった。


「…それでも」オラヴルが言った。「……行かせない」


 惣一が、立ち上がった。


 身長はオラヴルよりも低い。


 それなのに、誰もそうは感じなかった。


 惣一が煙を吐いた。


 部屋の空調の音が妙に大きく聞こえた。


「別に俺はお前を責めてない」


 オラヴルが目を見開いた。


 リヴァの手を握ったままだった。


 そして下を向いて、動けなくなった。力が抜けた。


 ヴィクトルが一歩踏み出て、オラヴルの肩を抱えて支えた。リヴァから手が離れた。


 そのまま、共用スペースの椅子に座らせた。その横で腕を組んで、惣一を見て目を細めていた。


 惣一は、表情が動かなかった。


 煙草を口から離して、灰を落としただけだった。


 ユキナガが、オラヴルのその姿を見て息を呑んだ。


 汗がこめかみを伝った。


 フィンが天井をみて、一度小さくため息をついた。



「お前は頭数として数えるぞ。ヴィクトル・ミハイ」


 ヴィクトルが壁から背を離した。


「俺はアルカを辞めた」


「エレナ・コンティの件でな」


 ヴィクトルの目が止まった。


「……あれを命じたコアは、お前か」


「そうだ」


 一拍あった。アルノが床を見た。


「なら、なおさら命令するな」ヴィクトルが言った。


 惣一がHighlightを一口吸った。


「アンカーは人だ。能力じゃない」ヴィクトルが言った。


「だから使う」


 ヴィクトルは一度、リヴァを見た。


「……なら俺も行く」


「最初から数に入れてる」


「お前に従うんじゃない」


「結構」




「…合理的では、ありません」


 アルノが言った。


 惣一の視線が、アルノに移った。


「リヴァを連れていくなら、カラムを単独で置くべきです。射程が一枚増える。生存率が上がる。外す理由がない」


「却下だ」


「……」


「お前に話す筋のもんじゃねえ」


 アルノはまっすぐ惣一を見た。


「彼女は使えば、意識も、記憶も失うリスクがある。一度の判断が命を削る」


「知ってる」


「知っていて——」


 アルノが半歩、前に出た。


「アルノ」


 惣一の手が、テーブルの紙束に伸びた。


 ローマの配置図。アルノが組んだものだった。


「お前は最近人質になったな」


 ライターが小さく鳴った。炎が紙の端を舐めた。


「まず自分を管理しろ」


 火が上がる。


「ローマは俺が組む」


 アルノの視線が止まった。橙の縁が、広がっていく。


 動けなかった。


 惣一が、燃え残りを灰皿に落とした。


「話は済んだ。行っていい」


 誰も動かなかった。


 着流しの裾を払い、ライターを懐に戻す。


 玄関へ歩く足は急がなかった。


 硝子戸が開いて、閉じた。足音が遠ざかる。煙の匂いだけが残った。


 オラヴルは椅子に座って、俯いたままだった。


 リヴァは固まったままだった。


 自分が何かを言えば、全部が変わってしまう気がした。


 だから黙っていた。


 昔から、そうだった。

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