コア
共用スペースに、知らない和服の男がいた。
ソファの中央に深く腰を据え、紺色の着流しの胸元を寛げていた。
黒髪で、暗めの肌、顔立ちは日本人。歳は40前後に見えた。
テーブルにHighlightの青い箱があり、一本を指に挟んでいた。灰皿には吸い殻が二本あった。
その向かいに、カズマがいた。
脚を投げ出し、煙草を咥えたまま、終始機嫌がよかった。足を揺らしていた。
リヴァは、戸口で足を止めた。
バッグの紐が、肩から滑った。
「……誰?」
男はリヴァを見ていた。
カイが動いた。
リヴァの前へ一歩、二歩入り、間合いを潰した。
リヴァを背に庇い、右手を上着の内側に入れたまま、男の正面に立った。視線は男の手元から動かなかった。
「立て」カイが言った。
男は動かなかった。
カイの殺気を、湯気でも見るように眺めていた。
ユキナガが、ヘッドホンを首から外した。
低く息を吐いた。
「……堅気じゃない」
言ったあと、ユキナガは一度、煙草へ視線が落ちた。
「……」ユキナガは黙った。
男はリヴァたちの後ろにいるアルノへ、視線を移した。
「休暇はどうだった。土産話を聞かせろ」
アルノが止まった。
カズマが振り返った。
「あ。おかえり」
煙草を口に挟んでいた。
「コアだよ」
カズマが言った。脚を投げ出したままだった。
空気が落ちた。
カイの右手が、内側で止まった。
「……は?」ヴィクトルが思わず声を漏らした。
オラヴルが、中庭の硝子戸の手前にいた。男の方は見ていなかった。
「やっと帰ってきた」オラヴルがリヴァたちに言った。男を見ないままだった。「アルノ、早くなんとかして」
アルノが、端末を握る手を下ろした。
「……タイド」アルノが言った。
コア三名のうち、アルノが唯一、声だけを知る男だった。
男が薄く笑った。
和服の懐から出したライターで、Highlightに火をつけた。
「明智 惣一だ」
アルノの目が見開いた。
コアは名を持たない。
少なくとも、現場の人間に明かすことはない。
コードネームすら、アルノしか知らなかった。
男は煙を吐きながら、全員の顔を一度見た。
カイはリヴァの前に立ち、まだ睨んでいた。アルノは一切動いていなかった。フィンも、瞬きをせずに見ていた。ユキナガは斜めに立って、男を見ていた。ヴィクトルは壁を背にもたれていた。
カラムは中庭の方を見ていた。
「お前」男が呼んだ。
「……」
カラムが視線を男に合わせた。
一度リヴァを見て、それからまた男を見た。
「お前に懸かった賞金、最高でいくらだった」
カラムは答えなかった。
「俺が見た最高額は、三百万ドルだ」
「……」
「ベルギー人が積んだやつだったな」
カラムは反応しなかった。
「ベルギー」ヴィクトルが言った。「……そいつは知らなかったな」
アルノは動かなかった。
「今日からここは俺が預かる」
惣一がHighlightを一口吸った。
そして、カイの肩越しに視線を伸ばした。
リヴァで止まった。
人差し指と中指で煙草を挟んだ左手を持ち上げ、リヴァの方を指した。
「それが」惣一が言った。「アンカーか」
リヴァの体が、止まった。
指の先から温度が引いた。意味は何も浮かばなかった。
喉が締まり、足の裏が床から遠くなった。視線が上げられなかった。
カイが半身をずらした。惣一とリヴァの間に完全に入った。肩で視界を塞いだ。
「やめろ」カイが言った。
惣一は、リヴァから目を離さなかった。カイには答えなかった。
『アンカー』という単語を、アルノは石垣の地下で一度だけ聞いていた。あの夜、意味はわからなかった。
その内容は報告していない。
少なくとも、自分はしていない。
戸口の脇で、フィンも止まっていた。同じ夜、同じ部屋にいた。柔らかい笑みが引いていった。
二人の視線が、一度だけ交差した。
惣一が背をソファに戻した。
「長旅だ」惣一が言った。「座れ。話はそれからでいい」
誰も座らなかった。
「結構」
それで終わった。
二度と言わなかった。
遠くで電車の通る音がした。オラヴルはまだ、一度も惣一を見ていなかった。
惣一が煙を逃した。
「アルノ。概要を言え」
アルノが、命じた相手を一度見た。それから口を開いた。
「……イタリア・ローマでの多勢力会合。地中海沿岸の資源利権をめぐる調停。その監視と護衛です」
惣一は手に持った煙草を灰皿に押し付け、もう一本取り出し火をつけた。
煙を一度、吐いた。
「その段取りは崩す」
アルノの眉が一瞬動いた。
「カズマ。お前の凍結を解く」
カズマが顔だけ上げた。脚は投げ出したままだった。口の端が上がる。
「やった。俺もローマ?」
「まず日本での任務を任せる」
「……まあいいや。了解、ボス」
カズマはそれから、ゆっくりアルノとユキナガを見た。
アルノは表情を変えなかった。
「また会ったな」惣一がユキナガに言った。
全員の視線がユキナガへ向く。
ユキナガは答えなかった。
テーブルの上のHighlightを見た。
灰皿の吸い殻。
青い箱。
ライター。
その並びまで、変わっていなかった。
「……やっぱ、コアだったのか」ユキナガが言った。「Bifröstで飲んでた」
惣一が煙を吐いた。
「あの店はもう無い」
ユキナガが止まった。
青い箱から目が上がらなくなった。
「……そっか」
惣一は灰を落とした。
それきり、何も言わなかった。
「和服なんて着てたら、分かんないじゃん」
惣一がユキナガを見た。
二人の目があった。
ユキナガが先に視線を外した。
惣一がアルノと、ユキナガと、フィンを順番に指差した。
「お前と、お前と、お前はローマに行かせる」
カイが少し動いた。
「カイ・レオン」惣一がフルネームで呼んだ。
カイの指が壁から離れた。
「お前を単独で一つ動かす」惣一が言った。「使えるかどうか、そこで見る。ローマに連れていくかは、その結果次第だ」
カイは答えなかった。惣一を見ていた。
「不服か」
「いや」
「結構」
惣一が、煙を吐いた。
「カラム・アルスランは置く」惣一が言った。「お前は残れ」
「……」
壁際のカラムが、Rothmansを指で回した。火はついていない。
窓の外へ戻しかけた視線が、リヴァを一度だけ撫でた。
「アンカーは連れていく」
視線がリヴァに向いた。
リヴァは戸口で固まったままだった。籐のバッグの紐を握った手が、動かない。
床から、目が上がらなかった。
「あれの能力は俺が預かる。いつ使うか、使わせないか、決めるのは俺だ」
カイが口を開こうとした瞬間、物音がした。
オラヴルが動いた。
カイが振り返った。
オラヴルは部屋を横切って、リヴァの傍まで来た。白衣の裾が椅子を払って一脚が倒れかけた。
「だめだ」オラヴルが言った。「行かせない」
リヴァの手を包んだ。
部屋の温度が落ちた。
「えっ」フィンがそれを見て小さく言葉を発した。
その異常を、全員が見ていた。
惣一は黙っていた。
オラヴルが、そこで初めて惣一を見た。
瞳が揺れていた。口を開きかけた。
「お前が口を出すのか」惣一が言った。
オラヴルが止まった。顔を顰めた。視線は惣一に向いたままだった。
リヴァの手を握る指が、震えていた。
「……っ」
オラヴルは惣一から目を逸らした。
惣一は煙草を吸った。
「自分がしたこと、忘れてねえだろ」
オラヴルは顔を上げた。
目を見開いていた。
「……」
灰かかった青色の瞳が揺れていた。
「都合のいい時だけ、守る側に戻れると思うな」
アルノが息を詰めた。眉間に皺を寄せた。
一拍あった。
「…それでも」オラヴルが言った。「……行かせない」
惣一が、立ち上がった。
身長はオラヴルよりも低い。
それなのに、誰もそうは感じなかった。
惣一が煙を吐いた。
部屋の空調の音が妙に大きく聞こえた。
「別に俺はお前を責めてない」
オラヴルが目を見開いた。
リヴァの手を握ったままだった。
そして下を向いて、動けなくなった。力が抜けた。
ヴィクトルが一歩踏み出て、オラヴルの肩を抱えて支えた。リヴァから手が離れた。
そのまま、共用スペースの椅子に座らせた。その横で腕を組んで、惣一を見て目を細めていた。
惣一は、表情が動かなかった。
煙草を口から離して、灰を落としただけだった。
ユキナガが、オラヴルのその姿を見て息を呑んだ。
汗がこめかみを伝った。
フィンが天井をみて、一度小さくため息をついた。
「お前は頭数として数えるぞ。ヴィクトル・ミハイ」
ヴィクトルが壁から背を離した。
「俺はアルカを辞めた」
「エレナ・コンティの件でな」
ヴィクトルの目が止まった。
「……あれを命じたコアは、お前か」
「そうだ」
一拍あった。アルノが床を見た。
「なら、なおさら命令するな」ヴィクトルが言った。
惣一がHighlightを一口吸った。
「アンカーは人だ。能力じゃない」ヴィクトルが言った。
「だから使う」
ヴィクトルは一度、リヴァを見た。
「……なら俺も行く」
「最初から数に入れてる」
「お前に従うんじゃない」
「結構」
「…合理的では、ありません」
アルノが言った。
惣一の視線が、アルノに移った。
「リヴァを連れていくなら、カラムを単独で置くべきです。射程が一枚増える。生存率が上がる。外す理由がない」
「却下だ」
「……」
「お前に話す筋のもんじゃねえ」
アルノはまっすぐ惣一を見た。
「彼女は使えば、意識も、記憶も失うリスクがある。一度の判断が命を削る」
「知ってる」
「知っていて——」
アルノが半歩、前に出た。
「アルノ」
惣一の手が、テーブルの紙束に伸びた。
ローマの配置図。アルノが組んだものだった。
「お前は最近人質になったな」
ライターが小さく鳴った。炎が紙の端を舐めた。
「まず自分を管理しろ」
火が上がる。
「ローマは俺が組む」
アルノの視線が止まった。橙の縁が、広がっていく。
動けなかった。
惣一が、燃え残りを灰皿に落とした。
「話は済んだ。行っていい」
誰も動かなかった。
着流しの裾を払い、ライターを懐に戻す。
玄関へ歩く足は急がなかった。
硝子戸が開いて、閉じた。足音が遠ざかる。煙の匂いだけが残った。
オラヴルは椅子に座って、俯いたままだった。
リヴァは固まったままだった。
自分が何かを言えば、全部が変わってしまう気がした。
だから黙っていた。
昔から、そうだった。




