歓迎会
拠点の地上1階、エントランスの奥に、バーカウンターがある。
ユキナガが半年前に「業務効率化のため、コミュニケーション促進スペースが必要」という申請書を出した。アルノが三秒で却下した。ユキナガが却下された申請書に「精神的パフォーマンスの向上は生産性に直結する」という補足を七枚つけて再提出した。アルノが四秒かけて、通した。
カウンターはL字型だった。 バックバーに鏡が張ってあって、ボトルの列が前後に映る。照明は三段階で落とせる。カウンター下にラインライトが入っていて、一番暗い設定にすると、ボトルが琥珀と青に光った。
カウンター席が6脚。バールスタイルの高い椅子が、壁際にもう4脚。奥にテーブル席が2卓。テーブルには小さなろうそくが置いてある。
フードは限定的だが、ある。
オリーブのマリネ。薄切りのパンとチーズ。ナッツの盛り合わせ。スモークサーモンが入る日もある。ユキナガが「こうでないと」と言って、お手製で揃えた。今日はそのすべてが準備されていた。
一方、リヴァの部屋をヴィクトルがノックした。
部屋のドアを開けると、右手に何かを持っていた。
薄い箱だった。
白い。リボンはない。でも角が丁寧に折ってあって、それだけで品があった。
ヴィクトルは部屋には入らず、あくまでドアの外から、箱を差し出した。
「開けろ」
「何」
「開けてから言う」
彼女は箱を受け取った。
蓋を外した。
薄紙が折ってあった。
めくった。
ドレスだった。
Elie Saab のオートクチュールラインだった。
レースや刺繍の華やかさで見せるブランドだが、この一着は逆だった。
余計な装飾をすべて削ぎ落とし、シルククレープと極薄オーガンザだけで光の動きを設計している。
裾はミモレ丈。歩けば、遅れて空気がついてくる。
静かな水面みたいに、動きの余韻だけが残る作りだ。
彼女はそれを見た。
「……なんで」
「似合うと思った」ヴィクトルは言った。「今日くらいはいいだろ。お前の歓迎会だ」
彼女はドレスを見た。
手触りを確かめるように、指先で端に触れた。
滑らかだった。
冷たくて、すぐに体温に馴染む素材だった。
「……高そう」
「関係ない」
「関係ある」
「俺には関係ない」ヴィクトルは言った。「着てくれるかどうかだけが関係ある」
彼女はヴィクトルを見た。
ヴィクトルは真顔だった。
いつもの余裕があった。でも今夜は、その余裕の下に何か別のものがあった。
「……どこで選んだの」
「六本木で」ヴィクトルは言った。「ヒルズの裏手だ。表に出てない店だったな」
ヴィクトルは少し口元を動かした。
「お前の髪の色と目の色を言ったら、店の人間がこれを出してきた」
「髪と目の色を言ったの」
「ああ」
「覚えてたの」
「当然だろ」
彼女は箱の中のドレスを見た。
部屋の明かりが少し揺れて、上品すぎるくらいキラキラしていた。
「あと、これもだ」
ヴィクトルがもうひと箱差し出す。中にはManolo Blahnik のパンプス。
ヒールは細い。だが華奢ではない。7〜9センチ。歩くたびに、音だけが先に空気を切る。
素材はシルクサテン。白に限りなく近いアイボリー。ドレスと同じ色なのに、質感だけが違う。
「先に行ってる」
ユキナガは、今夜は照明を一番落とした。
カウンター下のライトと、卓上のろうそくだけが点いている。
ユキナガはすでに内側にいた。
白いバーテンダーエプロンをつけていた。普段のパーカーの上から。不思議と似合っていた。タオルを左肩にかけて、グラスを磨いていた。
手慣れていた。
グラスを光に透かして、曇りを確認する仕草が、本物だった。
彼女が入ってきた。
ユキナガはグラスを棚に戻して、カウンターに肘をついた。彼女の全身を視界に収めた瞬間、動きが止まる。
「…うわ」
白のドレスが、ろうそくの光とともに反射している。彼女の周りの空気が、なんだか光って見えた。
「…変?」彼女が言う。
「…変なわけ、ない」
言った後で、我に返る。
そういう日か。と納得をし、咳払いをしてバーテン時代の声の出し方を思い出す。
「いらっしゃいませ」
言い方が、いつもと少し違った。
低くて、落ち着いていた。バーテンの声だった。多分、ふざけているが、様になっていてあまり茶化せなかった。
「……なんか違う」と彼女が言った。
「今日は本職モードだから」ユキナガは口元を動かした。「歓迎会だから、ちゃんとやる」
「歓迎って言うんだ」
「今日くらいはね」一拍。「一応アルノに許可も取った」
「取ったんだ」
「今日は特別扱いする。何でも作るよ。座って」
彼女はカウンター席に腰を下ろした。
カウンターの奥のバックバーを見た。
ボトルの列が鏡に映って、倍に見えた。
「結構頑張って揃えた」ユキナガはバックバーを振り返った。誇らしげだった。
「最初は何にする」とユキナガは言った。
「決めてない」
「じゃあ任せてもらっていい?」
「うん」
ユキナガはシェイカーを手に取った。
氷を入れた。カランと乾いた音がした。
ボトルを三本、迷わず選んだ。手が動く速さが、考えていない速さだった。計算済みだ。
「甘いのと辛いのどっちが好み?リヴァ。」
今日貰ったばかりの名前に慣れるように、ユキナガがはっきりと名前を呼ぶ。
「甘いのが好きだけど、甘すぎるのは嫌い」
「そう」ユキナガは目を細めた。「知ってた」
「なんで」
「コーヒーブラックで飲むくせに、チョコレートはよく食うから」
彼女は少し止まった。
「……よく見てるね」
「バーテンは見るのが仕事なんで」ユキナガはシェイカーの蓋を閉めた。
両手でシェイカーを持った。
振り始めた。
リズムが速かった。力任せではなく、手首のスナップだけで動かしている。金属の中で氷が動く音が、カウンターの光の中に響いた。
彼女はその手元を見ていた。
「バーテンって本当だったんだ」
「本当に決まってる」ユキナガはシェイカーを振り続けながら言った。「ホストでm年。バーテンは4年。歌舞伎町でどっちも本気でやった」
「なんでやめたの」
「常連のおじさんに捕まったから」一拍。「まあ、今となってはよかったけど」
シェイカーを止めた。
カクテルグラスに静かに注いだ。
淡い金色だった。
彼女の前に置いた。
「ハニーサワー。バーボンベース。蜂蜜とレモン、卵白少し入れてる。甘いけど後味がさっぱりしてる」
彼女はグラスを持ち上げた。
一口飲んだ。
甘かった。それから酸味。最後に、バーボンの熱が遠くから来た。
「……おいしい」
「でしょ」ユキナガはタオルで手を拭いた。「今日のリヴァに一番合うと思って決めてた」
「最初から決めてたの」
「来る前から」
彼女はユキナガを見た。
ユキナガはカウンターに肘をついていた。
バーテンの顔だった。
「……ありがとう」と彼女は言った。
「どういたしまして」ユキナガは前を向いた。「今日は特別扱いだから。遠慮しないで」
カウンターの光がグラスを照らしていた。
金色が、揺れていた。
カイが来た。彼女を一瞥し、驚いた顔をした。
スツールを引いて、端に座った。カウンターに肘をついた。反対の手は、人差し指でテーブルをたたいていた。
目が離せない。
リヴァは無邪気に、おいしそうに飲んでいた。
「…ジンロック」
「うん」ユキナガはタンカレーのボトルを取った。「カイってほんとそれしか飲まないよな」
返事がない。カイはずっと人差し指でテーブルを叩きながら、リヴァを見ている。
「冒険しなよたまには」
「なにが」ユキナガの声は聞こえていないみたいだった。
「だから、たまには違うの飲みなよって」
「要らない」
ユキナガはロックグラスに氷を入れた。大きめの塊が一つ。グラスを少し回して、氷を慣らす。ジンを静かに注いだ。氷の上を伝わせるように。
カイの前に置いた。
「できたよ」
カイから反応がない。
「できましたよ!おきゃくさま!」
カイは一口飲んだ。何も言わなかった。それが「いい」だとユキナガはもう知っていたので、何も言わなかった。
アルノが来た。
スツールに座って、カウンターに書類を置こうとした。
「書類は無し」とユキナガが言った。
「仕事が」
「今日は無し」
アルノは一拍、リヴァを見た。
「……わかりました」
書類をジャケットの内側に収めた。
「白ワインね」ユキナガは冷蔵庫からシャブリのボトルを出した。「絶対これでしょ」
「何か問題が」
「ないけど。几帳面」
「好みに几帳面も何もありません」
ユキナガはワイングラスを出した。脚の細い、薄いやつ。アルノ用に一本だけ棚に置いてある。
白ワインを注いだ。
アルノはグラスを持ち上げて、光に透かした。薄い黄金色が揺れた。
一口飲んだ。
ポケットからリンツのチョコを一つ出して、何も言わずリヴァの前に置いた。
顔も見ずに。
「綺麗ですね」
温度のない声だった。わざと、それ以外のニュアンスを付与しないようにしているような話し方だった。
「…そう?」
「はい。本当に」
アルノの言葉に、ユキナガが目を見開いてカイの方を見る。「アルノもこんなこと言うの」とカイと共有したかったが、カイは目を細めてアルノの方を見ていた。
ヴィクトルが来た。
彼女の姿を見ると、何も言わなかった。立ち止まった。
ただ、彼女を見ていた。
無言だった。
いつもは言葉が出る。余裕のある言葉が、すぐに出る。
今夜は出なかった。
ヴィクトルに見られていることに気づき、「どう」と彼女は言った。
少し間があった。
「……似合ってる」
いつもより、低い声だった。
余裕がなかった。
ただ、思ったことが出た声だった。
彼女は少し、視線をそらした。
「ありがとう」
彼女の隣のスツールを引いた。自然に。迷わずに。
「…ヴィクトルは」とユキナガが言った。
深呼吸をして、いつものテンポに戻る。
「ネグローニを」
「了解」
「バーで飲むならこれだ」ヴィクトルはカウンターに肘をついた。「作れるのか」
「失礼な」
ユキナガはミキシンググラスを出した。氷を入れて、回す。キャンパリ、スイートベルモット、ジン。正確な量を、躊躇なく注いだ。バースプーンで静かに混ぜる。力を入れない。ただ、冷やす。
カクテルグラスに注いだ。オレンジピールをひと絞りして、グラスの縁に沿わせた。
「おまたせしました」
ユキナガがバーテンらしくグラスを置く。普段のユキナガの話し方からは想像できないほど、わざとらしく所作も”ちゃんと”していた。
ヴィクトルは一口飲んだ。
少し間があった。
「……なんだ。うまいな」
「当たり前だろ。ハッカーなめんな」
「ハッカーがプロのバーテンなんて聞いたことないけどな」
ヴィクトルはグラスを置いて、横の彼女を見た。
「お前は何飲んでる」
「ハニーサワー、ってやつ」
「うまいか」
「うん」
「そうか」ヴィクトルは少し口元を動かした。「残念だな」
なんだかおもしろくないようだった。
ローワンが来た。最後だった。
スツールに腰を下ろして、カウンターに手を置いた。今夜は夜のメガネをかけていた。薄いフレームが、カウンターの光を細く反射していた。
「ローワンは」とユキナガが言った。
「アイスランドのウォッカがあれば」
「渋ーい」
「ブレニヴィンがあれば一番いいですが」
「はは、流石に置いてないっす」ユキナガは棚を見た。「ベルヴェデールならあるよ」
「構いません」
ユキナガはウォッカのボトルを取った。ショットグラスではなく、小さなロックグラスに注いだ。氷なし。ストレートに近い温度で。
ローワンは受け取って、一口飲んだ。
目を細めた。
「……悪くない」
「褒め方が渋ーい」
「褒めていますよ」ローワンはグラスをカウンターに戻した。「腕がありますね」
「でしょ」
全員が揃った。
カウンターに5人。ユキナガだけが内側にいる。
彼女のグラスが空きかけていた。
「リヴァ」とユキナガが言った。「次、何にする」
「ウイスキーのロック」
「おっ」ユキナガは少し目を細めた。「渋いじゃん」
「なんとなく」
ユキナガはThe Macallanのボトルを取った。
ロックグラスに大きな氷を一つ。グラスを回して冷やしてから、ウイスキーをゆっくり注いだ。氷の上を伝わせる。琥珀色が広がった。
彼女の前に置いた。
彼女はグラスを持ち上げた。一口飲んだ。
甘い。それから、じわりと熱が来る。
「……おいしい」
「いけそう?マッカランはそういう味だよ。これは18年」ユキナガはカウンターに肘をついた。
ユキナガの顔が、いつもよりちょっと大人な感じがした。
「そういえば乾杯、まだだったじゃん」
「え」
「一杯目、俺が作ったやつで先に飲んだでしょ」
「飲んだ」
「乾杯より先に」
「……おいしかったから」
ユキナガは少し間を置いた。
口元が動いた。
「ユキナガ」と彼女が言った。
「なに」
「自分のは?」
「バーテン中は基本飲まない」
「今日は特別って言ってた」
ユキナガは少し止まった。
それからメーカーズマークのボトルを取った。
ロックグラスに氷を入れた。バーボンを注いだ。
カウンターの内側で、グラスを持った。
「じゃあ」とユキナガは言った。
全員を見た。
全員が、グラスを持っていた。
ユキナガは少し間を置いた。
「乾杯しよう」
全員が揃った。
ユキナガがグラスを上げた。
「ようこそ、アルカへ」
グラスが触れた。
薄い音が、いくつか重なった。
一瞬だけ、全部が同じ光の中にあった。
彼女はウイスキーを飲み終えて、グラスをカウンターに置いた。
煙草を取り出した。
マルボロメンソール。ユキナガのやつだ。
先週、一本もらった。うまかった。もう一本もらった。また一本もらった。気づいたらユキナガが「箱で持ってろ」と言って、一箱渡してきた。
その箱だった。
一本抜いた。ライターで火をつけた。
ユキナガがつけやすいようにとターボライターをくれた。つけるときに、勢いがあって少し怖い。
煙を吸った。
メンソールの冷たさが、肺に入った。
吐いた。
カウンターの光の中で、煙がゆっくり流れた。
ユキナガがカウンターの内側から見ていた。
グラスを磨く手が、止まっていた。
止まっていることに気づいていないような顔で、でも確かに止まっていた。
彼女がマルボロメンソールの箱をカウンターに置いた時、ユキナガの口元が少し動いた。
笑っていた。
声を出さない笑い方で。肩も揺れていなかった。でも笑っていた。
カイがそれを横目で見た。
「何故笑ってる」
「…別に」ユキナガはグラスを磨く手を再開した。「"俺の"煙草だなーってだけ」
グラスを磨く手を再開した。
ヴィクトルが横から言った。
「煙草、俺のと交換するか」
「何吸ってるの」
「ソブラニー・ブラックロシアン。お前には少し強いかもしれないが」
「今度」
「今夜でもいい」ヴィクトルは肘をついたまま、距離を少し縮めた。「俺が火をつけてやる」
彼女はヴィクトルを横目で見た。
返事をしようとした。
「その辺で買えないやつ、勧めないでくれる?」
ユキナガだった。
カウンターの内側から、グラスを磨きながら言った。さらりと言った。
「その辺で買えないのが、大人の嗜みだろ?」
ヴィクトルはリヴァに肩を寄せて言った。
「わかんないけど、今はこれでいい」
彼女はマルボロメンソールを一口吸った。
メンソールの煙がカウンターの光の中を流れた。
ユキナガがまたその煙を見ていた。
グラスを磨く手が、また少し遅くなっていた。
「撮りたいくらい」
ユキナガが言った。
カウンターの内側から、シェイカーを手に取りながら言った。視線が彼女に向いている。真っ直ぐな目だった。
「吸ってるとこ、好き。絵になる」
さらりと言った。
ヴィクトルの台詞より、重かった。
飾りがなかったからだ。口説こうとしていない。ただ、思ったことを言った。それだけの声だった。
「……なんで」と彼女は言った。
「なんでって言われても」ユキナガはシェイカーに氷を入れた。カラン、と乾いた音がした。「なんか、お前らしいから」
ユキナガはボトルを取った。コアントロー、ライム、テキーラ。迷わない手つきで注いだ。
「構えてないかんじ」
シェイカーの蓋を閉めた。
両手で持って、振り始めた。
リズムが速い。でも力任せじゃない。手首のスナップだけで動かしている。金属の中で氷が動く音が、カウンターの光の中に響いた。
ヴィクトルがユキナガを見た。
「お前」
「何」
「顔が違う」
「バーテンの顔」ユキナガはシェイカーを振り続けた。「それ以上でも以下でもない」
嘘だった。
全員わかっていた。
でも誰も言わなかった。
ユキナガがシェイカーを止めた。カクテルグラスに静かに注いだ。淡い黄緑色。ライムの香りが立った。
彼女の前に置いた。
「マルガリータ。塩なしで作った」
「ありがとう」
「うまいから飲んで」
彼女はグラスを持ち上げた。一口飲んだ。
酸味と甘みが来て、最後にテキーラの熱が残った。
「……おいしい」
「でしょ」
ユキナガはタオルで手を拭いながら、また彼女を見た。
煙草がまだ指にあった。細く煙が出ていた。
「……ほんとに好きだわ、その顔」
小声だった。
カウンターの光に消えそうな声だった。
彼女はユキナガを見た。
ユキナガは次のボトルを取っていた。もう見ていなかった。




