ダイビング
昼。桟橋から島を出て、四十分が過ぎていた。
クルーザーは白い船体に水色のラインが入っていた。船尾にダイビング用のラダーが下りていて、タンクがラックに並んでいた。
空が高かった。浅いところはミルクを混ぜたような水色で、深くなるにつれて青が濃くなっていった。船の影が海底の砂に落ちて、十数メートル下が透けて見えていた。
「透明すぎて怖いな」フィンが手すりから下を覗いて言った。「底、見えるじゃん」
「泳げるだろお前」レッドが言った。
ユキナガがタープの下でラップトップを膝に乗せていた。眉が寄っていた。
「電波ねー」
アルノが眼鏡を押し上げた。今朝着ていたものとは違う、水色のポロシャツを着ていた。
「だから部屋でやると言いました」
「やだ」ユキナガが言った。「バカンス来てんのに部屋こもってんの、意味わかんない」
アルノが何か言いかけて、やめた。画面に戻った。
レッドがその二人を見ていた。コーヒーを一口飲んで、ユキナガを見て、アルノを見た。
「……お前ら、休みに来てるんだよな」
二人とも答えなかった。
イーサンは船尾の高いところで本を開いていた。風がページを煽って、指で押さえた。
カラムはタープの下で柵にもたれて煙草を吸っていた。さっきからずっと吸っていた。
カイがタンクのバルブを確認していた。レギュレーターをくわえて呼吸を一度確かめ、ゲージを見た。手が止まらなかった。
「いくつまで潜ったことあるんだ」ヴィクトルがカイに言った。
「……82まで。任務で」
「そりゃすごい」
「……それやりたくてSEALs入ったとかありそう」ユキナガが言った。
「…全てではない」カイが言った。
リヴァが隣に来た。ウェットスーツを半分だけ着ていた。
「離れるな」カイが言った。「12メートルまでだ。耳抜きはできるな」
「うん」
カイがフィンを向いた。
「問題は」
「大丈夫。何回かやったことある」
「何回かやったならCカード取れ」
「資格?…そこまではいいよ」
カイは首を傾げた。
リヴァがウェットスーツを着込み、器材を背負った。カイが肩のストラップとバルブを順に確かめた。
カイがリヴァの胸元のインフレーターを取った。
「これが給気。こっちが排気。降りる時は自分で空気を抜け。わからなくなったら触らず俺に合図しろ」
「うん」
「浮きたくなっても、一気に入れるな」
「わかった」
カイが左手首を上げた。黒くて厚みのある、ダイブコンピュータ。
カイが指で画面に触れた。
黒い画面が灯った。有機ELの深い黒から、白い数字が浮かび上がった。水深、水温、経過時間。陽の下でも表示ははっきり見えた。
「それ、時計じゃなかったんだ」
「ああ」カイが言った。
カイが船縁へ腰を下ろした。リヴァも隣に座った。
カイがリヴァを見た。リヴァの残圧計を確かめた。
「背中から入るか」
「……背中?って何」
カイは無言でリヴァのマスクをつけて、髪をよけた。レギュレーターを咥えさせた。
「空気吸えるか」
リヴァが頷いた。
「よし」
カイがリヴァの肩を押して背中から海に落とした。
「うわあああ」
咥えたままのリヴァの声がくぐもって響いた。大きな水しぶきが聞こえた。
ユキナガがそれを見て笑った。
カイはリヴァを確認してから自分も背中から海へ倒れた。フィンが船尾の梯子からゆっくり入った。
水が体を包んだ。冷たくはなかった。
船尾から白いラインが海中へ伸びていた。リヴァはそれを掴んだ。
リヴァがインフレーターの排気ボタンを押した。身体がゆっくり沈み始めた。カイが正面について、下降速度を見ていた。
青が上から下へ濃くなっていった。光が水の中で筋になって、何本も斜めに落ちていた。リヴァが手を伸ばすと、光の筋が指の間を通った。
12メートルでカイが止まった。サンゴ礁の縁だった。浅い棚が切れて、その先が落ちていた。底が見えず、濃い青が下にどこまでも続いていた。
棚の上に魚がいた。青と黄色の縞が群れで動いていて、リヴァが近づくと群れが割れた。割れて、また閉じた。銀色の小さい魚がリヴァの周りを囲んで、一斉に向きを変えた。
リヴァがカイを見て、指をさした。カイは頷いた。
フィンがリヴァの横に来た。カイと反対側で、リヴァの隣を取った。
カイがフィンを見た。
カイがリヴァの腕を軽く引いて、自分の側に寄せた。フィンがまた横に来た。カイがまた引いた。水の中で、二人が無言で位置を争っていた。
リヴァはサンゴの方を見ていた。
その時だった。
縁の向こうの濃い青の中から、影が来た。
マンタだった。翼をゆっくり打っていた。幅がリヴァの背丈の何倍もあって、腹が白く、黒い背中に白い斑があった。ただ滑っているようだった。
リヴァが止まった。
マンタが頭上を通って、光を一度遮った。影がリヴァの上を滑っていった。腹の白さがすぐ近くにあって、手を伸ばせば届きそうだった。
マンタが旋回して、一度戻ってきた。リヴァたちの周りをゆっくり回って、それからまた縁の向こうの青に滑り落ちていった。
消えた。
カイはマンタではなく、リヴァを見ていた。
リヴァがカイを見て、両手を広げた。
カイの目が、少しだけ笑った。
リヴァはしばらく青の中にいた。
カイが上を指した。
浮上して、リヴァがマスクを外した。
「見た!?」
リヴァがラダーにつかまったまま、声を張った。
「マンタ、すぐそこ、来た」
「ああ」カイが隣で浮いていた。
「手、届きそうだった」
フィンが先に上がっていた。デッキから身を乗り出していた。
「楽しかった?」
「うん!」
いつもより声が大きくて、フィンが一瞬目を見開いた。それから笑った。
リヴァの声に、イーサンが本から顔を上げた。
アルノも端末から目を離した。そのまましばらく、リヴァを見ていた。
リヴァがラダーを上がった。タンクの重みで、足元がふらついた。カイが下から支えた。
デッキに上がると、ヴィクトルがタオルを投げてよこした。
「大興奮だな」
「マンタいた」
「いいなあ」奥からレッドが言った。「俺も入りゃよかった」
リヴァがタオルで顔を拭いた。髪から水が落ちていた。まだ興奮していた。喋りたいことが、口に追いつかないようだった。
ヴィクトルはリヴァの話を聞きながら、笑っていた。ユキナガが遠くで頬杖をしてそれを見ていた。
カラムがタープの下から、リヴァが濡れたまま喋り続けているのを、しばらく見ていた。それから、長椅子に横倒しになった。
「船酔い頑張れ」フィンがカラムに言った。
「……黙って」
「黒海とは全然違うな」ヴィクトルが言った。
「大西洋ともな」イーサンが言った。アイルランド語の本を閉じて、横になった。「酔った」
「あーあー、本なんか読むから」レッドがイーサンに笑った。
「地中海とも違う?」フィンがカラムに言った。
カラムは何も反応しなかった。目を閉じていた。
「死んだ?」
「……むり」
フィンが離れた。
日が、ゆっくり傾き始めていた。




