穴埋め
リヴァが出ていったあと、波の音だけが残った。
ヴィクトルはソファに座ったまま、閉じた箱を見ていた。
エスプレッソは冷めていた。煙草の灰が長くなって、灰皿に落ちた。ヴィクトルは吸いかけのSobranieを押しつけた。
端末を取った。番号を入力した。
呼び出し音が三回鳴った。
『はい』
アルノの声だった。
「来い。ロビー横」
『用件は』
ヴィクトルは箱を見た。
「五分で」
通話が切れた。
ヴィクトルは端末を伏せた。冷めたエスプレッソを飲んだ。舌の奥に苦味だけが残った。
五分はかからなかった。
アルノは白いシャツに薄いグレーのパンツで現れた。眼鏡をかけていた。髪が整っていなかった。襟元のボタンが一つ開いていた。
アルノがヴィクトルを見た。
「……昨夜と同じシャツですね」
「朝からうるさいな」
「部屋に戻っていないんですか」
ヴィクトルが笑った。
アルノは座らなかった。テーブルの前で立ったまま、閉じた箱を見下ろした。
「……フィンが帰ってこなかった」
アルノが箱を見た。
「八つ当たりしたくて呼んだんですか?」
ヴィクトルが笑った。
「俺が寂しくて呼んだとは思わないのか?」
「あなたはそれを理由にしない」
海の光が、天井を流れていた。
ヴィクトルは煙草をくわえた。火はつけなかった。
「穴埋めでしょう」
アルノはようやく座った。
「私だって暇ではないんですが」
ヴィクトルの隣のソファに、一人分の距離を空けた。
ヴィクトルが箱を開けた。切れたチェーンと、一粒のパールが朝の光に乗った。
アルノの視線が少しだけ止まった。
「怪我は」
「見た。傷はない」
「人の首に、自分のものを置くからです」
ヴィクトルの指が止まった。
「随分と冷たいな」
ヴィクトルが声を出さずに笑った。箱の蓋を閉じた。小さく音が鳴った。
ヴィクトルはアルノを見た。アルノも見返した。
ラグーンの光が白い天井を流れていた。二人の間だけ、空気が動かなかった。
「俺が負けたのが、そんなに面白いか」
アルノが口角を上げた。
「……はい。気分がいいです」
ヴィクトルは動かなかった。窓の外で、波が白く崩れた。
「満足したか」
「少し」
ヴィクトルがくわえた煙草を外した。火をつけた。煙を吐いた。
アルノは箱でもなく煙草でもなく、ヴィクトルだけを見ていた。
「穴埋めにする相手を、あなたは選んだ」
「……なんだ」
「いつも自由なあなたが」
「嬉しそうだな」
ヴィクトルは顔を外に向けたまま、目線だけでアルノを見た。
アルノが鼻で笑った。
しばらく、波の音だけがあった。
ヴィクトルが立ち上がった。窓際まで行き、外を見た。海は明るかった。波だけが少し高い。
「リヴァが、自分の部屋で寝ていいと言ったんだぞ。自分はここでいいって」
「……」
「残酷だろ」
「ええ」
アルノは箱に視線を落とした。
ヴィクトルが振り返った。ソファの前まで戻り、アルノを見下ろした。
「立て」
アルノがヴィクトルを見上げた。
アルノは、ゆっくり立ち上がった。ヴィクトルとの距離が近くなった。
ヴィクトルを見上げた。
「ヴィクトル、」
「なんだ」
「……なんでも、ありません」
アルノが息を吐いた。
ヴィクトルの手が、アルノの眼鏡に伸びた。
「南国だ。たまには羽目を外せ」
アルノの手がそれを止めた。
「オラヴルに言いつけますよ」
「言えばいいさ、別に」
ヴィクトルはアルノの手ごと、静かに押しのけた。眼鏡のつるに指をかけ、ゆっくり外す。
アルノは眉を寄せた。手首を掴まれたまま、もう片方の手で取り返そうとした。
「……返してください」
ヴィクトルが口角を上げた。
「嫌ならもっとちゃんと抵抗しろ」
ヴィクトルは眼鏡をテーブルに置いた。
「今朝のことは、誰にも言うな」
「パールのことですか」
「全部」
アルノが目を閉じた。
「……自由人」
テーブルの上で、外された眼鏡と、閉じた箱が朝の光を拾っていた。




