パール
ロビー横の共用スペースに、ラグーンの反射が白い天井を流れていた。
ヴィクトルはソファに座っていた。膝にノートPC。ダークボルドーのシャツ、袖を二回折っていた。エスプレッソは半分残っていた。
リヴァが入ってきた瞬間、ヴィクトルは顔を上げた。
一度リヴァの後ろを見た。誰もいなかった。
次に、首元を見た。視線がそこで止まった。
ノートPCを閉じた。
「……どうした」
リヴァが、少し近づいた。
「ヴィクトル、おはよう」
「ああ」
「……」
「…おはよう」
「あのね。……ネックレス、壊しちゃった」
掌の中の箱を開いた。
切れたチェーンと、一粒のパールが朝日を受けて光っていた。
「引っ掛けちゃって」
ヴィクトルがリヴァを見た。
「怪我は」
リヴァが、自分の首に手をやった。
「……ないよ」
「見せろ」
「ないってば」
リヴァが髪を少しだけ持ち上げた。
ヴィクトルが身を乗り出した。
うなじから鎖骨の上まで、目だけで辿った。
「……よかった」
ヴィクトルが座り直した。
それからリヴァの掌からパールを受け取った。
チェーンを持ち上げ、切れた金具を見た。
「……ごめん」
ヴィクトルは、パールを指先で転がした。
「任務が終わってからも、付けていたな」
「……うん」
「よく似合ってた」
ヴィクトルが、ようやく顔を上げた。
お互い、何も言わなかった。
風が吹いた。どこかでドアが開いた。
「フィンか」
ヴィクトルは、エスプレッソを一口飲んだ。
「昨夜、部屋に帰ってこなかった」
「……」
「今朝、桟橋の先から戻ってた。ギター抱えたまま」
リヴァが視線を落とした。
数秒止まってから、視線を窓の外に外した。
ヴィクトルは箱を引き寄せた。
パールを戻した。
箱を閉じる前に、パールをもう一度、指で転がした。
ヴィクトルが、箱を閉じた。
小さく鳴った。
「直しておく」
「……うん」
「ただ」
ヴィクトルが顔を上げた。
「フィンは一回殴らせろ」
「……え」
「なんだ」
「フィン殴らないで」
「人の贈り物を壊した」ヴィクトルが静かに言った。「しかも、多分、かなり必死に」
しばらく、二人とも黙った。
「……冗談だ」ヴィクトルが言った。「SAS殴るほど馬鹿じゃない」
海の光が、天井を流れ続けていた。
「リヴァ」
「…」
「俺が怒っていると思うか」
ヴィクトルが煙草を取り出した。
ライターで火をつけた。
煙を吐いた。
煙が、海の光の中に上がった。
「……少し」
間があった。
「…物は壊れる」ヴィクトルが言った。「忘れろ」
ヴィクトルが、煙を長く吐いた。
横目でリヴァを見た。
「……お前に首輪なんて似合わなかったな」
声にならなかった。
今日は波が高かった。
ヴィクトルが、煙を窓の外へ流した。
リヴァはまだ立っていた。
「ヴィクトルって」リヴァが言った。「なんで、アルカ辞めたの」
ヴィクトルの指が、煙草のフィルターのところで止まった。
「なぜ」
「前から、聞こうと思ってた」
ヴィクトルは答えなかった。
海を見ていた。波が、さっきより高かった。
「守れと言われた」
低かった。
「同じ口が、後で切れと言った」
リヴァは動かなかった。
「……それで」
「辞めた」
間があった。海の光が、天井を流れ続けていた。
ヴィクトルは、煙を最後に一度吸った。
灰皿で、ゆっくり消した。
「それは、アルノが決めたの」
「アルノは…伝えただけだ」煙を吸った。「もっと上だ」
窓の外を見ていた。波が白く崩れていた。
「顔も、名前も知らない。俺は最後まで、誰に切られたのか知らないままだ」
リヴァが少し黙った。
「あったこともないやつに、人生を決められる」
ヴィクトルがリヴァを見た。
「そういう場所だ。お前がいるのは」
ヴィクトルは、Sobranieを灰皿で消した。
「まあ、昔の話だ」
ヴィクトルが立ち上がった。
「コーヒー淹れてやる。座れ」
リヴァが少し躊躇ってから、ヴィクトルの正面の椅子に座った。
立ち上がった拍子に、シャツの裾がよれていた。
昨夜と同じシャツだった。
「ヴィクトル、昨日部屋に戻らなかったの」
ヴィクトルがコーヒーメーカーに向かいながら言った。
「ここで寝た」
「え」
「フィンは戻ってこない」ヴィクトルは言った。「カラムは得体が知れない」
「……」
「あの部屋に俺一人で残るのは、なかなか酷だろ」
リヴァが少し笑った。
「カラム、夜何してた?」
「部屋の隅からこっち見てた」
「え?」
「海見たり壁見たり。あと音楽かけてる。言ってもきかない。それもロックだぞ」
「……ヴィクトルが負けた」
「完敗だ」ヴィクトルが、エスプレッソマシンの前で言った。
「そんなことあるんだ」
ボタンを押した。豆を挽く音がした。
「島手配してくれたの、ヴィクトルなのに」
ヴィクトルの背中が、肩をすくめた。
「まったくだ」
ヴィクトルが、二つのカップを持って戻ってきた。
一つをリヴァの前に置いた。自分の分は、テーブルに。
また座った。
「私の部屋使ってもいいよ、ヴィクトル」
ヴィクトルが固まった。
カップを置いた。小さく音が鳴った。
「なんだ、誘ってるのか」
窓の外でラグーンが朝の光を返していた。
「……そうじゃなくて。私、ここでも」
ヴィクトルがSobranieを取って、一口吸った。煙を吐いた。
「お前がここで寝るのは危なすぎる」
「なんでよ。島、貸しきりじゃん」
「なんでもだ」
リヴァがコーヒーを一口飲んだ。
ヴィクトルがその横顔を見ていた。
視線を外さなかった。
首元に、パールがなかった。




