Creed Viking
桟橋の先のコテージまで、二人で歩いた。
フィンはギターを肩にかけていた。
リヴァが部屋の鍵を開けた。風が、まっすぐ通り抜けた。
フィンが入ってきた。後ろ手にドアを閉めた。
「ギター、少し弾いてもいい?」フィンが言った。
「歌っていいよ」
「えー」
「私ばっかりやらせたから」
「…そうだなあ」
フィンがソファに座ってギターを膝に乗せた。チューニングを確かめた。リヴァはベッドの端に座った。
フィンがEのコードを押さえた。最初の和音が、部屋に低く広がった。
「Lover, you should've come over」
Jeff Buckleyだった。優しい声だった。
リヴァは目を閉じて聞いていた。
フィンは話すように歌った。
曲が終わると、部屋が静かになった。ギターを下ろして、ソファに置いた。
フィンが顔を上げてリヴァを見た。穏やかに笑っていた。
「ねえ、上手すぎじゃん」
「歌の授業は得意だったから」
フィンが立ち上がった。ゆっくりリヴァの方に来て、ベッドの前で止まった。
「ねえ」
リヴァを、上から見ていた。
フィンから、ミントと柑橘の冷たい香りがした。奥に胡椒のような刺激と、乾いた木の匂いが混じっていた。
「昨日さ」フィンが言った。「カラム、来た?」
リヴァが止まった。
「カラムって、人に近づかないんだよね」フィンが言った。「拠点でもそう。距離が遠くて、誰にも近づかない」
「フィンとカラムは仲良しじゃん」リヴァが言った。
フィンがベッドの端に腰を下ろした。リヴァの隣に座った。
「君ってさ」フィンが言った。「本当に優しいよね」
リヴァは何も言わなかった。
「カラムが眠れないって来たら入れるし、カイが壊れそうなら隣にいるし、アルノが倒れたら看病する」
「フィン」
「みんなに、優しい」フィンが言った。
リヴァが何か言おうとしたが、口を閉じた。
「じゃあさ」フィンが言った。少し屈んでリヴァを目を覗き込んだ。「俺が君を欲しいって言ったら、どうする」
部屋が静かになった。
リヴァが、フィンを見た。答えを探していた。
「……困ってる」フィンが言った。「君は嘘がつけない。今何を言っても傷つけると思ってる。そういう顔」
「……フィン」
「俺、人の顔を読むのが仕事だったから」
フィンがリヴァの首元を見た。視線が止まった。
「そこの跡」
リヴァの手が、無意識に首に動いた。砂浜から戻ったままの、白いドレスだった。今は首元に、パールがあった。
「車の時、見えた」フィンが言った。「……誰につけられた痕だったの」
リヴァが、答えなかった。
「カイなら、痕なんて付けないでしょ」
フィンの目が細められていた。
「あれは丁寧だった。親指と、人差し指でつけられてた」
リヴァが、目を伏せた。
「君の周り、本当に面倒なのばっかり」
フィンが、リヴァの首元のパールに目を移した。
「俺さ」フィンが言った。「君が、誰かと話をする時に、どう変わるか、全部知ってるんだ」
「……え」
「カイの話の時は安心してる声になる」
「…そうかな」リヴァは首を傾げた。
「ユキナガの時はちょっと笑って、アルノの時は少し遅れる」フィンが言った。
「ヴィクトルの時は、甘えて、あとは…イーサンのときは少し声が高くなってる」
リヴァが、フィンを見ていた。
「俺の時は」フィンが言った。「どんな声か、自分で気づいてないでしょ」
「……」
「困った声だよ」フィンが、少し笑った。「いつも。俺の前だと、君は困ってる」
リヴァは下を向いた。
フィンが近づいて、ベッドが沈んだ。
リヴァが顔を上げるとすぐ近くにフィンの顔があった。
「……」
リヴァは困った顔でフィンのヘーゼルの瞳を交互に見ていた。
「フィン、」
フィンが顔を傾けた。
唇までの距離はあと三センチだった。フィンはリヴァの唇を見たまま言った。
「ねえ。カイってさ、君の事好きだと思う?」
「…カイはそんなんじゃないから」
フィンが固まった。
「……ん?」
リヴァが少し離れた。フィンは眉間に皺を寄せてリヴァを見た。
フィンが続けた。
「カイの前で泣いたことは」
「ある」
「じゃあ一緒に寝たことは」
「……」
「告白された?…した?」
「だから、そんなんじゃないって」
間があった。
フィンは左手で額を押さえた。
そのまま、三秒止まっていた。
長く息を吐いて、リヴァを見た。
「俺はさ」フィンが言った。「誰にでもなれるんだ。君が好きになる男なら、誰にでも」
「……」
「無口にもなれるし、丁寧にもなれる。ただ黙って隣にいることもできる」フィンが言った。「全部、…演じられる」
間があった。
「君の望むものに、いくらでもなれる」フィンが言った。「でも」
言葉が切れた。
「俺を、見てほしくなっちゃった」
リヴァが手を伸ばした。フィンの頬に触れた。
「慰めてる」フィンが言った。
「違うよ」
「なら」フィンが言った。「証明してくれる?」
「うん」リヴァが言った。
フィンが息を吸った。それからリヴァを引き寄せた。
近づくと、フィンの匂いが昼間より強く香った。乾いた木の、ほろ苦い香りだった。
指がリヴァの首の後ろに回った。パールのチェーンに引っかかった。
チェーンが切れて、シーツの上に落ちた。
「……あ」
「うわ、ごめん」手を離した。「リヴァが大切にしてたのに」
「……いいよ」
「ヴィクトルも怒るでしょ」
「大丈夫」
リヴァが、フィンの左腕に触れた。袖をずらした。内側に太陽の刺青。その下にラテン語があった。
『Nusquam est qui ubique est.』
リヴァが、指でなぞった。
「これ、どういう意味」
「忘れちゃった」フィンが言った。
「嘘つかないで」
「……」
リヴァが、もう一度なぞった。
「教えてよ」
フィンが少し笑った。
「今の俺に、一番向いてない言葉」
フィンがリヴァの顎に指をかけた。角度を少しだけ上げた。光を拾う角度だった。
「綺麗」
唇が合わさった。
リヴァの膝裏がベッドの縁に当たった。
よろけないように、フィンの腰を持った。
「ねえ、今。誰のこと思い出してる?」フィンが言った。
リヴァが目を逸らそうと横を向こうとした。
「…」
「カイのこと、考えないで」フィンは続けた。「無理なら言って?」
「…フィンは、フィンのままでいい」
その言葉に一瞬、フィンが止まった。
「どんな俺?」
「わかんない」
「じゃあ、今夜中に見つけて。本当の俺」
目が覚めた時、フィンの顔がすぐ近くにあった。
リヴァはフィンの二の腕を枕にしていた。フィンの顎が額に触れ、もう片方の腕が後頭部を抱くように回っていた。腰から下では脚が絡み、リヴァの膝がフィンの脚の間に入っていた。
フィンの体温が熱かった。
外はまだ薄暗かった。波の音だけが、規則的に聞こえていた。
リヴァが少し身体を動かすと、フィンも眠ったまま身じろぎした。後頭部に回っていた腕が、さらに深くリヴァを抱え込んだ。
「……起きた」
「……暑い……」
フィンが目を開けないまま少し笑って、リヴァの唇に軽くキスをした。
「……何時」
「知らない」
「……そっか」
フィンが、目を開けた。朝の光が、薄く入っていた。数秒、何も言わずリヴァを見ていた。
リヴァがベッドから起き上がった。キッチンに歩いていった。素足だった。
フィンがベッドの端に座った。しばらく、リヴァの背中を見ていた。それから、床の服を拾った。シャツを着た。ボタンは閉めなかった。
ソファに寝そべっていたギターを取った。ベッドに座り直して、膝に乗せた。
チューニングは、昨夜のままだった。
Naked As We Came
歌わなかった。フィンは指だけでメロディをつま弾いた。
エスプレッソマシンの低い音がした。リヴァはフィンの方を見なかった。でも足が少しだけリズムに乗っていた。小さく歌っていた。低くて歌いにくそうなキーだった。
フィンが弾くのを止めた。
「え、おわり?」リヴァが振り返らずに言った。
「いや」フィンが言った。「歌うんだなと思って」
「フィンが弾くから」
フィンが、少し笑った。またつま弾き始めた。
リヴァが、コーヒーを二つ持って戻ってきた。フィンの隣に座った。フィンがギターを脇に置いてカップを受け取った。
「……うまい」
「ヴィクトルが豆、いいの置いてる」
「……ヴィクトルね」
フィンが少しだけ笑った。しばらく、二人で黙っていた。窓の外で、ラグーンが朝の光を返し始めていた。
「ネックレス、ごめん」
「事故でしょ」
「……うん」
リヴァがローテーブルの上を見た。切れたチェーンと、一粒のパールが置いてあった。
「俺が壊したって、言って」フィンが言った。「謝りに行く」
「いい。自分で言う」
フィンがリヴァを見た。
「………」
二人でコーヒーを飲んだ。遠くで、誰かのコテージのドアが開く音がした。桟橋を歩く音もかすかにした。朝が、動き始めていた。
「……戻る?」リヴァが言った。
「飲んでから」
「うん」
フィンが、コーヒーをもう一口飲んだ。それからリヴァの肩に、軽く頭を乗せた。リヴァは動かなかった。しばらくそうしていた。
「リヴァ」フィンが言った。
「ん」
「ありがとう」
「……何が」
「君、俺が思ったより残酷だった」
リヴァが固まった。
「え」
「あ、いや」フィンは言った。「褒めてる」
「なんで」
「だって俺が一番欲しい言葉くれたから」
フィンが、コーヒーを飲み切った。
「多分俺、君の事もっと好きになった」
カップをテーブルに置いて立ち上がり、ギターを肩にかけた。
「今度はもっと君の寝顔が見たい」
「え」
「じゃあ…えっと」
フィンがドアの前で、一度振り返った。
「……ピアス、とか」
「ん?」
「今度、選びに行こう」フィンが言った。「日本戻ったら」
「うん」
フィンが笑った。
ドアが静かに閉まった。
リヴァがソファに一人で残った。コーヒーを、もう一口飲んだ。
ローテーブルの上で、パールが朝日を受けていた。手のひらに一度、転がした。
切れたチェーンは、そのままだった。
フィンが桟橋を歩いていた。
朝の光が、海の上で白く跳ねていた。
数歩先にカラムが立っていた。黒いTシャツの肩に、細かな砂がついていた。
フィンが止まった。
カラムは、フィンの肩にかかったギターを見た。それから、その後ろの閉じたドアを見た。
「何」フィンが言った。「文句ある?」
「……なにが」
フィンがしばらくカラムを見上げていた。
「朝早いね」
「……起きたから」
フィンはギターのストラップを肩へ掛け直した。
カラムの横を通り過ぎた。
二歩進んで、止まった。
「ねえ」
カラムが振り返った。
「来て」
「……どこに」
「コーヒー」
「……今?」
「今」
カラムが、閉じたドアをもう一度見た。
「……ん」
歩き出した。
フィンは、その返事を聞いてから共用のロビーへ進んだ。
カラムが隣に並ぶまで、少しだけ歩幅を落としていた。




