姐さん
東京拠点 会議室
窓のない部屋だった。空調の音だけがしていた。
リヴァとカイとフィンが、座っていた。
アルノが立っていた。端末を操作した。壁のモニターに和服の女が映った。五十代。背筋が伸びていた。目が笑っていなかった。
「藤村静江」アルノが言った。「関西の組織二代目の妻です」
カイが、写真を見ていた。
「先月夫が抗争で亡くなり、跡目争いが起きている。彼女を狙っているのは外の組織じゃない。身内の、謀反派です」
フィンが軽く眉を上げた。
「ジャパニーズヤクザ?」
「はい」アルノが言った。「厄介なのは、彼女の顔が知られていることです。組織のルートは見張られているので、裏では動かせません」
アルノが画面を切り替えた。地図が出た。東京から西へ線が引かれていた。
「彼女を、神戸のセーフハウスまで新幹線で移送します。一般人として」
リヴァが地図を見た。
「東京から新神戸までのぞみで二時間半」アルノが言った。「武装は最小限。威圧も派手な動きも一切なし。バレたら移送対象ごと消されます」
リヴァはテーブルの一点を見ていた。
「リヴァ」
「うん」
「グレイの帰国が確認できたことから、あなたにも参加していただきます」
「何すればいいの」
「あなたは彼女の隣に座っていただきます。付き添いとして」アルノが言った。「叔母と姪という設定です。法事帰り。男が隣にいると護衛だと一発でバレるので」
「わかった」
「あなたの仕事は観察だけです」アルノがリヴァを見た。「違和感を拾うことだけに集中してください。見る側に徹して、何かあればカイに報告を」
リヴァが頷いた。
「カイは近距離。通路を挟んで斜め後ろです」
「了解」カイが言った。
カイの視線がリヴァの横顔に一度向いた。
「フィンは」
「後ろから見てる。まあ保険ってことでしょ」
「頼みます」アルノが端末を閉じた。
それから少し間を置いた。
「一つ共有しておきます」アルノが言った。「リヴァ、彼女に余計な話はしないでください」
「余計な話って?」
「聡い方とだけ聞いています」
「修羅場の数が違うんだろうね」フィンが言った。「リヴァ、取って食われちゃうかも」
「……気を付ける」
東京駅だった。
新幹線のホームは人で混んでいた。
リヴァは黒のワンピースを着ていた。低いヒールのパンプスに、小さなハンドバッグ。法事帰りの姪という設定に寄せていた。髪は下で結んでいた。
人の多さに、リヴァの足が一瞬止まった。
音が多かった。アナウンス、足音、台車の車輪、子供の声。大きな音のひとつひとつに神経が勝手に反応した。
息をひとつ吸った。
藤村静江はすぐにわかった。
藍鼠の絽の着物。雑踏の中でその一画だけ空気が違った。指に、古い翡翠の指輪をしていた。
リヴァが近づいた。
彼女がリヴァを見た。
上から下まで、ゆっくり見た。
「……あんた、堅気やないね」
リヴァが止まった。
「叔母と姪やったか」女が口の端を上げた。「ええよ。乗ろ」
女が先に歩き出した。
リヴァが続いた。
少し後ろをカイが歩いていた。視線がリヴァの背中から離れなかった。
周囲の人間の手元を一人ずつ見ていた。コートの膨らみ。鞄の角度。歩く速度。
それと、リヴァの足の運びを見ていた。歩く速度をリヴァに合わせた。
さらに後ろをフィンが歩いていた。端末を触るふりをして全体を視界に入れていた。
グリーン車だった。
二人掛けの席。女が窓側に座った。リヴァが通路側に座った。
通路を挟んだ斜め後ろに、カイが座った。フィンは車両のいちばん端の席だった。
新幹線が動き出した。
しばらく、女は外を見ていた。東京のビルが後ろに流れていった。
リヴァは観察していた。車内の乗客。出入口。デッキの方。誰がいつ、どう動くか。
その合間に、指が膝の上で軽く握られていた。リヴァは息を浅く整えた。
「お嬢ちゃん」
女が言った。外を見たままだった。
「…何」
「さっきからずっと、人見てるやろ」
リヴァが止まった。
「そういう仕事や。わかってる」女がリヴァを見た。「でもな、もうちょっと力抜き。隣でそんな張り詰めてられたら、こっちが気疲れするわ」
「……気をつける」
リヴァは、膝の上の手を開いた。意識して開いた。指が少しだけ白くなっていた。
「気をつけるて」女が笑った。「ほんま可愛げないなあ、あんた」
女が煙草を取り出した。ピースだった。火はつけなかった。指の間で、もてあそんでいた。
「うち、怖いやろ?」
「別に」リヴァが答えた。
「なんで?」
「何もしてないから」
「そういう子か」
女は笑った。わざと声を押さえているように見えた。
「彼氏は?」
女が唐突に言った。
「………」
「どうなん」
「…いない」
「ほんまに?」女がリヴァを見た。「こんだけ別嬪で?」
「そういうのよくわからない」
女が少しリヴァを見た。
それから笑った。
「あんた嘘つかへん子やね」女が言った。「珍しいわ。最近おらんで。そういう子」
「嘘苦手」
「知ってる。顔に出てる」女が言った。「いや、出てへんからこそや。隠す気もないやろ」
リヴァは答えなかった。
斜め後ろで、カイが動いた。デッキの方からスーツの男が一人入ってきていた。カイの視線が男の手元を追った。
男は自分の席に座った。カイの視線がリヴァに戻った。
「好きな男もおらんの」
女が続けた。
「……わからない」
「またわからへんか」女が目を細めた。「ようさんおるやろ。あんたの周り。さっきの後ろのええガタイの兄ちゃんとか。その奥の外人とか」
フィンは本来悟られない位置でついてくるはずだった。
「……仲間」リヴァが言った。
「仲間ねえ」女が言った。「あんなん仲間がする目やないけどな」
リヴァが女を見た。
「ええわ。それで」女が言った。笑った。
新幹線がトンネルに入った。窓が暗くなった。暗くなった窓にリヴァの顔が映っていた。
女はその映ったリヴァの顔を見ていた。
窓越しに目が合って、リヴァは目をそらした。
名古屋を過ぎたあたりだった。
デッキの方に人影があった。
二人組だった。座席に着かずデッキに立っていた。一人が車両の中を覗いていた。
カイの体が動いた。
無線からフィンの声がした。
『カイ』
カイが止まった。
『座って』フィンが言った。『まだ何もない』
カイがデッキの二人を見ていた。
『喫煙室待ち。二分前から立ってる。動きが素人……ただ、視線だけ一回奥見た』
カイが座り直した。
「一回じゃない。奥を見たのは四回目だ。…リヴァは気づいてる」カイが言った。
『なら問題ない』フィンが言った。『座って』
デッキの二人はしばらくして喫煙室に入っていった。
何も起きなかった。
『続行』フィンが言った。
リヴァはそれを見ていた。見ているしかなかった。
「お嬢ちゃん」
女が言った。
「……」
「今の気づいてたやろ」女がデッキの方を顎で示した。「あの二人」
リヴァは一瞬息を止めた。喉が動いたが、言葉は出なかった。
「でも動かへんかった」女が言った。「あんたは見てるだけの役や」
女がリヴァの横顔を見た。
「しんどいやろ」
リヴァが止まった。
視線が、カイの方向に行きかけて止まった。
女がふっと笑った。
「私も煙草でも吸いにいこうかしら」
「え……」
「冗談」
女は、笑ってそれ以上何も言わなかった。
「……」
京都を過ぎた。
車内は静かだった。
「あんたこの仕事長いの」
「わからない」リヴァが言った。「覚えてない」
女は止まった。
そして、ゆっくりリヴァの顔を見た。
「…色々あったんやな」
リヴァは答えなかった。
女がリヴァの目を見た。
「あんたな」女が言った。「長持ちせえへんよ、そんな目でいたら」
リヴァが止まった。
「うちは、ようけ見てきた」女が言った。「うちの人もそうやった。あんたみたいな目しとった。先に何にも見てへん目や」
「……」
「そういう目の人間は、ある日ふっとおらんようになる」女が言った。「自分でも、気づかんうちにな」
リヴァは何も言えなかった。
カイの視線がリヴァの横顔に留まった。動かなかった。
リヴァは窓の外を見た。
女はそれ以上言わなかった。
また外を見た。
新大阪を過ぎて、長いトンネルに入った。
新神戸に着いた。
ホームに降りた。神戸の空気は、東京と少し違った。
セーフハウスは駅から車で十分ほどだった。古びたマンションだった。エレベーターが軋んだ。
部屋の前で、引き渡しが完了した。中で、別の人間が待っていた。女を迎えた。
任務は終わった。
何も起きなかった。一発の銃弾もなかった。
女が部屋に入って、振り返った。
リヴァを見た。
それから煙草を咥え、火をつけた。
「世話になったな、お嬢ちゃん」
「うん」
「礼に一個教えたるわ」女が言った。煙の向こうで目を細めていた。「貸し作ったままいうのも、寝覚め悪いしな」
リヴァが女を見た。
「ローマの連中が」女が言った。「近ごろおかしなもんに金出しとる」
「………?」
「日本の観測データ」女が言った。「うちの人が死ぬ前に言うとった。あっちのやつらが妙な取引しとるて」
リヴァが止まった。
「それ、何」
「さあな」女が言った。「うちも、そこまでは知らん」
女が煙草をもう一口吸った。
「でもな」女がリヴァを見た。「あんたら気をつけな」
「…」
「うちの人、それ調べ始めてから死んだ」
ドアが閉まった。
薄い煙草の匂いだけが残った。
帰りの新幹線だった。
三人で座っていた。
フィンは目を閉じていたが、指先だけが一定のリズムで動いていた。
カイは窓の外を見ていた。
リヴァは女の言葉を考えていた。考えても、答えは出なかった。
窓の外に、夜が流れていた。東京が近づいていた。
近づくにつれて、空気が重くなる気がした。
リヴァが言った。
「……今までで、いちばんつかれた」
その声を聞いて、フィンがリヴァを向いた。笑っていた。
「だろうね」フィンは言った。「面倒な相手だったでしょ」
「寝ろ」カイが言った。
リヴァは、窓に頭を預けた。
「銃撃戦の方が楽だ」フィンがつぶやいた。
新幹線が東京に入っていった。




