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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第八章「夜間係留 ― Night Mooring」

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任務疲れ

 


 東京拠点 二十一時四十五分。


 照明は半分落としていた。夜だった。マットの上には二人しかいなかった。


 カイとフィンが組んでいた。


 フィンが左で前に出た。打つと見せて、引いた。カイは乗らなかった。両手を顔の前に置いたまま、半歩下がった。


「相変わらず詰めてこないな」


 フィンが言った。息は乱れていなかった。


「必要ない」


 フィンがまた左を出した。カイの肘が勢いを殺した。フィンの右が脇に入りかけたが、カイの体が沈んで逃げた。


 二人が離れた。


「お前と組むと退屈なんだよ」フィンが笑った。


「悪かったな」カイが言う。


 フィンが構え直した。


「リヴァ、見たでしょ。帰りの新幹線」


 カイは答えなかった。


「窓に頭預けて爆睡」フィンが言った。「あんなに削れてたの、初めて見た」


 カイがジャブを払った。


 フィンが、少し間を置いた。


「リヴァさ」


 カイは反応しなかった。


「寝てる顔可愛いよね」


 カイの拳が、一瞬だけ止まった。


 フィンが見た。


「あ」


 少し笑った。


「止まった」


「止まってない」


 カイが左を払った。フィンがそれをいなした。


「カイってリヴァの話になると、機嫌悪くなる?」


「ならない」


「なるって」


 カイは答えなかった。


 フィンが笑った。


「今度、また誘おうと思って。次は夜に」


「何を」


「デート」


 カイが見た。


「…危険のない所なら、いい」


 フィンが吹いた。


 フィンがグローブの紐をほどいた。


「止めないんだ」


「なぜ止める」


「だってカイ」フィンが笑った。「嫌でしょ。俺が行くの」


 カイが、初めてフィンを正面から見た。


「俺は危険じゃない?」フィンが言った。


 カイは眉間に皺を寄せていた。


 フィンは答えを待った。カイは言わなかった。


「俺は欲しいよ」フィンが言った。


「何を」


「わかってるでしょ?」


 間が落ちた。


 空調の音だけが聞こえていた。


「カイは、違うの?」


 カイが黙った。


 カイがしばらくして口を開いた。


「リヴァは」少し間があった。「…追われると、逃げる」


 フィンが止まった。


「……知ってるみたいに言うね」


「知っている」カイが言った。


 フィンが、数秒黙った。


「へえ」


 少し笑った。


「そういうこと」


「何だ」


 カイが言った。


「いや」フィンが肩を竦めた。「やっと分かった」


「…」


「お前が、余裕な理由」


 カイは答えなかった。


 フィンがグローブを外した。


「だから、俺を止めないんだね」


 カイは答えなかった。


 フィンがまた笑った。


「リヴァが、お前を見る顔」


 少し間があった。


「俺の時と違うんだよ」


 カイは答えなかった。


「まあ、当然か」


 フィンが、グローブを床に放った。


「でもさ」


 カイを見た。フィンが続ける。


「安心されるだけじゃ、進まないんじゃない?」


 カイが下を向いた。ジムの床を見た。ゴムマットの端が曲がっているのが1箇所あった。


「俺は」カイが言った。「生きてさえいればいい」


 フィンが止まった。


 つられて、ゴムマットの端を見た。


 目を伏せたまま、フィンが笑った。


「…俺さ、負けず嫌いなんだよね」


「……」


「知ってるでしょ」フィンが顔を上げた。


 しばらく、どちらも喋らなかった。


 フィンがマットに座った。膝に腕を乗せた。


「ねえ」フィンが言った。「ビール、ある?」


「冷蔵庫」


「カイのおごりね」


「なぜ」


「余裕、あるんでしょ」


 カイが少しだけ笑った。


 フィンが缶を二つ持ってきた。一つを放った。カイが受けた。


 フィンが一口飲んだ。


 カイは自分の缶を見ていた。







 二十三時を過ぎていた。


 バーカウンターは、間接照明だけがついていた。ユキナガはカウンターの内側にいた。シェイカーもグラスも出していない。カッティングボードの上に、ライムが一つ。半分に切られたまま、置かれていた。


 リヴァは帰ってきて、シャワーも浴びずにソファで一度落ちて、ユキナガが声をかける前に、自分の部屋へ歩いていった。


 ユキナガはライムをラップに包んで、冷蔵庫に戻そうとした。


 足音がした。


「まだいたのか」ヴィクトルは言った。


 ダークボルドーのシャツ。袖を折っていた。


「ヴィクトルこそ」ユキナガはライムを手に持ったまま言った。


「一杯やりにきた」ヴィクトルはカウンターの椅子を引いた。「やってるか」


「閉店」


「つれないな、マスター」


「客いないし」ユキナガは笑った。


「俺がいる」


 ユキナガはライムを置いた。グラスを一つ、伏せた状態から起こした。


「何飲むの」ユキナガは言った。


「お前が飲ませたいものでいい」


「赤でいい?」


「じゃあそれだ」


 ユキナガがボトルを抜いた。コルクの音が、低く鳴った。グラスに注いだ。


 ヴィクトルがグラスを持ち上げた。色を見た。


 ユキナガはカウンターを布で拭いた。ライムの汁が、木目に少し染みていた。


 ヴィクトルが、その手元を見た。切ったライムと、出されないままのグラス。


「誰のだ」ヴィクトルは言った。


「何が」


「ライム」


 ユキナガの手が、一度止まった。


「リヴァ」ユキナガは言った。「帰ってきたら、一杯作ろうと思って」


「作らなかったのか」


「寝た」


「ああ」


「シャワーも浴びないで、ソファで落ちて、そのままカイに部屋に持ってかれた」ユキナガはライムを冷蔵庫に入れた。「声、かけらんなかった」


 ヴィクトルがワインを一口飲んだ。


「削れてたな」ヴィクトルは言った。


「うん」


「ああいう日は、寝かせるのが正解だ」


「……わかってるよ」


「本当にわかってるのか?」


 ユキナガがヴィクトルを見た。ヴィクトルはグラスの縁を、指でなぞっていた。


「作って、起こして、飲ませたかった」ユキナガは言った。


「そうだろうな」ヴィクトルが言った。「お前はそういう顔をしてる」


「どういう顔」


「世話を焼いて満足する男の顔じゃない」


「……」


 ヴィクトルがグラスを傾けた。


「もっと欲深いだろ。お前は本来」


「……」


 ユキナガは新しいグラスに、自分の分を少しだけ注いだ。赤ワインを口に含んだ。


「リヴァのこと、どう思ってんの」ユキナガは言った。


 ヴィクトルがユキナガを見た。煙草を口に運んで、火をつけた。ジッポの蓋が鳴った。煙を、天井へ吐いた。

 

 ユキナガは灰皿を出して、ヴィクトルの前に置いた。


「ヴィクトル、金あるし、余裕あるし、口説くの本職だし」ユキナガはグラスを置いた。「年も、俺より十一も上」


「それで?」ヴィクトルが少し笑っていた。


 ユキナガは答えなかった。グラスの底を、指で少し回した。


 ヴィクトルが、その手元を見た。


「お前はいつも、盤面で何が起きているか見えてないだけだ」ヴィクトルは言った。


 ユキナガが黙った。


 ヴィクトルが煙を吐いた。


「ヴィクトル」ユキナガは言った。


「なんだ」


「リヴァ、取らないでよ」


 ヴィクトルがユキナガを見た。グラスを、ゆっくり回した。


 赤色がゆっくり揺れた。


「聞いてる?」


 ヴィクトルが笑った。


「まるで俺が前科者みたいじゃないか」


 間があった。


 ユキナガが、煙草に火をつけた。


「前科者だろ」


「……」


「知ってるよ」


 ユキナガがヴィクトルを見ず、煙を吐いた。


「あんた本気だったじゃん」


 ヴィクトルがグラスを置いた。


 カウンターを見ていた。


 ヴィクトルは新しい煙草に火をつけた。


「あいつには、帰る場所があった」


 ユキナガは息をついた。


「安心しろ」ヴィクトルが言う。


「今はやらん」


「今は?」


 ユキナガが眉をひそめた。


「だが、お前達が大事にしなかったら知らん」


 赤ワインを飲みほした。


「あと、これは勘だが」ヴィクトルは続けた。「お前が勝手に負ける方が早い」


「は?」


 ユキナガが顔を上げた。


「迷ってる間に、誰かが動く」ヴィクトルは続けた。「俺とは限らない」


 ユキナガは、空いたグラスを見ていた。


 ヴィクトルが立ち上がった。Sobranieを灰皿に押し付けて、消した。


 椅子を戻した。


「明日、あいつに作ってやれ」


「うん」


「それとな」


「何」


「ライムだけじゃ勝てないぞ」


 ユキナガが顔を上げた。


 ヴィクトルは笑っていた。


「頑張れ」


 ヴィクトルが階段の方へ歩いていった。足音が遠くなった。


 ユキナガは、カウンターに残ったグラスを片付けた。自分の分の赤を、流しに捨てようとして、やめた。飲み干した。


 冷蔵庫を開けた。ラップに包んだライムが、棚の上にあった。


 ユキナガは照明を落とした。

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