任務疲れ
東京拠点 二十一時四十五分。
照明は半分落としていた。夜だった。マットの上には二人しかいなかった。
カイとフィンが組んでいた。
フィンが左で前に出た。打つと見せて、引いた。カイは乗らなかった。両手を顔の前に置いたまま、半歩下がった。
「相変わらず詰めてこないな」
フィンが言った。息は乱れていなかった。
「必要ない」
フィンがまた左を出した。カイの肘が勢いを殺した。フィンの右が脇に入りかけたが、カイの体が沈んで逃げた。
二人が離れた。
「お前と組むと退屈なんだよ」フィンが笑った。
「悪かったな」カイが言う。
フィンが構え直した。
「リヴァ、見たでしょ。帰りの新幹線」
カイは答えなかった。
「窓に頭預けて爆睡」フィンが言った。「あんなに削れてたの、初めて見た」
カイがジャブを払った。
フィンが、少し間を置いた。
「リヴァさ」
カイは反応しなかった。
「寝てる顔可愛いよね」
カイの拳が、一瞬だけ止まった。
フィンが見た。
「あ」
少し笑った。
「止まった」
「止まってない」
カイが左を払った。フィンがそれをいなした。
「カイってリヴァの話になると、機嫌悪くなる?」
「ならない」
「なるって」
カイは答えなかった。
フィンが笑った。
「今度、また誘おうと思って。次は夜に」
「何を」
「デート」
カイが見た。
「…危険のない所なら、いい」
フィンが吹いた。
フィンがグローブの紐をほどいた。
「止めないんだ」
「なぜ止める」
「だってカイ」フィンが笑った。「嫌でしょ。俺が行くの」
カイが、初めてフィンを正面から見た。
「俺は危険じゃない?」フィンが言った。
カイは眉間に皺を寄せていた。
フィンは答えを待った。カイは言わなかった。
「俺は欲しいよ」フィンが言った。
「何を」
「わかってるでしょ?」
間が落ちた。
空調の音だけが聞こえていた。
「カイは、違うの?」
カイが黙った。
カイがしばらくして口を開いた。
「リヴァは」少し間があった。「…追われると、逃げる」
フィンが止まった。
「……知ってるみたいに言うね」
「知っている」カイが言った。
フィンが、数秒黙った。
「へえ」
少し笑った。
「そういうこと」
「何だ」
カイが言った。
「いや」フィンが肩を竦めた。「やっと分かった」
「…」
「お前が、余裕な理由」
カイは答えなかった。
フィンがグローブを外した。
「だから、俺を止めないんだね」
カイは答えなかった。
フィンがまた笑った。
「リヴァが、お前を見る顔」
少し間があった。
「俺の時と違うんだよ」
カイは答えなかった。
「まあ、当然か」
フィンが、グローブを床に放った。
「でもさ」
カイを見た。フィンが続ける。
「安心されるだけじゃ、進まないんじゃない?」
カイが下を向いた。ジムの床を見た。ゴムマットの端が曲がっているのが1箇所あった。
「俺は」カイが言った。「生きてさえいればいい」
フィンが止まった。
つられて、ゴムマットの端を見た。
目を伏せたまま、フィンが笑った。
「…俺さ、負けず嫌いなんだよね」
「……」
「知ってるでしょ」フィンが顔を上げた。
しばらく、どちらも喋らなかった。
フィンがマットに座った。膝に腕を乗せた。
「ねえ」フィンが言った。「ビール、ある?」
「冷蔵庫」
「カイのおごりね」
「なぜ」
「余裕、あるんでしょ」
カイが少しだけ笑った。
フィンが缶を二つ持ってきた。一つを放った。カイが受けた。
フィンが一口飲んだ。
カイは自分の缶を見ていた。
二十三時を過ぎていた。
バーカウンターは、間接照明だけがついていた。ユキナガはカウンターの内側にいた。シェイカーもグラスも出していない。カッティングボードの上に、ライムが一つ。半分に切られたまま、置かれていた。
リヴァは帰ってきて、シャワーも浴びずにソファで一度落ちて、ユキナガが声をかける前に、自分の部屋へ歩いていった。
ユキナガはライムをラップに包んで、冷蔵庫に戻そうとした。
足音がした。
「まだいたのか」ヴィクトルは言った。
ダークボルドーのシャツ。袖を折っていた。
「ヴィクトルこそ」ユキナガはライムを手に持ったまま言った。
「一杯やりにきた」ヴィクトルはカウンターの椅子を引いた。「やってるか」
「閉店」
「つれないな、マスター」
「客いないし」ユキナガは笑った。
「俺がいる」
ユキナガはライムを置いた。グラスを一つ、伏せた状態から起こした。
「何飲むの」ユキナガは言った。
「お前が飲ませたいものでいい」
「赤でいい?」
「じゃあそれだ」
ユキナガがボトルを抜いた。コルクの音が、低く鳴った。グラスに注いだ。
ヴィクトルがグラスを持ち上げた。色を見た。
ユキナガはカウンターを布で拭いた。ライムの汁が、木目に少し染みていた。
ヴィクトルが、その手元を見た。切ったライムと、出されないままのグラス。
「誰のだ」ヴィクトルは言った。
「何が」
「ライム」
ユキナガの手が、一度止まった。
「リヴァ」ユキナガは言った。「帰ってきたら、一杯作ろうと思って」
「作らなかったのか」
「寝た」
「ああ」
「シャワーも浴びないで、ソファで落ちて、そのままカイに部屋に持ってかれた」ユキナガはライムを冷蔵庫に入れた。「声、かけらんなかった」
ヴィクトルがワインを一口飲んだ。
「削れてたな」ヴィクトルは言った。
「うん」
「ああいう日は、寝かせるのが正解だ」
「……わかってるよ」
「本当にわかってるのか?」
ユキナガがヴィクトルを見た。ヴィクトルはグラスの縁を、指でなぞっていた。
「作って、起こして、飲ませたかった」ユキナガは言った。
「そうだろうな」ヴィクトルが言った。「お前はそういう顔をしてる」
「どういう顔」
「世話を焼いて満足する男の顔じゃない」
「……」
ヴィクトルがグラスを傾けた。
「もっと欲深いだろ。お前は本来」
「……」
ユキナガは新しいグラスに、自分の分を少しだけ注いだ。赤ワインを口に含んだ。
「リヴァのこと、どう思ってんの」ユキナガは言った。
ヴィクトルがユキナガを見た。煙草を口に運んで、火をつけた。ジッポの蓋が鳴った。煙を、天井へ吐いた。
ユキナガは灰皿を出して、ヴィクトルの前に置いた。
「ヴィクトル、金あるし、余裕あるし、口説くの本職だし」ユキナガはグラスを置いた。「年も、俺より十一も上」
「それで?」ヴィクトルが少し笑っていた。
ユキナガは答えなかった。グラスの底を、指で少し回した。
ヴィクトルが、その手元を見た。
「お前はいつも、盤面で何が起きているか見えてないだけだ」ヴィクトルは言った。
ユキナガが黙った。
ヴィクトルが煙を吐いた。
「ヴィクトル」ユキナガは言った。
「なんだ」
「リヴァ、取らないでよ」
ヴィクトルがユキナガを見た。グラスを、ゆっくり回した。
赤色がゆっくり揺れた。
「聞いてる?」
ヴィクトルが笑った。
「まるで俺が前科者みたいじゃないか」
間があった。
ユキナガが、煙草に火をつけた。
「前科者だろ」
「……」
「知ってるよ」
ユキナガがヴィクトルを見ず、煙を吐いた。
「あんた本気だったじゃん」
ヴィクトルがグラスを置いた。
カウンターを見ていた。
ヴィクトルは新しい煙草に火をつけた。
「あいつには、帰る場所があった」
ユキナガは息をついた。
「安心しろ」ヴィクトルが言う。
「今はやらん」
「今は?」
ユキナガが眉をひそめた。
「だが、お前達が大事にしなかったら知らん」
赤ワインを飲みほした。
「あと、これは勘だが」ヴィクトルは続けた。「お前が勝手に負ける方が早い」
「は?」
ユキナガが顔を上げた。
「迷ってる間に、誰かが動く」ヴィクトルは続けた。「俺とは限らない」
ユキナガは、空いたグラスを見ていた。
ヴィクトルが立ち上がった。Sobranieを灰皿に押し付けて、消した。
椅子を戻した。
「明日、あいつに作ってやれ」
「うん」
「それとな」
「何」
「ライムだけじゃ勝てないぞ」
ユキナガが顔を上げた。
ヴィクトルは笑っていた。
「頑張れ」
ヴィクトルが階段の方へ歩いていった。足音が遠くなった。
ユキナガは、カウンターに残ったグラスを片付けた。自分の分の赤を、流しに捨てようとして、やめた。飲み干した。
冷蔵庫を開けた。ラップに包んだライムが、棚の上にあった。
ユキナガは照明を落とした。




