息をする場所
拠点、午前九時三十分。
リヴァがトレーニングルームのドアを開けた。
蛍光灯の白い光。鉄とゴムの匂い。空調が一定の音を立てていた。
カイがいた。
ベンチプレスだった。バーを胸まで下げて、押し上げる。均等な動作だった。プレートが重かった。
フィンがカウンター横の壁に背をもたれて水を飲んでいた。こちらを見た。
「おはよ、リヴァ」
「おはよう」
カイが目だけ動かした。
「走りに来たか」
「うん」
リヴァはランニングマシンに向かった。速度を設定した。走り始めた。
リヴァは走りながら、無意識に入口と鏡越しの死角を見ていた。
フィンがカイのセットを見ていた。
「カイ、次何キロ上げるの」
「120」
「最大は」
「140」
フィンが少し止まった。水のボトルを持ったまま、バーのプレートを見た。
「俺もそれで行く」
「お前には重い」
「100からやる」
フィンが隣のベンチプレスのバーにプレートを足した。100キロになった。ベンチに仰向けになった。バーを握った。
セーフティがついているかカイは一度確認した。
一回、あげた。
バーを戻した。
立ち上がった。
「140は」カイが聞いた。
「……今日はいいや」
カイが少し口角を動かした。
カイがベンチプレスに戻った。
バーがラックに戻るたび、金属音が低く響いた。
フィンはその重量を見て目を逸らした。
フィンが懸垂バーに移動した。跳んで掴んだ。引き上げた。
リヴァが走りながら、フィンの左腕を見た。
Tシャツの袖がまくれていた。
肩の下、二の腕の外側に、太陽があった。線で描かれた、シンプルな図案の刺青だった。その下に、細い文字が並んでいた。読めなかった。
「フィン、それなに」
走りながら言った。
フィンが自分の左腕を見た。
「ああ、これ」
「下の」
「ラテン語。セネカだよ」
「誰それ」
「ローマの哲学者」
それ以上何も言わなかった。
フィンが懸垂しながら言った。
「寒くない、ここ」
「効いてていい」カイが答えた。
「俺は寒い。リヴァ寒くない?」
「私は走ってるから」リヴァが言った。少し息が上がっていた。
「動け」
「動いてるじゃん」フィンが言った。「懸垂してる」
カイが何も言わなかった。
フィンが床に降りた。腕を振った。肩をほぐした。
リヴァがフィンを横目で見た。走りながら言った。
「フィンも筋肉すごいね」
「ピアノ弾いてたから」
「ピアノで?」
「なるなる。鍵盤重いし」
フィンが笑った。リヴァも笑った。
カイが懸垂バーに移動した。掴んだ。引き上げた。
カイの背中が、引き上げるたびに収縮した。
見ながら、フィンが言う。
「その肩幅ずるいよな」
「鍛えろ」
「やってんだよ」
リヴァが走っていた。
空調が、一定の音を立てていた。
「アルノとか、ジム、使わないのかな」リヴァが言った。息が切れていた。
「見たことない」カイが言った。
「運動したらちょっとは健康的なのにな」フィンが言った。
「オラヴルはたまに見る。ユキナガは、稀に。…ヴィクトルはしょっちゅういる」
「そう言えば、この間カラムがのぞいてた」フィンが言った。
「カラムは誰かいると入ってこない」
フィンとリヴァが笑った。
「ほとんどカイの部屋だもんねここ」リヴァが言った。
しばらくして、フィンが壁際の棚を開けた。
シェイカーを出した。粉を計量スプーンで丁寧に量った。一杯、すり切り。粉をならした。水を正確に入れた。フタを閉めた。
「それ、俺のだ」カイがシェイカ―を見ながら言った。
「洗った」
「そういう問題じゃない」
フィンは無視して振った。カイが小さくため息を零した。
「カイのも作るからさ」
「いい」
フィンがシェイカーを振り続けた。
リヴァの方を向いた。
「リヴァは?何味がいい」
リヴァが走りながら少し考えた。
「いちごまだありそう?」
フィンが棚を開けた。ラベルを確認した。
「チョコ、バニラ、ストロベリー」
「ストロベリー」
「子供舌」
「ほかの美味しくないんだもん」
「まあ一番マシだな」
また丁寧に量った。すり切り一杯。水を正確に入れた。
リヴァの分のフタを閉め、両手にそれぞれのシェイカーを持って同時に振った。
そしてリヴァのランニングマシンにリヴァの分を置いた。
「はい」
「ありがとう」
カイが懸垂を終えて床に降りた。
フィンが自分のシェイカーを一口飲んだ。
カイが水を飲んだ。
空調とリヴァの足音が、まだ一定の音を立てていた。
その日。夜十時を過ぎていた。
リヴァは地下のシミュレーション射撃を終えた。装備を片付けて、階段を上がった。
共用スペースに戻る途中、バーの方から低い音楽が聞こえた。
ドアの隙間から、暖色の灯りが漏れていた。
覗いた。
カラムがいた。
ソファに長い脚を投げ出していた。Tシャツ一枚だった。茶髪が肩から流れていた。アンバーの瞳が、半分閉じていた。
その横に、アルノがいた。
白いシャツの袖を肘まで折っていた。テーブルの上に、シーシャの道具を几帳面に並べていた。ホース、トング、炭の缶、フレーバーの瓶が三つ。
二人とも、喋っていなかった。
カラムが炭を熾していた。小さなトーチを使っていた。無言だった。
カラムが炭を感覚で置いた。
アルノが数秒後、無言で位置を直した。
水パイプから、白い煙が薄く上がっていた。バーの暖色の灯りに、煙が溶けていた。
リヴァはドアを開けた。
「なにやってるの」
カラムが顔を上げた。半分閉じた瞼の奥のアンバーが、リヴァを見た。
「シーシャ」
「どうぞ」アルノが言った。テーブルから目を上げずに。
リヴァが少し迷ってから、入った。
カラムの隣のソファに座った。革が少し冷たかった。
カラムが何も聞かずに、もう一本のホースをリヴァに差し出した。
「ダブルアップル」
リヴァが一口吸った。
甘かった。りんごの匂いと、何か別の匂いが混じっていた。高円寺で吸ったものより、深かった。
ゆっくり吐いた。
白い煙がバーの灯りの中に広がった。
「……おいしい」
カラムが少し目を細めた。
誰も喋らなかった。
水パイプの水が、吸うたびに低い音を立てた。
アルノがホースを取った。ダブルアップルにローズを少し混ぜていた。
一口吸った。煙を、ゆっくり吐いた。
その煙が、カラムの煙と、リヴァの煙と、低い天井の下で、混ざった。
「シーシャ、いつから吸ってるの」リヴァがカラムに聞いた。
カラムが少し間を置いた。
「八歳くらい」
リヴァが一瞬止まった。アルノも動かなかった。
それ以上、聞かなかった。
カラムも続けなかった。
水パイプの音が、また鳴った。
シーシャの煙だけが、灰皿の上の空気を漂っていた。
アルノが左手でピンセットを操り、その後左手でライターを点火した
カラムがそれを見ていた。
アルノが視線に気づいた。
「على شو تطالع؟」
リヴァが眉を顰めた。アルノが歌でも始めたかと思った。
「إيدك الشمال.」
「نعم؟」
「بتكتب فيها كمان؟」
「كل شي باليسار.」
リヴァが首を傾げた。
「…悪口…?」
「ちがう」カラムが言った。
カラムがホースを取り直した。一口吸った。煙を長く吐いた。
リヴァの方を向いた。
「日本の夏、べたべたする」
アルノが少し間を置いた。
「ベイルートも湿度は高かったはずです」
「ベイルートは海風ある」
「東京も海は」
「東京の海、遠い」
アルノが何か言いかけた。眼鏡の位置を直そうとした。指が止まった。
「……はい」
カラムがダブルアップルを一口吸った。
煙を吐いた。
「ドバイは乾燥していました」アルノが言った。
「夏でも夜は涼しいって聞いた」カラムが言う。
「砂漠の夜は冷えます」
「ベイルートは違う」
「…はい」
水パイプの水が、また鳴った。
二人とも、自分の話したい街の話だけしていた。
「何の話してるの、二人とも」リヴァが言った。
カラムとアルノが、止まった。
二人とも同時にリヴァを見た。
数秒、誰も何も言わなかった。
アルノが眼鏡を押し上げた。
「……シーシャの話です」
「ほんとに?」
「これからします」
カラムが声を出さない笑い方をした。アルノは笑わなかった。
でも、眼鏡の奥の目が、少しだけ和んでいた。
しばらく、また誰も喋らなかった。
カラムが脚を組み替えた。長い脚が、ソファの上で少し動いた。
アルノがピンセットで炭の位置を変えた。
リヴァはホースを両手で持っていた。
ゆっくり吸った。
今度は、少しむせた。
咳が出た。
カラムが目だけ動かした。
アルノが無言で、テーブルの水のグラスを取った。
リヴァの前に置いた。片手を、リヴァの背中に置いた。
タイミングが早かった。
カラムが、それを横目で見た。
目線が、グラスからアルノに動いた。
動いて戻った。
何も言わなかった。
リヴァが水を一口飲んだ。
「ありがとう」
アルノがグラスから手を引いた。
カラムがホースを取った。また吸った。煙を吐いた。
バーの灯りが、煙の中で、少しだけ滲んだ。
しばらくして、カラムが言った。ソファに沈んでいるみたいに座っていた。
「アルノ」
「はい」
「シーシャ、いつ用意したの」
「あなたが好きと言ってたので」
「アルノが欲しかったんじゃ、なくて?」
「………」
アルノが少し止まった。
「こういう日があっても、いいでしょう」
カラムが少し笑った。
二人が、同時に一口吸った。
カラムの煙は長く残った。
アルノの煙は、まっすぐ消えた。
リヴァが膝を抱えた。
バーの暖色の灯りが、足元に落ちていた。
ここにいる二人が、何も求めていない感じがした。
それが、よかった。
「私、寝るね」
「うん」カラムが言った。
「おやすみなさい」アルノが言った。
リヴァが立ち上がった。ホースをテーブルに戻した。
ドアの方に歩いた。
ドアを開けた。閉めた。
バーに、カラムとアルノが残った。
「沖縄では、迷惑をかけました」
「……」
「フィンから聞きました。尽力してくれたと」
「…ホテル代の分、働いただけ」カラムが言った。
「外部協力費は振り込みました。危険区域加算と偵察分等も含めて」
「……見てない」
「石垣と与那国は経費です。那覇以降の宿泊分だけ、報酬から引いてあります」
しばらく二人とも、ホースを持ったまま、何も言わなかった。
水パイプの水が、また低く鳴った。
カラムが煙を吐いた。
アルノも、煙を吐いた。
「يسلمو إيديك على الشيشة.(シーシャありがと)」
「ولو، في الخدمة.(礼には及びません)」
二人の煙が、また天井の下で混ざった。
”Hal” / Yasmine Hamdan




