部屋割り
水上機が島の桟橋に横付けされたのは、午後三時を回った頃だった。
エンジン音が止まると、急に音がなくなった。波が桟橋の杭を打つ音、遠くで鳥が一度だけ鳴いた音。それだけだった。
潮の匂いがした。
リヴァが先にハッチから出た。
薄緑のワンピース、丈は足首まであった。足元はフラットなレザーサンダル。肩に薄い麻のショールをかけていた。白い麦わら帽子をかぶっていた。
「リヴァ」
カイの声がすぐ後ろから聞こえた。
「大丈夫」リヴァは言った。
「持つ」
カイがリヴァのキャビンバッグを既に肩にかけていた。リヴァが返事をする前だった。カイ自身のダッフルバッグはもう片方の肩にかけている。
黒のリネンシャツの袖を肘までまくり上げ、グレーのリネンパンツ、サンダル。サングラスを胸ポケットに引っ掛けていた。
続いてアルノが降りてきた。
チャコールグレーのリネンスーツ、ノーネクタイ。襟元のボタンを一つ開けている。
桟橋で、二人が待っていた。
イーサンとレッドだった。二人ともサングラスをかけていた。
レッドはカーキのチノショーツに、洗いざらしの白シャツ。袖を二回折り上げて、前腕の日焼けが見えていた。革のサンダルだった。テキサスでは見たことのない格好だった。
イーサンはオリーブグリーンのカーゴショーツに、グレーのTシャツ。シャツの袖が、相変わらず腕にほぼ満杯だった。
「リヴァ」レッドはサングラスを上げた。「久しぶりだ。元気そうだな」
「うん」
「テキサスの時より顔色いいぞ」
「テキサスは寝てなかったから」
「そりゃそうだ」レッドが笑った。「教官のせいでな」
イーサンが一歩前に出た。サングラスをしていた。
「リヴァ」
「久しぶり」
「ああ」
イーサンの視線がリヴァの肩で一度止まり、足元の歩き方を一秒見て、それから顔に戻った。確認していた。
カイがイーサンを見た。視線が長かった。
イーサンがカイを見返した。一秒だけだった。
二人が同時に視線を外した。
レッドがその間に挟まる位置に立っていた。意図的かどうかはわからなかった。苦笑いしていた。
ユキナガがハッチから出てきた。
「うっわ」
ユキナガは桟橋の上で止まった。黒のリネンシャツ、黒の短パン。首にヘッドホン。ビーチサンダルに履き替えていた。
「あっつ」
「湿度やばい」フィンがその後ろから出てきた。
フィンは半袖のアロハを着ていた。パイナップルの柄だった。レザーのスポーツサンダル。腕の古傷が見えた。サングラスをかけていた。
最後にカラムが降りてきた。
黒のリネンシャツに、黒のリネンパンツ、黒のローファー。完全に黒。三十二度の南国で完全に黒。
「カラム、暑くないの」フィンが言った。
「…暑い」
Rothmansを指で回しながら桟橋を歩いた。火はついていなかった。
桟橋の上で、レッドが先に動いた。
「フィン・ハクスリーだろ」
「うん」
「レッドだ。よろしく。アルカ入り、ようこそだ」
「ありがとう、レッド。話は聞いてる」
「なんて?」
「馬鹿力って」
レッドは笑って握手をした。レッドの手は分厚く、フィンの手は綺麗だった。
流れるように握って、流れるように離した。近距離戦闘員同士の距離感が、両方とも自然だった。
次にイーサンがフィンに手を差し出した。
「イーサン、歓迎する」
「フィン。よろしく」
短かった。両方とも、それで十分な顔をしていた。
ユキナガが二人の前に立った。
「あー…ユキナガ。よろしく」珍しくユキナガが英語に切り替えた。
「ああ」レッドが言った。
「あんたが鬼教官?」ユキナガがイーサンを見た。
「……俺か」
「リヴァから聞いた。訓練の時、鬼だったって」
イーサンは何も言わなかった。否定もしなかった。
「俺も鬼だったぞ」レッドが横から言った。
「…うそだ」
「嘘じゃない」
「優しい顔して鬼?」
「優しい顔は素だ。鬼も素だ」
「それ両立する?」
「テキサスではする」
「テキサスなんでもアリじゃん」
ユキナガがレッドと握手した。レッドの握り方が一回り強くて、ユキナガが「いた」と短く言った。
レッドが「アメリカの握手だ」と言って、ユキナガが「アメリカ嫌い」と返した。
大人の挨拶として、それぞれが流れた。
最後にレッドがカラムの方に手を差し出した。
「カラム」
「……」
「レッドだ」
カラムは答えなかった。
Rothmansを指で回していた。火はついていなかった。
視線だけが、レッドの手に落ちた。
握手を見る目じゃなかった。
距離を見る目だった。
レッドが少しだけ眉を動かした。
「……」
三秒。
海風だけが通った。
それからカラムが、ようやくレッドを見た。
「……触る必要、ある?」
声は静かだった。
でも少しだけ空気が冷えた。
ユキナガが横で、わずかに視線を動かした。
イーサンはサングラスを少し下げて、カラムを見た。
一秒。
また戻した。
レッドが差し出した手を引く。
「……了解」
桟橋の終わりに、島のスタッフが二人並んでいた。白いリネンの制服。女性と男性。男性の方は、シャツの下に薄くホルスターのラインがあった。武装スタッフだった。
二人が小さく頭を下げた。
ヴィクトルが先に進んだ。生成りのリネンスーツに、ボルドーのシャツはノータイで二つ開けていた。
「レーダーは島に四基。半径五キロ」ヴィクトルが歩きながら言った。
砂浜に建てられた小さな看板に、”NO SHOES NO NEWS”と書いてあった。
「これどういう意味」ユキナガが指さした。
「靴を脱いで、情報を遮断しろってこと」フィンが言った。
「靴はいいとして、ノーニュースは無理だろ」ユキナガが即座にポケットの端末に手をやった。
ヴィクトルが続けた。
「桟橋はここ一つ。緊急ボートは反対側の入江だ。通信は俺のフランス側と繋がってる」
「結構です」アルノが言った。
「確認しないのか」
「業務上、信用しています」
「業務外でも信用してくれ」
「業務外のあなたは別の生き物ですから」
レッドが横で笑った。
「あと、島の北側にテニスコートが一面ある」ヴィクトルが続けた。「プールも各コテージについてる。好きに使え」
リヴァが少しだけ顔を上げた。ヴィクトルがそれを見て、満足そうな顔をした。
砂の小径が、桟橋からロッジまで伸びていた。両側にハイビスカスとブーゲンビリアが咲いていた。
砂は白すぎて、目が痛いほどだった。足の裏で柔らかかった。
ロッジに入った瞬間、空気が変わった。
茅葺き屋根の高い天井、チーク材の柱、ガラス壁の向こうにラグーンが広がっていた。空の色を吸い込んだような青だった。
ロビーの中央に低いソファが二つ。テーブルの上に冷たいタオルとウェルカムドリンクが用意されていた。淡いピンクの飲み物。ハイビスカスとライムだった。
「リヴァ」カイが言った。
目線でソファを指した。
リヴァが座った。カイがソファの後ろに立った。
ヴィクトルが反対側のソファに足を組んで座った。
「お前らも座れ」ヴィクトルが言った。「立っているとスタッフが落ち着かない」
ユキナガがソファに沈んだ。
フィンはリヴァの隣に座った。「リヴァ、飲み物。冷たいよ」
「うん、飲む」
リヴァが受け取った。フィンは自分の分も持って、ハイビスカスの香りを嗅いだ。
「いい匂い」
カラムは壁際を選んだ。背中に何もない壁。窓のない壁。
イーサンも壁際を選んだ。カラムと反対側の壁。
二人のスナイパーが、それぞれ別の壁で、それぞれの射線を確認していた。互いに目も合わせなかった。
レッドがそれを見て、小さく笑った。
「あの二人、合うのか合わないのかわからんな」
「合わないでしょう」アルノが端的に言った。
「二人ともなんか守衛さんみたい」リヴァが笑った。
イーサンが何も言わずに飲み物を一口飲んだ。
カラムも何も言わずにRothmansを指で回した。
ヴィクトルがソファから言った。
「今夜のディナー、楽しみにしとけ」
「内容は」アルノが言った。
「まだ秘密だ」
ヴィクトルが笑った。
「きっとやばい」ユキナガがフィンとリヴァに言った。
「ヴィクトルが言うくらいってことは」リヴァが言う。
「噂のロブスターとフィレ肉だ」フィンが言った。
ヴィクトルは何も答えなかった。代わりに、笑っていた。
スタッフが進み出た。
島には四棟のコテージがある。二人部屋が二棟、三人部屋が二棟。桟橋の先に並んでいる、という説明だった。丁寧な英語で、笑顔を保ったまま話した。
説明が終わる前に、レッドが口を開いた。
「リヴァは二人部屋を一人で使えばいいな」
当然の顔だった。提案ではなかった。
「はい」アルノが言った。
室内の空気が、一拍、止まった。
カイがレッドを見た。何か言いかけた。言葉が出なかった。
アルノが眼鏡のブリッジを押し上げた。
「俺がイーサンと二人部屋に入る。残りはくじでも引け」
レッドがそう続けた。
間があった。
イーサンが、わずかに眉を動かした。
「……何故」
レッドがイーサンを見た。
「テキサス組だ」レッドが両手を広げた。
「俺も引く。レッドのいびきがうるさくて眠れない」
短かった。
レッドが少し笑った。否定しなかった。
「つれないな」
イーサンは何も言わなかった。
スタッフが折りたたんだ紙片を八枚持ってきた。AとBとCが書いてあった。Aだけ二枚、BとCが三枚ずつ。
レッドが先に引いた。
「A」
イーサンが引いた。
紙を開いた。
一秒、止まった。
「……A」
レッドが「よろしくな」と言った。
イーサンが紙をテーブルに置いた。何も言わなかった。紙を見ていた。
ユキナガが「ご愁傷様」と小さく言った。
イーサンがユキナガを見た。
「鬼教官」ユキナガが視線を外した。早かった。
フィンが引いた。「Bだ」
フィンが顔を上げた。
「お、誰と一緒?」
ヴィクトルが引いた。「B。俺だ」
「よろしく」フィンが笑った。屈託がなかった。
ヴィクトルがフィンを一秒見た。Sobranieを口の端に移した。
カラムが引いた。紙を開いた。
「……俺もB」
カラムがフィンを見た。フィンを見て、ヴィクトルを見た。
それから、窓の外を見た。
海だった。
フィンが「カラムよろしく」と言った。
「……大丈夫か、これ」ヴィクトルが言った。
「大丈夫大丈夫」フィンが静かに言った。「たぶん」
カラムは、まだ窓の外を見ていた。
残ったのは、カイ、アルノ、ユキナガだった。Cのコテージに決まった。
ヴィクトルがその三人を一瞬見た。Sobranieの煙を、長く、海の方に吐いた。
リヴァはウェルカムドリンクを一口飲んでいた。
水上に伸びる桟橋を、九人が歩き始めた。
両側がラグーンになった。水は信じられないほど透明で、サンゴ礁の影と、その間を泳ぐ青と黄色の魚が肉眼ではっきり見えた。深さは三メートルほどだった。底まで見えた。
「うわ」ユキナガが言った。「魚いる」
「めっちゃいる」フィンが言った。
リヴァは縁を歩いていた。サンダルを脱いで素足だった。
フィンがリヴァの反対側に並んでいた。
「リヴァ、足元気をつけて」
「うん」リヴァが少し笑った。
カイが視線を一度だけそちらに向けて、また前を見た。
桟橋の途中で、コテージが見えてきた。
四棟が、間隔を空けて、海の上に浮いていた。手前に二人用が二棟。奥に三人用が二棟。それぞれが独立した桟橋で繋がっていた。
「あとで」フィンが言った。
「うん」
リヴァが分岐に入った。素足のまま、自分の桟橋を歩いた。
残りの八人が、もう少し先に進んだ。
リヴァが自分の部屋の扉を開けた。
風が通り抜けた。
天井が高かった。茅葺きの梁が剥き出しで、大きなファンがゆっくり回っていた。壁の一面が全面ガラスで、デッキの向こうに海が広がっていた。ラグーンの色が、夕方の光を吸って、橙と青の間で揺れていた。
床はチーク材だった。所々にガラスの嵌め込みがあって、覗き込むとサンゴと魚が見えた。リビングには白いリネンのソファが二つ。ラタンのサイドテーブル。薄いカーテンが海風に揺れていた。
奥にベッドルームがあった。クイーンサイズのベッドが一つ。シーツが、まだ整えられたままだった。
リヴァはキャビンバッグを玄関の脇に置いた。
デッキのガラス戸を開けた。海風が、まっすぐ部屋を通り抜けた。
リヴァは深呼吸した。
今は、任務がなかった。




